第3話
第3話「音楽室ドア、三回引き返して」
音楽室のドアの前に立つまでに、三回引き返しかけた。
放課後の廊下は部活に向かう足音でざわついていて、私はその流れに逆らうみたいに四階への階段を上がった。誰かとすれ違うたびに、まるで悪いことをしに行く途中みたいな後ろめたさが背中に張りつく。別に悪いことなんかしていない。ただ、先輩に誘われたから来ただけ。それだけのことなのに、心臓は朝からずっと落ち着かなくて、四限目の数学なんてほとんど頭に入らなかった。
廊下の突き当たり、音楽室のドア。磨りガラスの向こうに人影が動いている。エレキギターのフレーズが漏れ聞こえてきて、昨日と同じ曲だと分かった。3弦は——今日は合っている。遥さんが直させたままだ。それだけで少し呼吸が楽になって、でもすぐに別の緊張が押し寄せてきた。
ドアノブに手を伸ばして、止まる。ノックするべきか、そのまま開けるべきか。そんなことすら分からない。部活の見学ってどうやるんだっけ。そもそも私は見学しに来たのか、遥さんに呼ばれたから来たのか、自分でもよく分かっていない。
中で演奏が止まった。誰かが笑った。低い声が何か言って、高い声が返す。ドアの向こうに、私の知らない空気がある。
「あ、来てくれた」
ドアが内側から開いた。遥さんだった。ベースを肩からかけたまま、片手でドアを押さえている。昨日と同じ柑橘系の匂い。目が合った瞬間、遥さんは子供みたいに笑って、私の手首を軽く引いた。
「紹介するね。昨日話した——」
「誰」
遥さんの声を遮ったのは、窓際に立っていた男の人だった。ギターを提げている。黒い髪が少し長くて、目つきが鋭い。制服のネクタイは緩めていて、袖を肘まで捲っている。紺色のリボンとネクタイだから遥さんと同じ三年生。声のトーンは低くて、平坦で、でも、怒っているときの平坦さだと分かった。空気の温度が二度くらい下がった気がした。遥さんに引かれたまま一歩踏み出していた足が、床に縫い止められたみたいに動かなくなる。
「朝霧蓮。うちのギターで、リーダー」
遥さんが私の後ろから紹介した。蓮、という名前。昨日、遥さんがスマホでメッセージを送っていた相手だ。
「で、そっちがドラムの桐谷楓、キーボードの白石凛」
ドラムセットの後ろにいた女の子が片手を上げた。ショートカットで、制服の上に赤いパーカーを羽織っている。小柄なのにドラムの前に座ると存在感がある。黄色のリボンだから二年生、同い年だ。
「よろしくー」
桐谷さんの声は軽くて明るかった。
キーボードの前に座っていた女の子は、軽く会釈だけしてすぐに鍵盤に目を戻した。白石凛さん。肩にかかるくらいの黒髪と、銀縁の眼鏡。黄色いリボン。表情が読みにくい人だった。
「それで?」
蓮さんの声が飛んできた。私ではなく、遥さんに向けている。
「昨日のチューニング、この子が教えてくれたの。3弦が半音低かったって」
「チューナーで合わせた」
「オクターブピッチがずれてたんだよ。開放弦だけじゃ分からないやつ」
遥さんは軽い口調で言ったけれど、蓮さんの眉間の皺が深くなった。ギターのネックを握る左手に力が入っているのが見えた。
「それで部外者を連れてきたのか」
「部外者って言い方やめなよ。ちゃんと助けてくれたじゃん」
「頼んでない」
空気が冷たくなった。桐谷さんがスティックを手の中でくるくる回しながら、何か言いたそうにしている。凛さんは鍵盤を見つめたまま動かない。遥さんだけが蓮さんの視線を正面から受け止めていて、二人の間にある温度差が、私にはほとんど物理的な壁みたいに感じられた。
蓮さんがこちらを向いた。目が合って、胃のあたりがきゅっと縮んだ。
「部外者に口出しされる筋合いはない。悪いけど帰ってくれ」
はっきりしていた。声に迷いがなかった。怒鳴っているわけじゃない。むしろ静かで、だからこそ余計に刃物みたいに真っ直ぐだった。
「蓮」
「遥、勝手に決めるな。これは俺のバンドだ」
「私のバンドでもあるんだけど」
「お前が拾ってきた人間を毎回そのまま入れてたらキリがないだろ。去年の——」
蓮さんが言葉を切った。何かを言いかけて、飲み込んだ。遥さんの表情が一瞬だけ曇って、でもすぐに元に戻った。
