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屋上のバラード

第3話 第3話「三日目の屋上のドア」

第3話

第3話「三日目の屋上のドア」

三日目の朝、僕はまだ屋上のドアを開けられずにいた。

教室の空気は、あの動画が流れた翌日ほどひどくはない。小峰の腕を払ったあの瞬間が、ある種の結界になったらしかった。「あいつに関わると面倒」という空気が、透明人間だった頃とは別の意味で僕を囲っている。話しかけてくる人間はほとんどいなくなった。ただ、視線だけが残った。

廊下を歩くと、すれ違いざまに目が合う。すぐ逸らされる。でも逸らされる前の一瞬に、品定めするような光が混じっている。「あの動画のやつだ」——そう思われていることが、空気の振動みたいに伝わってくる。背筋に張りついた緊張が、教室に入ってから帰りのチャイムが鳴るまで一度もほどけない。

スマホのSNSは開かないようにしていた。でも昼休みに購買に並んでいるとき、前の女子のスマホ画面がちらりと見えた。学校の匿名掲示板。スレッドのタイトルに「屋上のピアノ」という文字列があった。すぐに目を逸らしたけど、遅かった。指先が冷たくなった。列に並んだまま、自分の手を握ったり開いたりした。冷たさが指から手首へじわじわと上がってくるのが分かった。

四時間目が終わって、昼休みのチャイムが鳴る。購買のパンを持って、僕は非常階段に向かった。いつもなら屋上まで上がるのに、三日間ずっと踊り場で止まっている。コンクリートの壁に背中を預けて、パンを齧る。味がしない。小麦の塊を咀嚼しているだけだった。飲み込むたびに、喉の奥がわずかに痛む。

踊り場の窓から、空だけが見えた。四月の終わりの雲が白くて、風が窓枠の隙間から細く鳴っている。

このまま、ずっと踊り場にいるのか。

自分で自分に呆れた。たかが動画一本で、自分の場所を手放している。あの屋上は僕が一年かけて見つけた場所だ。誰かに撮られたからって、なんで僕が逃げなきゃいけない。

パンの袋をリュックに押し込んで、非常階段を上がった。足音が反響する。一段ごとに反響の質が変わる。コンクリートが僕の体重を跳ね返す感触が、膝の裏まで伝わってくる。最後の一段を踏んで、ドアノブに手をかける。金属の冷たさが掌に染みた。

押し開けた。

屋上の空気が顔にぶつかった。四月の残り香みたいな冷たさと、五月の入口の柔らかさが混ざった風。給水塔の影はいつも通りそこにあって、コンクリートの地面に僕の居場所の形をしたスペースが空いていた。

——誰もいない。

当たり前だ。ここに来るのは僕だけだ。リュックからキーボードを出して、電源を入れる。三日ぶりの鍵盤。指を乗せた瞬間、震えた。渡り廊下に人がいないか、首を伸ばして確認する。誰もいない。大丈夫。

ドビュッシーの『アラベスク』を弾き始めた。軽い曲だ。感情を込めすぎなくていい。指慣らしみたいに鍵盤をなぞっていると、少しずつ肩の力が抜けていく。こわばっていた首の筋肉がゆるんで、視界が少し広くなる。やっぱりここだ。ここでしか息ができない。

二曲目に入ろうとしたとき、背後でドアが鳴った。

心臓が止まるかと思った。振り向くと、屋上の入口に人が立っていた。女子。肩にかかるくらいの黒髪を無造作に束ねて、制服の上にカーキ色のカーディガンを羽織っている。左手にアコースティックギターのネックを握っていた。

目が合った。

「あ、いたいた」

彼女はまるで探し物が見つかったみたいな口調で言った。僕を見て驚く様子もなく、遠慮する様子もなく、ただ自然にそこに立っている。誰だ。見たことはある。同じ学年だと思う。でも名前が出てこない。

「瀬川蓮でしょ。動画見た」

直球だった。僕の警戒が一気に跳ね上がる。キーボードの電源を切ろうとした手を、彼女が遮るように言った。

「別に撮んないし。ていうか、用があって来た」

彼女は給水塔の反対側のフェンスにもたれて、僕との距離を三メートルくらい空けたまま立った。ギターケースではなく裸のギターをそのまま持ってきているあたり、なんというか、雑な人だと思った。

