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桜と診断書

第1話 第1話「味のしない鯖の味噌煮」

第1話

第1話「味のしない鯖の味噌煮」

味がしない、と思ったのは三日前からだった。

 病院の食堂で出される鯖の味噌煮を口に運びながら、白河蒼一郎は自分の舌の上で何も起きていないことを確認する。味噌の塩分も、鯖の脂も、すべてが等しく白い。箸で身をほぐすと、湯気がかすかに立ち上る。温かいはずだった。鼻腔にも何も届かない。味噌の香ばしさも、魚の匂いも、すべてが薄い膜の向こう側にある。抗がん剤の副作用だと分かっている。分かっていて、それでも毎食同じ席に座り、同じように箸を動かすのは、それ以外にやることがないからだった。食堂の隅の二人掛けテーブル。向かいの椅子にはいつも誰も座らない。白河はそれを好んでいた。同僚と向かい合って、味のしない食事を咀嚼する姿を見せたくなかった。

 窓の向こうに桜並木が見える。四月の光に透けるソメイヨシノの花弁が、風に揺れるたびに数枚ずつ散っていく。三分咲き。あと五日で満開になり、そこから十日ほどで葉桜になる。今年の桜が最後だろうと考えるとき、不思議と感傷は湧かなかった。膵臓癌ステージIV、余命八ヶ月。その数字は白河自身が画像を見た瞬間に算出した値と、主治医の宣告がほぼ一致していた。総合診断科で十五年やってきた人間の頭は、自分の体に対しても正確に動く。正確に動いてしまう。それが今は、ただ重い。CTの画像を初めて見たとき、白河は他人のカルテを読むように冷静だった。膵頭部の腫瘤、門脈への浸潤、肝転移。教科書通りの所見が並んでいた。自分の腹の中にあるものを、自分の目が正確に読み取っている。その事実だけが、深夜のモニターの前で白河の背筋を冷やした。

 食堂を出て、廊下を歩く。スリッパの底がリノリウムの床を擦る音だけが響く。療養型病院の午後は静かだ。消毒液の匂いが薄く漂い、どこかの病室からテレビの音声が微かに聞こえる。それ以外には、自分の足音と、ときおり軋む配管の音しかなかった。ここに赴任して三ヶ月、白河の仕事は緩和ケアの書類整理と、入院患者の容態確認。かつて大学病院の総合診断科で「歩く診断アルゴリズム」と呼ばれた人間がやる仕事ではない。だが、それでいい。もう診断に頭を使う気力は残っていなかった。気力だけではない。体力も、少しずつ削られている。階段を一階分上がるだけで息が切れるようになったのは、先月からだった。

 自室のデスクに戻ると、未開封の封筒が三通、端に寄せたまま放置されている。一通は茶封筒、二通は白い封筒。どれも一週間以上前に届いたものだった。差出人を確認する気にもならない。どうせ元患者の家族からの礼状か、あるいは学会関係の事務連絡だろう。白河はそれらを視界の端に追いやり、パソコンの画面に向かった。画面にはカルテの入力フォームが開いている。入院患者十二名分の容態記録。淡々とキーボードを叩く指先は、かつてより明らかに遅い。打鍵のたびに、関節の奥で鈍い疲労感が響く。

 午後の回診を終え、カルテの記入を済ませると、時計は十七時を過ぎていた。窓の外の桜並木が夕陽に染まっている。オレンジ色の光が花弁を透かし、一瞬だけ、朝とは違う色を見せた。枝の先に止まっていた鳥が飛び立ち、数枚の花弁を巻き上げた。それが夕光の中をゆっくり舞い落ちていく様を、白河はぼんやりと眺めてから、デスクの上を片づけ始めた。

 「先生、顔色悪いですよ」

 声をかけてきたのは、看護師の永井だった。五十代の、この病院に二十年勤めているベテランで、白河の病状を知る数少ない人間の一人だった。

 「いつものことです」

 「いつものこと、で済ませない方がいいこともありますよ」

 永井の視線が白河の手元に落ちた。カルテを閉じかけた右手の指先が、わずかに震えていた。白河はそれに気づいていないふりをした。永井も、気づいていないふりをした。二人の間にある沈黙は、言葉より多くのことを伝えていた。

