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土に還る朝、茶碗を抱いて

第1話 第1話

第1話

第1話

目が覚めたとき、カーテンの隙間から差し込む光の角度で六時十五分だとわかった。十五年、同じ時間に起きてきた体は、もう必要のない正確さで私を叩き起こす。

枕元に手を伸ばす。いつもならスマートフォンでメールを確認し、シャワーを浴びて、クローゼットのスーツに手をかける。指先がハンガーの冷たい金属に触れたところで、止まった。紺のジャケット。先週までの私の鎧。袖口に微かなクリーニングの匂いが残っている。ドライクリーニング特有の、甘くもなく苦くもない、清潔という概念だけを凝縮したような匂い。毎週月曜日にまとめて出して、水曜の夕方に受け取る。そのルーティンごと、もう消えた。もう着ていく場所はない。

三日前のことだ。

人事部の白い部屋で、退職勧奨の書類を差し出された。十五年かけて積み上げたものが、A4の紙一枚に収まっていた。桐山部長の不正会計。その処理に関わった形になっている私の名前。身に覚えのない承認印。私が押したことになっている日付は、出張で東京にいなかった日だった。それを言おうとして口を開いたとき、人事の担当者は目を合わせずに「こちらも承知しておりますが」と遮った。承知しているなら、なぜこの場が設けられているのか。弁明の機会は、実質的には与えられなかった。桐山は別室にいて、最後まで顔を見せなかった。十五年で交わした何千時間もの会話、部署の立ち上げを二人で乗り越えた夜、そのすべてが、一枚の壁の向こう側に隠れていた。

スーツから手を離す。ベッドの端に腰を下ろしたまま、しばらくそうしていた。壁掛け時計の秒針が動く音だけが、やけにはっきり聞こえる。一秒ずつ、正確に。この時計だけが、何も変わっていない。

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リビングに出ると、本棚の一角が空いていた。拓也の本があった場所だ。経済書と、何冊かのゴルフ雑誌。棚板に薄く埃の跡が四角く残っている。指でなぞると、埃が指紋の溝に入り込む。ここに本があった。ここに拓也がいた。その証拠が、埃の形でしか残っていない。持っていったのは本だけではなかった。洗面台の電動歯ブラシの充電器、下駄箱のゴルフシューズ、寝室のサイドテーブルに置いてあった目覚まし時計。拓也という人間の痕跡が、この部屋から几帳面に取り除かれていた。

「もう無理だ」と言ったときの拓也の声を、私はうまく思い出せない。あの夜はまだ退職勧奨の二日後で、私の頭はまともに動いていなかった。拓也が何を言い、私が何を返したのか。覚えているのは断片だけだ。テーブルの上に拓也が置いた鍵の音。金属がガラスに当たる、短く硬い音。それから、玄関のドアが閉まる音。振り返って見た廊下に、拓也のスニーカーがなかった。台所の水切りかごに、マグカップがひとつだけ伏せてある。二人分のペアだったはずだが、片方はもうない。白地に青のラインが入ったほう——拓也が選んだほうだ。残されたのは私が何となく手に取った無地のマグで、対になる意味を失ったそれは、ただの容器に戻っていた。

冷蔵庫を開ける。卵が四つ。賞味期限が昨日のヨーグルト。拓也が飲みかけのまま置いていった炭酸水。ラベルが少し剥がれかけている。閉める。椅子に座る。また立ち上がって、冷蔵庫を開ける。何かを食べなければとは思う。でも手が動かない。空腹は感じる。胃が小さく鳴っている。それなのに、食べ物を選ぶという行為の手前で、何かが途切れている。閉める。

窓の外で車のクラクションが鳴った。八時を過ぎたのだろう、通勤の車が環状線に向かう時間帯だ。かつての私もあの流れの中にいた。ヒールの音を鳴らしてエントランスを出て、駅までの七分間で今日のアジェンダを頭の中に並べていた。信号待ちの時間さえ惜しんでメールを返していた、あの日々。

今、窓の内側にいる私と、窓の外を流れていく音の間に、見えない壁がある。同じ街に住んでいるのに、世界から一枚隔てられたような感覚。怒りですらなかった。悲しみとも違う。腹の底にあるのは、もっと曖昧で、もっと重いもの。自分の中身が全部抜き取られて、形だけが残されたような——空洞。スーツの中身がなくなったハンガーみたいなものだと、ぼんやり思った。