「軽音部の志田彩音。部長。うちの部、キーボード足りてないんだけど」

言葉が短い。句点で切るみたいに、一文ずつ投げてくる。

「……入らない」

僕の返事はもっと短かった。反射だった。考えるまでもない。誰かと弾くなんて、ありえない。

「即答だね」

志田は少しだけ口の端を上げた。笑ったのかもしれないし、呆れたのかもしれない。でもそれ以上は何も言わなかった。「じゃあ」とだけ言って、裸のギターを抱えたまま屋上のドアの向こうに消えた。

拍子抜けした。もっと食い下がると思った。理由を訊かれると思った。でも志田は一言も余計なことを言わなかった。僕は閉じかけたキーボードをもう一度開いて、続きを弾こうとした。でも指が鍵盤を見つけられなくて、しばらくぼんやりと空を見ていた。

---

翌日の昼休み、屋上のドアを開けたら志田がいた。

給水塔の影ではなく、フェンス沿いの日向に座って、膝の上にアコギを乗せている。僕を見て「よ」とだけ言った。昨日の続きを話すでもなく、また勧誘するでもなく、ただそこにいた。

僕は黙って給水塔の影に座った。距離は五メートルくらい。キーボードを広げるか迷って、結局広げた。志田がいようがいまいが、ここは僕の場所だ。

電源を入れて、ショパンのノクターンを弾き始める。二番。変ホ長調の穏やかな旋律が、屋上の空気に溶けていく。志田の方は見ない。見たくない。誰かがいる空間で弾くのは三年ぶりで、指先に余計な力が入る。

一分くらい経った頃、ギターの音が聞こえた。

アルペジオ。高い弦から低い弦へ、ゆっくりと爪弾く音。僕のノクターンに合わせている——わけではない。テンポが違う。コードも違う。ただ、邪魔もしていなかった。僕の旋律とぶつからない位置で、志田のギターが静かに鳴っている。

無視した。無視しようとした。でも耳は勝手に拾ってしまう。志田のコードが変わった。Eフラット。僕が弾いているノクターンの調性と同じだ。偶然か、意図的か。次のフレーズに入ると、志田のアルペジオがほんの少しだけテンポを寄せてきた。

僕の左手が和音を押さえる。志田のギターがその和音の構成音をなぞるように、低い弦を一本鳴らす。心臓が跳ねた。偶然じゃない。聴いている。僕の音を聴いて、隙間に入ってきている。

指が止まりそうになった。止まらなかったのは、意地だったのか、それとも別の何かだったのか。ノクターンの後半、旋律が高音域に移るところで、志田のギターが低音のルートだけを静かに支えた。薄い毛布みたいに、僕のフレーズの下に敷かれる音。

最後の一音を弾いて、指を離す。余韻が風に散っていく。志田のギターも止まっていた。

沈黙。

屋上の風だけが鳴っている。僕は鍵盤の上に手を置いたまま、動けなかった。心臓が速い。怖いのとは違う。怒りでもない。名前をつけられない何かが、胸の内側でうろうろしている。三年間、一人で弾いてきた。一人の音しか知らなかった。それが今、指の記憶の中に別の振動が混じっている。

「……勝手に合わせないで」

声が掠れた。

「合わせてないよ」

志田は平然と言った。「隣で弾いてただけ」

嘘だ。あれは明らかに僕の音を聴いて反応していた。でもそれを指摘する言葉が出てこなかった。志田はギターを膝の上に寝かせて、空を見上げている。横顔に影が落ちていて、表情がよく見えない。

「明日も来る」

志田はそう言って立ち上がった。ギターを裸のまま片手にぶら下げて、屋上のドアに向かう。その背中に、僕は何も言えなかった。言わなかった。

ドアが閉まった後、僕は自分の指を見た。さっきまで震えていたはずの指先が、今は静かだった。鍵盤の上に乗せると、さっき弾いたノクターンの残響が指の腹にまだ残っている。その残響の下に、ギターの振動が混じっていた。消そうとしても消えない。弦の太い響きが、鍵盤の滑らかな余韻とは違う質感で、骨の奥にまで沈んでいる。

五月の風が頬を撫でて、髪を揺らした。空が高い。給水塔の影が午後の日差しで少しだけ短くなっていて、僕の足先が日向にはみ出している。

明日も来る、と志田は言った。

——来なくていいのに。

そう思いながら、僕はキーボードを閉じなかった。閉じる理由を、指が忘れていた。

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