「……分かった」
私の声だった。自分でも驚くくらい落ち着いていた。落ち着いていたんじゃない、諦めるのに慣れているだけだ。グループ分けで余ったとき、誰かの輪に入れてもらえなかったとき、毎回こうやって、傷つく前に自分から引く。その動作だけは、誰よりも滑らかにできる。
「すみません、邪魔しました」
遥さんが何か言おうとした。でも私はもう踵を返していた。ドアノブを掴む。冷たい。屋上のフェンスとは違う冷たさ。あっちは空に繋がっているけど、こっちは閉じている。出る側のドアは、いつだって簡単に開く。
「ちょっと待ちなよ」
桐谷さんの声が背中に当たった。振り返らなかった。振り返ったら、何か期待してしまいそうだったから。
廊下に出て、ドアを閉めた。
磨りガラスの向こうで、遥さんの声が蓮さんに何か言っている。言葉は聞き取れない。聞き取ろうとしなかった。足早に廊下を歩いて、階段を降りる。二階の踊り場を曲がったところで、足が止まった。
壁にもたれて、天井を見上げた。蛍光灯の光が白くて、目が少し滲んだ。泣いているわけじゃない。泣くほどのことじゃない。知らない人に拒絶されただけだ。当たり前のことだ。私みたいな人間が、いきなり誰かの大切な場所に入っていけるわけがない。
分かっていたはずだった。だから昨日、遥さんに「無理です」と言ったのに。今朝、登校しながらずっと考えていた。行くか、行かないか。昨日合わせ直した3弦の音がまだ耳に残っていて、あの音が噛み合った瞬間の——胸の底がすっと軽くなる感覚が、忘れられなかった。あれをもう一度感じたいと思ってしまった。それだけのことだ。それだけのことで、三回引き返しかけながらも結局あのドアの前まで来てしまった自分が、どうしようもなく情けなかった。
「ごめんね」
顔を上げた。階段の上に遥さんが立っていた。息が少し上がっている。走ってきたのだろう。ベースはもう下ろしていて、手ぶらだった。西日が階段の窓から差し込んでいて、遥さんの髪の輪郭だけが淡く光っていた。
「蓮のこと、ごめん。あいつ、ああいう言い方しかできないだけで」
「いえ、当然です。部外者がいきなり来たら嫌ですよね」
「嫌じゃないよ、少なくとも私は」
遥さんは階段を数段降りて、私の一段上で止まった。見下ろされる形になる。遥さんの目は、昨日屋上で見たときと同じ光を湛えていた。ぼんやりしていて、でも、まっすぐで。
「真白ちゃんの耳、すごいと思ってる。昨日の3弦だけじゃない。多分あの子は、音楽室の中にいたら気づけないことに気づける人だよ」
返す言葉が見つからなかった。誰かに「すごい」と言われることに慣れていない。お母さんの「耳がいいのね」は褒め言葉じゃなくて、ただの観察だった。喉の奥が熱くなって、何か返さなきゃと思うのに、声が言葉の形になってくれなかった。
「今日は帰って。でも、気が変わったらいつでも来て。鍵は——」
「開いてる、でしょう」
遥さんが笑った。昨日と同じ、目尻に皺ができる笑い方。
「覚えてくれてるじゃん」
遥さんは手を振って、階段を上がっていった。足音が遠ざかって、四階のドアが開く音がして、閉まった。
静かになった廊下で、私はしばらく動けなかった。
蓮さんの声が耳に残っている。「部外者に口出しされる筋合いはない」。あれは正論だ。私はバンドのメンバーじゃない。楽器も弾けない。ただ音が聞こえるだけの人間だ。
でも、もう一つ、別の声も残っていた。
——ごめんね。
遥さんの「ごめんね」は、謝罪じゃなかった。少なくとも、私にはそう聞こえた。あれは、もう一回来てほしいという意味の「ごめんね」だ。声のトーンで分かる。語尾がほんの少しだけ上がっていた。疑問でも肯定でもない、途中で止まった音。まだ続きがあるのに飲み込んだ音。
階段を降りて、昇降口で靴を履き替えた。今日もイヤホンはしなかった。校門を出ると、四月の風がまだ少しだけ冷たくて、制服の襟元をすり抜けていく。
帰り道、遥さんの「ごめんね」がずっと耳の中で鳴っていた。蓮さんの拒絶よりも、桐谷さんの「ちょっと待ちなよ」よりも、あの三文字だけが、イヤホンなしの耳にいつまでも残っていた。