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冷蔵庫のひかり

第3話 第3話

第3話

第3話

一週間が経っていた。

気がつけば、という言い方が正しい。毎朝七時に裏口から入り、流しの前に立ち、昼の営業を挟んで皿を洗い、夕方に帰る。その繰り返しが七回重なっただけなのに、身体はすでにこのリズムを覚えていた。目覚ましより先に目が開く。六時半にワンルームを出て、コンビニでおにぎりをひとつ買い、歩きながら食べる。海苔の湿った感触が指先に張りつく。味はほとんど気にならない。ただ胃に入れるだけの動作が、いつの間にか朝の儀式になっていた。「よしの」の裏口に着く頃にはちょうど七時になる。

辰造は相変わらず何も聞かなかった。拓真がどこに住んでいるか、家族がいるか、なぜ料理人の手をしているのに皿しか洗っていないのか。一度も。拓真も何も話さなかった。二人の間にあるのは、蛇口の水音と、包丁がまな板を叩く音だけだった。それで十分だった。沈黙が気まずくないということを、拓真はこの厨房で初めて知った。言葉がなくても空気が淀まない。辰造が出汁の鍋に向かい、拓真が流しに向かう。互いの背中が視界の端にあるだけで、厨房は過不足なく回った。

昼の営業が始まると、拓真の意識は自然と客のほうへ向いた。

流しはカウンターの端にある。客から拓真の姿は見えにくいが、拓真からは八席すべてが見渡せた。一週間で分かったことがある。この店の客には、それぞれの席がある。

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作業着の男——初日から毎日来ている——は、一番奥の席にしか座らない。入口から最も遠く、壁際で、隣に人が座りにくい位置だ。新聞を読みながら食べるから、肘を広げられる席がいいのだろう。辰造はその男が入ってくると、注文を聞く前に魚を焼き始める。

文庫本の女性は、真ん中あたりの席を好む。カウンターの曲線がちょうど窪んでいるところで、照明の位置からすると本が読みやすい。拓真は三日目にそれに気づいた。彼女はいつも同じ角度でページを傾けていた。読む速度はゆっくりで、箸を置いてから数ページ読んでから席を立つ。食事が目的なのか、読書が目的なのか。おそらくどちらでもなく、その両方がある時間ごと必要なのだろうと拓真は思った。

水曜日に初めて見た客がいた。四十代くらいの会社員風の男で、スーツにネクタイを緩めた格好で入ってきた。席は入口から二番目。カウンターに肘をつき、少し猫背になって、何をするでもなく厨房を眺めていた。辰造が小鉢を先に出した。枝豆の煮浸し。薄い翡翠色の豆が出汁に沈んでいて、表面に細かい湯気が立っていた。男はそれをゆっくりつまみながら、定食が出てくるまでの時間をぼんやり過ごしていた。箸で豆をひとつ摘んでは口に入れ、咀嚼しながら天井を見上げる。その動作がひどく疲れた人間のものに見えた。食べ終えたあと、男は「辰さん、来週も」とだけ言って帰った。辰造は頷きもしなかった。

この男の名前はまだ知らなかった。けれど、辰造が小鉢を先に出したのは、この男にだけだった。他の客には定食が一度に出る。この男だけが二段階で提供される。急いでいないことを、辰造が知っているのだ。あるいは、急がせたくないのか。どちらにしても、辰造はこの男の時間の速度を知っている。それは長い年月の積み重ねでしか得られないものだと、拓真には分かった。

金曜日、昼の終わり際に六十代くらいの女性が来た。買い物帰りらしく、エコバッグを二つ抱えていた。席に着くなり「辰さん、今日はお腹空いてないんだけど」と言った。辰造は何も答えず、しばらくして小さめの茶碗に白飯を半分、味噌汁、漬物だけを出した。女性はそれを食べて、「やっぱりここのお味噌汁飲むと安心する」と独り言のように呟いて帰った。

拓真は鍋を洗いながら、その味噌汁の椀を手に取った。椀の内側に残った液をそっと指先で掬い、舌に乗せた。いつもより少しだけ薄い。塩分を控えてある。お腹が空いていないと言った客に、重くない味噌汁を出している。

