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土に還る朝、茶碗を抱いて

第2話 第2話

第2話

第2話

実家の最寄り駅に降りたとき、ホームの空気が東京と違うことに気づいた。湿り気を含んだ、少し甘い匂い。植え込みの金木犀がまだ残っているのかもしれない。改札を出ると、ロータリーに香織の軽自動車が停まっていた。助手席のドアが内側から開く。

「荷物、それだけ?」

トートバッグひとつ。着替えと財布しか入っていない。頷くと、香織はそれ以上何も言わずにエンジンをかけた。カーナビの画面に実家までのルートが表示されている。十二分。この道を何百回通ったはずなのに、景色に見覚えがなかった。角のたばこ屋が更地になっている。その隣にあったクリーニング店も看板が外されていた。更地には雑草が伸び始めていて、アスファルトの隙間からも緑が覗いている。人がいなくなった場所を、植物は迷いなく埋めていく。街が静かに書き換えられていく速度を、私は知らなかった。

香織の横顔を見る。髪が少し伸びていた。去年の葬儀のときはショートにしていたはずだ。頬の輪郭がほんの少しだけ丸くなっている。四つ下の妹。年齢を重ねるごとに母に似てきた、と思うのは私の勝手な感傷かもしれない。信号待ちで、香織がバックミラーを直す仕草が母のそれと重なって、窓の外に目をそらした。車内にはかすかにラベンダーの芳香剤の匂いがしていた。母の車もいつも同じ匂いだった。香織がそれを知っていて選んだのか、偶然なのか、訊けなかった。

実家の玄関を開けると、誰もいない家の匂いがした。人が住まなくなった空間は、半年もすると匂いが変わる。空気がどこにも流れず、ただ溜まっている。香織が先に上がって窓を開ける。風が通ると、カーテンが大きく膨らんだ。

「台所から始めよう。食器は私がやるから、奈緒は二階をお願い」

「わかった」

それだけの会話で、私たちは別々の階に散った。母が生きていた頃から、この家ではいつもそうだった。それぞれが自分の持ち場について、必要なことを黙ってやる。家族の距離感としてそれが正しかったのかどうか、今となっては確かめようがない。

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二階の廊下を歩くと、床板が軋んだ。子供の頃、夜中にトイレに起きるとこの音で母が目を覚ました。踏む場所を覚えて、音がしない道筋を見つけたのは小学校三年生のときだった。今はもう、誰を起こす心配もない。それなのに足は無意識に、あの頃の道筋をたどっていた。

母の寝室だった部屋の襖を開ける。布団は上げてあったが、枕元に読みかけの本が伏せたまま置いてあった。栞が挟まっている。百七十三ページ。母がここで読むのをやめて、もう戻ってこなかった場所。背表紙を見る。地元の図書館の蔵書票が貼ってあった。一年以上延滞している。返さなければ、と思って、その事務的な思考に少し安心した。悲しみより先に事務が来る。そういうふうにできている自分を、嫌だとは思わなかった。

押し入れの襖を引く。段ボール箱が五つ、几帳面に並んでいた。側面に母の字で中身が書いてある。「写真」「書類」「裁縫道具」「奈緒・香織」「その他」。

「奈緒・香織」と書かれた箱を引き出す。テープが古くなっていて、触れただけで剥がれた。中から出てきたのは、通知表、賞状、作文の束、それから私と香織が小さかった頃の工作物。紙粘土で作った何かの動物。乾燥してひび割れ、片耳が取れている。何を作ったのか自分でも思い出せなかった。

通知表を一枚めくる。小学四年生。担任の所見欄に「何事にも一生懸命に取り組みますが、うまくいかないときに自分を責める傾向があります」と書いてあった。この頃からそうだったのか。三十八歳の私が、十歳の自分の通知表に言い当てられている。

「写真」の箱を開ける。アルバムが三冊と、封筒に入ったばらの写真が何束か。アルバムは時系列に並んでいた。最初の一冊を開くと、生まれたばかりの赤ん坊を抱いた母がいた。病室だろう、白い壁と、窓からの光。母は笑っている。まだ二十代の顔だ。この人がいなくなったことの実感が、写真を通してようやく輪郭を帯び始める。

