第1話
第1話「誰にも呼ばれぬ四月」
誰にも名前を呼ばれない春が、また来た。
四月の朝の空気はまだ薄く冷たくて、制服のブレザーの隙間から首筋に忍び込んでくる。通学路の桜は五分咲きで、花びらが一枚、鞄の肩紐に貼りついた。払い落とす手が、朝日の中でやけに白く見えた。始業式のあと、教室に戻る廊下を歩きながら、僕は自分の靴音だけを聞いていた。周りには同じクラスになったばかりの三十何人かがいて、あちこちで「久しぶりー」とか「同じクラスじゃん」とか声が飛び交っている。その声のどれひとつとして、僕に向けられたものはない。
三年二組。窓側の後ろから二番目。去年も一昨年も似たような席だった。席替えのくじ引きで何を引いても、結局こういう場所に落ち着く。教室の端っこ、窓と壁に守られた小さな領域。ここが僕の三年間だ。
窓の外では桜が咲いていた。グラウンドの向こうの並木が、風に揺れて花びらを散らしている。きれいだと思う。でもそれを誰かに言う相手がいないまま、僕はただ机にノートを出して、始業式のプリントを畳んだ。
「えーと、藤原。藤原遥斗、いるか」
担任の声が飛んできたのは、ホームルームが終わりかけた頃だった。窓際でぼんやり外を見ていた僕は、自分の名前が呼ばれたことに一拍遅れて気づいた。教室の何人かが「誰?」という顔でこっちを見た。三年目のクラス替えで、僕の名前を覚えている人間がこの教室に何人いるのか、正直わからない。
「はい」
「放課後、職員室に来い。ちょっと話がある」
それだけだった。周囲の視線はすぐに逸れた。僕が何か問題を起こすような人間じゃないことは、誰もが——というか、僕の存在を認識している数少ない人間なら——知っている。
放課後の職員室は、コーヒーとプリントのインクが混ざった匂いがした。ドアを開けた瞬間、暖房の残り香のような温もりが顔にぶつかって、廊下との温度差に一瞬まばたきをした。担任の宮本先生は、デスクの上に積まれた書類の山を片手でどかしながら、言いにくそうに口を開いた。眼鏡の奥の目がわずかに泳いでいて、頼みごとをする人間特有の気まずさがにじんでいた。
「お前、部活どこにも入ってないだろ」
「はい」
「映像研究部、知ってるか」
知らなかった。首を横に振ると、宮本先生は眉を寄せた。
「部員が二人しかいなくてな。三人いないと部活として存続できない。お前、名前だけでいいから入ってくれないか」
「名前だけ、ですか」
「活動しなくていい。顔も出さなくていい。ただ名簿に名前があればいい。このままだと廃部になるんだよ」
断る理由を考えようとした。でも、断る理由を探すこと自体が面倒だった。名前を貸すだけ。何も変わらない。三年間の最後の一年も、これまでと同じように透明に過ぎていくだけだ。
「……わかりました」
「助かる」
宮本先生が安堵の息をついた。手渡された入部届に名前を書いて、それで終わるはずだった。
「場所は東棟の三階、一番奥の部屋だ。今日、一回だけ顔を出してくれ。部員に紹介するから」
一回だけ、という言葉を信じて、僕は東棟に向かった。
東棟の三階は、普段使われていない特別教室が並ぶエリアだった。廊下の蛍光灯が一本切れていて、等間隔の明暗が床に縞模様を描いている。どこかの教室から水道の蛇口が締まりきっていない音が、ぽたり、ぽたり、と等間隔に響いていた。一番奥のドアには「映像研究部」と書かれたプレートが掛かっていたけれど、文字は色褪せて、テープの端が剥がれかけていた。
ドアを引くと、埃の匂いがした。それから、日に焼けた紙の匂い。窓から入る夕方の光が、空気中の細かい塵をゆっくりと照らし出していた。
古いパイプ椅子が壁際に積まれ、窓際のテーブルにはブラウン管のモニターが一台、電源コードを垂らしたまま放置されている。棚にはVHSテープのケースが並んでいたけれど、ラベルは黄ばんで読めない。この部屋がまともに使われていたのは、たぶん十年以上前だ。
「あ、来た」
テーブルの前に座っていたのは二人の生徒だった。ひとりは足を組んで椅子にもたれかかった男子で、もうひとりは窓際で文庫本を読んでいた女子。どちらも二年生のバッジをつけている。