昼を過ぎても、私はパジャマのまま椅子に座っていた。テレビをつける気にもならない。スマートフォンには元同僚からの「大丈夫?」というメッセージがいくつか溜まっていたが、返す言葉が見つからない。大丈夫の反対が何なのかもわからなかった。画面を伏せてテーブルに置く。

午後三時、陽が傾き始めた頃に、ようやく卵を一つ割った。フライパンに油を引いて目玉焼きを作る。油が熱くなるまでの時間が、妙に長く感じた。卵を落とすと、白身がじゅっと広がって端が細かく泡立つ。焼き加減を見るともなく見ていた。白身の端が茶色く縮れていく。いつもなら半熟で止めるのに、ぼうっとしている間に黄身まで固くなった。皿に移して、箸をつける。味がしない。塩をかけたはずなのに、舌の上を素通りしていく。三口食べて、箸を置いた。残りの目玉焼きが皿の上で冷めていくのを、ただ見ていた。

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夕方、スマートフォンが短く震えた。

画面に妹の名前が表示されている。香織。半年以上連絡を取っていない。最後にやり取りしたのは年末で、「年末年始はこっちに帰る?」という香織のメッセージに「仕事で無理」と返したきりだった。開くと、短いメッセージだった。

「お母さんの一周忌、来月の十八日に決まりました。お寺は前と同じ。出欠だけ教えて」

句読点の打ち方が母に似ている、と思った。用件だけを簡潔に伝えてくる。余計な感情を挟まない。母が生きていた頃、私はこの家族のやり取りを素っ気ないと感じていた。もう少し気にかけてくれてもいいのに、と。でも今の私には、香織のこのメッセージの温度がちょうどよかった。大丈夫かとも、何があったのとも聞かれない。ただ、出るか出ないかだけを聞いている。

「出ます」と打って送る。一周忌か。去年の葬儀には、まだ拓也が隣にいた。仕事の合間を縫って、日帰りで済ませた。新幹線の中でもノートパソコンを開いていた。母の棺に手を合わせたとき、何を思ったかも覚えていない。たぶん、午後の会議のことを考えていた。母の顔をまともに見たのは、棺の蓋が閉まる直前のほんの数秒だった。

そのことが、今になって胸のどこかに引っかかる。棘のように、というほど鋭くはない。もっと鈍い、じわりと広がる種類の痛み。あのとき泣かなかったことを、私は後悔しているのだろうか。わからない。泣けなかったのか、泣かなかったのか、その区別すらつかない。

香織から返信が来る。

「了解。あと、実家の荷物、一周忌のときにまとめて片付けたい。手伝える?」

母の遺品整理。葬儀の後にやるはずだったのを、私は仕事を理由に先延ばしにしていた。半年、それから一年。香織は何も言わなかった。けれどその沈黙の中に、何が溜まっていたのかは想像がつく。

「手伝います」

敬語になっていることに気づいて、少しだけ指が止まった。消して「手伝う」と打ち直す。送信。画面を見つめる。既読がつくまでの数秒が、妙に長い。

既読マークがついて、香織が何か打っている表示が出る。それが消えて、また出て、また消えた。結局、返信は来なかった。香織も、言葉を選びあぐねているのかもしれない。

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夜になっても眠気は来なかった。ベッドに横たわって天井を見ている。街灯の光がカーテン越しにぼんやりと白い。隣の部屋から微かにテレビの音が漏れ聞こえる。誰かの笑い声。この壁一枚の向こうには、当たり前に夜を過ごしている人がいる。

一周忌まであと三週間。それまでの日々を、どう埋めればいいのかわからなかった。明日も六時十五分に目が覚めるだろう。スーツに手を伸ばしかけて、止まるだろう。冷蔵庫を開けて、閉めるだろう。

いつの間にか、左手が右手の甲をさすっていた。十五年、キーボードとマウスしか握らなかった手。この手で何ができるのか。今はまだ、その問いの形すら見えていない。

枕元のスマートフォンが暗く沈んでいる。誰からも連絡は来ない。来なくていい。ただ、この空っぽの夜を越えた先に何があるのか、それだけが知りたかった。

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