三冊目のアルバムの途中で、ページの間に挟まっていた一枚の写真が滑り落ちた。膝の上に落ちたそれを拾い上げる。

小さな女の子が笑っていた。顔にも手にも服にも茶色い土がべったりとついて、それでも口を大きく開けて笑っている。背景には窯のようなものと、古びた木造の建物。陽射しが強い。夏だろうか。泥だらけの手で、何かの形——丸い、歪んだ器のようなものを持っている。

胸の奥で、何かが小さく震えた。

この子は、私だ。年齢は三つか四つ。記憶にない。こんな場所に行ったことも、土を触って遊んだことも、覚えていない。なのに写真の中の子供は、今まで見たどの自分よりも笑っている。

写真を裏返す。母の字だった。

「備前・つちのこ工房にて 奈緒 三歳」

備前。岡山の。窯元の土地だということは知っている。しかし、母がそんな場所に私を連れて行った話は聞いたことがない。つちのこ工房。変わった名前だ。三歳の記憶が残っていないのは当然かもしれない。でも、母がこの写真をアルバムに貼らず、ページの間に挟んでいたことが気にかかった。

階段の下から香織の声がした。

「お茶入れたよ」

写真を持って降りる。台所のテーブルに香織がお茶を二つ用意してくれていた。母の急須を使っている。蓋のつまみが少し欠けた、緑色の急須。見慣れたはずのそれが、今日はやけに小さく見える。

「これ、知ってる?」

写真をテーブルに置く。香織が手を拭いてから手に取り、しばらく眺めた。

「知らない。私が生まれる前でしょ、奈緒が三歳なら」

「お母さんから何か聞いた? 備前に行った話とか」

「聞いたことない」

香織はお茶を一口飲んで、写真を置いた。それから少し間があった。

「奈緒さ」

「うん」

「仕事、どうなってるの」

来た、と思った。茶碗を持つ手が止まる。

「今は少し、休んでる」

「ずっと忙しい忙しいって言って、お母さんの遺品整理も来なかったじゃん。一年間。で、急に来られるくらい暇になったの」

声は静かだった。怒っているのではない。ただ、言わずにいたものが、その重みに耐えきれずこぼれ出たという感じだった。私は何も返せなかった。忙しかったのは事実だ。でもそれが理由になるかと問われたら、ならない。忙しさを盾にして、ここに来ることを避けていたと言われたら、否定できない。香織の視線がテーブルの上の写真に一瞬だけ落ちて、また私に戻った。

「……ごめん」

香織は首を横に振った。

「謝ってほしいんじゃない。ただ、お母さんがいなくなってからずっと一人でやってたの、私」

テーブルの上に沈黙が落ちる。時計の音がする。壁にかかっている古い振り子時計。母がずっと大事にしていたもの。この家の時間を刻み続けている。

「ごめん」

同じ言葉しか出なかった。でも今度は、その一語に含まれるものが少し違った気がする。自分でも、何が違うのかうまく言えないけれど。

香織は何も言わず、お茶を飲み干して立ち上がった。

「残りやろう」

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夜の九時過ぎに実家を出て、駅前のビジネスホテルにチェックインした。明日も続きをやることになっている。狭い部屋のベッドに座って、鞄から写真を取り出す。泥だらけの三歳の私。

つちのこ工房。

スマートフォンで検索する。指が勝手に動いていた。備前、つちのこ工房。検索結果が表示される。個人のブログが一件、地域の観光サイトに名前だけ載っているのが一件。ホームページはない。ブログの記事は八年前のもので、備前焼の窯元を巡ったという旅行記だった。その中に一行、「つちのこ工房は現在も梶原さんが一人で続けている」と書いてある。

まだ、ある。

写真の中の小さな女の子を見る。この子が何を触って、何がそんなに楽しくて、こんなふうに笑ったのか。私にはわからない。わからないけれど、母がこの写真をアルバムに貼らずにページの間に挟んでいた理由を、知りたいと思った。隠していたのか、それとも特別すぎて他の写真と並べられなかったのか。

ホテルの窓から見える駅前のロータリーに、人影はほとんどない。帰りの新幹線は明日の夕方に取ってある。東京に戻って、それからどうする。冷蔵庫を開けて、閉める日々に戻る。それ以外の選択肢が、今の私にあるのだろうか。

写真を枕元に置いて、明かりを消した。指先にまだ、段ボールの埃の感触が残っている。母の字の「備前」という二文字が、瞼の裏にちらついて消えなかった。

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