「宮本先生から聞いてると思うけど、藤原です。三年の」
男子のほうが、くあ、と欠伸を噛み殺しながら手を挙げた。
「河合。二年。一応、部長ってことになってる」
窓際の女子が、文庫本から目を上げずに小さく言った。
「瀬尾。同じく二年」
それで終わりだった。歓迎も、自己紹介のやり直しも、活動内容の説明もない。河合はスマホに目を落とし、瀬尾は再び本の世界に戻った。
「俺らも名前だけなんで。活動とか特にないっす」
河合が画面をスクロールしながら、思い出したように付け足した。
「先輩も、置き物みたいなもんでしょ。まあよろしく」
置き物。その言葉は不思議なくらい正確だった。否定する気にもならない。僕はこの学校でずっと、そういうものだったから。
「よろしく」
パイプ椅子を一脚引き出して、三人目の置き物になった。座った瞬間、椅子の脚が軋んで、埃が舞った。春の風が、汚れた窓ガラスの隙間から細く吹き込んでくる。窓の外にはグラウンドが見えた。部活帰りの運動部の声が、遠く、低く聞こえていた。
あの声のなかに僕の名前が混ざることは、たぶんこの先もない。
十五分くらいで河合が「じゃ、帰りますか」と立ち上がり、瀬尾が黙って本を閉じ、三人で部室を出た。廊下の蛍光灯は相変わらず一本切れていて、僕の影が明暗の境目で二つに割れた。
昇降口で河合と瀬尾と別れた。「また来週」と河合が言ったけれど、その声には何の期待も含まれていなかった。瀬尾は小さく頭を下げただけで、文庫本を鞄にしまいながら校門のほうへ歩いていった。その背中を見送る必要もないので、僕は反対方向に歩き出した。
家までの帰り道、イヤホンで音楽を聴きながら歩いた。夕暮れの住宅街は静かで、猫が塀の上で丸くなっていた。電柱の影が長く伸びて、アスファルトの上にはしご状の影を並べている。どこかの家の台所から、味噌汁の匂いが漂ってきた。普通の帰り道。普通の夕方。普通の、透明な一日が終わる。
でも、夜が来ると、僕は透明じゃなくなる。
自分の部屋のドアを閉める。カーテンを引く。デスクライトだけを点けて、椅子に座る。二台のモニターが青白い光を放って、暗い部屋を染める。左のモニターには編集ソフトのタイムライン。右のモニターにはカラーグレーディングのプレビュー。この画面の前に座った瞬間、僕は藤原遥斗じゃなくなる。誰にも名前を知られていない高校三年生じゃなくなる。
キーボードに指を置く。タイムライン上の素材を一コマずつ動かす。映像が呼吸を始める。カットとカットの間に、ほんの零コンマ数秒の間を挟む。その間が、観る人の心臓の鼓動と同期する。感覚でわかる。理屈じゃない。何百時間も画面を見つめ続けた指先が、勝手に最適な位置を見つけ出す。
今編集しているのは、先月の雨の日に撮った三分間の映像だった。被写体は通学路の水たまりだけ。それだけの素材を、光の屈折と雨粒の波紋だけで一つの物語に組み上げる。音楽はつけない。雨音と、たまに通り過ぎる自転車のタイヤが水を切る音だけ。その引き算が正解だと、画面が教えてくれる。
二時間が一瞬で過ぎた。
伸びをして、ふと右下の通知アイコンが光っていることに気づいた。メールが一件。差出人は見慣れた英語のアドレスだった。
件名を読んで、指が止まった。
"Congratulations — Your submission has been shortlisted for the International Short Film Selection 2026."
海外映画祭のショートリスト。匿名で出した三分間の短編が、世界中の応募作から選ばれた。心臓が一度、強く打った。画面の文字を三回読み返した。スパムじゃないことを確かめるように送信元のドメインを確認し、公式サイトを開いて、自分の作品IDがリストに載っていることを目で見た。指先がかすかに震えていた。
画面の光が顔を照らしている。この部屋の外に出れば、僕はまた透明な藤原遥斗に戻る。教室で誰にも名前を呼ばれない、三年二組の窓際の置き物に。
モニターの向こうの世界と、教室の世界。その二つが交わることは、絶対にない。
——そう、思っていた。