 永井はそれだけ言って、白河の机の上にペットボトルのお茶を置いた。ラベルには「深蒸し」と書いてある。白河は礼を言いかけたが、永井はもう背中を向けて廊下に出ていくところだった。白衣の裾が廊下の角を曲がるまで見送って、白河は小さく息を吐いた。永井のああいう距離感に、何度救われているか分からない。聞かない。踏み込まない。ただ、そこにいる。

 ペットボトルの蓋を開け、一口飲む。温くなったお茶の味が、かすかに舌の奥で渋みを残した。味噌煮では何も感じなかったのに、不思議なものだった。あるいは渋みだけは最後まで残る味覚なのかもしれない。白河は診断医らしくそんなことを考えて、すぐにやめた。自分の体を分析することに、もう意味はない。

 帰り支度をしようとした拍子に、肘が封筒の束に当たった。三通が床にばらけて落ちる。拾い上げるとき、一番上の白い封筒の差出人欄が目に入った。

 宮沢ひなた。

 手が止まった。宮沢。その名前に、白河の記憶が反応するまで二秒かかった。二秒は、かつての白河には存在しなかった時間だった。あの頃なら、患者の名前は聞いた瞬間に顔と症状と検査値がセットで浮かんだ。今はその回路に錆がついている。

 宮沢拓海。三十一歳、男性。五年前、白河がまだ大学病院にいた頃に担当した患者。原因不明の多臓器炎症。白河はあらゆる鑑別診断を試み、三十七の仮説を立て、そのすべてを検査で潰した。膠原病、感染症、悪性腫瘍、自己免疫疾患——可能性を一つずつ消していく作業は、白河が最も得意とするものだった。消去法の果てに残るはずの答えが、あのときだけは残らなかった。それでも病名にたどり着けなかった。「原因不明」という四文字を診断書に書いたとき、白河の指先は震えなかった。震えたのは、三ヶ月後に拓海の死亡通知が届いたときだった。院内のポストから封筒を取り出し、廊下のベンチで開いた。事務的な文面の最後に、妻の署名があった。そのとき初めて、白河の右手が小さく震えた。

 封筒を持ったまま、椅子に腰を下ろした。娘がいたのか。七歳なら、拓海が亡くなったとき二歳だったことになる。父親の記憶はないだろう。封筒の表面を親指でなぞった。子どもの字ではなかった。整った楷書。代筆かもしれない。あるいは、しっかりした子なのかもしれない。どちらにしても、白河には関係のないことだった。

 封筒をデスクに戻し、コートを取った。今日は読まない。読む理由がない。白河にできることは、五年前にも今も、何もなかった。

 帰宅して、狭いアパートの玄関で靴を脱ぐ。一人暮らしの部屋に食卓はなく、デスクの上にコンビニのおにぎりを二つ置いた。鮭と昆布。どちらのパッケージも、蛍光灯の下で同じように白く光っている。どちらも食べないまま、シャワーを浴びて布団に入った。シャワーの湯は熱くしたはずだが、体の芯まで温まった気がしなかった。鏡に映った自分の鎖骨が以前より浮き出ているのを見て、目を逸らした。

 眠れない夜は、いつも同じ場所に行き着く。

 天井の染みを見つめながら、白河は脳内のリストを開く。救えなかった患者の名前。正確には、診断に至れなかった患者の名前。四人。十五年の臨床で、白河が「原因不明」と書いたのは四例だけだった。そのうち三例は後に他の医師が診断をつけた。白河がつけられなかった病名を、別の誰かがつけた。それは敗北だが、患者は救われた。だから許せる。

 許せないのは、最後の一人だった。

 宮沢拓海。病名なし。治療なし。三ヶ月後、死亡。

 あのカルテだけは持ち帰った。大学病院を辞めるとき、コピーを鞄に入れた。今もこの部屋の引き出しの中にある。何度開いても同じだった。何も見つからない。何も変わらない。それでも捨てられなかった。引き出しの中で、紙の端がわずかに反っている。何十回も開いたせいだった。血液検査の数値、画像所見、経過記録。すべてを暗記していた。それでも、紙に触れなければ確認した気にならない。医者の悪い癖だった。

 時計が午前二時を示していた。おにぎりはデスクの上でそのまま朝を迎えるだろう。白河は目を閉じた。

 宮沢、と声に出さずに呼んだ。おまえの娘が、手紙を寄越した。

 返事はない。当然だった。白河は寝返りを打ち、壁に背を向けた。カーテンの隙間から街灯の光が細く差し込んでいて、その線が天井に一本、白い筋をつくっていた。それを見ながら、いつのまにか朝になっていた。

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