それが意図的なのか、長年の勘なのか、もはや区別がつかないのかもしれない。辰造の手は、客の言葉を聞いた瞬間にもう動いている。考えて調整しているようには見えなかった。ただ、そうなる。身体に染みこんだ何十年分の経験が、意識を飛ばして手先を動かしている。それは技術というよりも、もっと手前にあるもの——他人の状態を感じ取る皮膚感覚のようなものだった。

カウンター八席。壁の短冊メニュー五品。換気扇と出汁の匂い。それだけの店に、人が通い続ける理由が、少しずつ輪郭を持ち始めていた。ここは食事をする場所というより、それぞれの日常の一部だった。作業着の男にとっての昼休み、文庫本の女性にとっての静かな時間、スーツの男にとっての息継ぎ。誰もこの店に特別なものを求めていない。特別でないことが、たぶん特別なのだ。

拓真の店は逆だった。特別であろうとした。他にない味を、他にない空間を、他にない体験を。そのために毎月メニューを変え、内装を変え、盛り付けを変えた。変わり続ける店に、客は根を下ろせなかったのかもしれない。自分の席だと思える場所が、いつ来ても同じ場所にあること。それが人を呼び戻す。拓真は自分の店でそれを作れなかった。いつも新しい何かを追いかけていた。追いかけている自分に酔っていたのかもしれない、と今なら思う。

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一週間と三日目の午後、最後の客が帰ったあとだった。

辰造が翌日の仕込みを始めていた。大根の皮を剥いている。桂剥きではない。厚めに、しかし均一に、回しながら剥く。剥かれた皮が白いひも状になって、まな板の脇に溜まっていく。

拓真は食器を洗い終えて、布巾で手を拭いていた。辰造の手元を見るとはなく見ていた。大根を剥き終えた辰造が、次に里芋を取り出した。泥を落とし、皮を剥き始める。里芋は小さく、数が多い。辰造の手が淀みなく動いていくのを見ているうちに、拓真の右手が無意識に動いた。布巾を握ったまま、親指と人差し指が包丁を持つ形になっていた。

気づいて、手を開いた。布巾を畳み直した。指先が微かに震えていた。

辰造がこちらを見ていた。

目が合って、拓真は視線を逸らした。辰造は何も言わなかった。里芋の皮を剥く音が続いた。ざっ、ざっ、と短い間隔で刃が走る。拓真は流しの水滴を布巾で拭き取りながら、自分の右手の指を見た。胼胝はまだあった。十日間皿を洗い続けて、指先は水でふやけているのに、胼胝だけは硬いままだった。何千回と包丁を握った痕が、皮膚に刻まれて消えない。身体は覚えている。頭がどれだけ忘れようとしても、手が覚えている。

段ボール箱の中の柳刃包丁を思い出した。あれを最後に握ったのは、店を畳んだ日だ。まな板の上の包丁を鞘に収めて、段ボールに入れた。それきり触っていない。

辰造の包丁は、使い込まれて刃が痩せている。だが切れ味は鋭い。毎日研いでいるのだろう。閉店後の仕込みの最中に、研ぎの音を聞いたことがある。砥石の上を走る規則的な音が、薄暗い厨房に響いていた。しゅっ、しゅっ、と一定の拍子で繰り返される音は、呼吸のようだった。

あの音を、自分もかつて毎日立てていた。

拓真は裏口から出た。路地に夕暮れの光が差し込んでいる。四月の終わりが近づいて、日が長くなっていた。空気がぬるく、どこかの家から味噌汁の匂いが流れてきた。

ワンルームに戻ると、部屋の隅の段ボール箱が目に入った。昨日までと同じ位置に、同じように置いてある。中の柳刃包丁も同じだ。何も変わっていない。

ただ、今日は箱の前にしゃがんだ。鞘に収まった柳刃に手を伸ばして、触れた。鞘の木の感触が掌に伝わった。冷たかった。朴の木の滑らかな表面に、自分の体温がじわりと移っていく。その温度の変化を、指先で感じていた。

引き抜きはしなかった。持ち上げもしなかった。ただ指先で鞘の表面をなぞって、また元の位置に戻した。立ち上がって、冷蔵庫を開けた。空っぽだった。閉じた。窓の外が暗くなっていた。部屋には蛍光灯の白い光と、段ボール箱の影だけがあった。

翌朝、いつも通り七時に裏口から入ると、流しの横にまな板が置いてあった。その上に、人参が三本と、小ぶりの包丁が一本。辰造は出汁を引きながら、こちらを見ずに言った。

「剥け」

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