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桜の下、震える拳を見た

第3話 第3話

第3話

第3話

「凛、放課後空いてる?」

咲良の声は教室の空気を割るように真っ直ぐだった。三十二人の視線が彼女に集中しているのに、まるで気づいていないみたいに私だけを見ている。昨日の夕暮れの旧視聴覚室と同じ目。ただし今は朝の蛍光灯の下で、その真剣さがいっそう際立っていた。

「……別に、用はないけど」

口が勝手に答えていた。壁を作ると決めたはずなのに、昨夜プリントの二行目を読んでしまった自分が、もう半歩踏み込んでいるのを知っていた。

「じゃあ来て。視聴覚室」

それだけ言って、咲良は廊下に消えた。嵐みたいな子だ。来て、去って、あとには妙な静けさだけが残る。隣の席の女子が「知り合い?」と訊いてきたのに、「……まだ、わからない」と答えた。自分でも変な返事だと思った。

放課後、廊下の突き当たりに向かう足取りは、昨日よりずっと迷いがなかった。それが少し怖い。旧視聴覚室の前まで来ると、中から声が聞こえた。ただし昨日と違って、一人分ではなかった。

「だから、現実見ろって話してんだよ」

低い、素っ気ない男の声。ドアの小窓から覗くと、咲良の隣に背の高い男子が立っていた。制服の袖をまくって、古びた照明のスイッチボックスに寄りかかっている。癖のある前髪が片目にかかっていて、表情が読みにくい。ただ、声の温度は明確に低かった。

「蓮、現実って何。まだ二週間あるよ」

「二週間で三人集めろって? 去年も一昨年も無理だったのに?」

蓮と呼ばれた男子が——桐生蓮が、壁に貼られた古い公演ポスターを顎で示した。二年前の文化祭演劇部、と印刷されたポスターは端が破れていて、出演者の名前はほとんど読めなかった。

私がドアの前に立っていることに、咲良が先に気づいた。

「凛! こっち来て。紹介する」

逃げ損ねた。ドアを開けると、照明スイッチに寄りかかっていた蓮がこちらを一瞥した。値踏みするような、けれどすぐに興味を失くすような視線。転校初日の教室で浴びたものに似ているけれど、もっと乾いていた。

「誰」

「藤宮凛。昨日の相手役」

「相手役って、通りすがりを捕まえたやつ?」

咲良は否定しなかった。蓮は短く息を吐いて、私ではなく咲良に向き直った。

「お前さ、そうやって誰でも巻き込むの、やめたほうがいいぞ」

「巻き込んでない。凛は自分で来た」

自分で来た。その言い方は正確だった。誰にも連れてこられていない。咲良に「来て」と言われて、自分の足で歩いてきた。それが巻き込まれたのか自分の意思なのか、今の私には判断がつかなかった。

「まあいいけど。それより、さっきの話——」

蓮が言いかけたとき、旧視聴覚室のドアが外からノックされた。三回、規則正しいリズム。咲良と蓮が同時にドアを見た。

開いたドアの向こうに立っていたのは、昨日中庭で咲良に書類を突きつけていた、あの背の高い男子だった。生徒会の腕章が蛍光灯の光を反射している。切り揃えた短髪と、アイロンのかかった制服。隣にはもう一人、書記らしき女子がクリップボードを抱えていた。

「水瀬。正式に通達に来た」

声は丁寧だったが、温度がなかった。クリップボードの女子が一枚の書類を差し出す。咲良が受け取るのを待たず、男子が口を開いた。

「文化祭エントリー締切は四月二十五日。部員五名以上の活動実態がない部は、同日をもって廃部届を受理する。演劇部の現在の登録部員は——」

「二名」

咲良が遮った。蓮が目を逸らす。

「そう、二名。水瀬と桐生だけだ。あと二週間で三人集められるのか?」

生徒会長——日野、と咲良が昨日呟いていた名前を思い出した——は、淡々と事実を並べているだけだった。意地悪な言い方ではない。むしろ手続きに忠実な、感情を挟まない物言い。それが余計に冷たく聞こえた。

「集める」

咲良の返事は短かった。日野はわずかに眉を上げたが、それ以上は何も言わなかった。書記の女子がクリップボードに何か書き込んで、二人は静かに去っていった。ドアが閉まると、旧視聴覚室は急に広くなったように感じた。

沈黙の中で、蓮が最初に動いた。壁に寄りかかっていた体を起こして、古い照明のスイッチを意味もなく二回切り替えた。カチ、カチ。天井の蛍光灯が一瞬瞬いて、また安定する。

「無理だろ」

「無理じゃない」

「根拠は」

「根拠はない。でもやる」

蓮は呆れたように首を振った。けれど部屋を出ていかなかった。照明のスイッチから手を離して、積み上げられたパイプ椅子の一つを引き出し、乱暴に座った。出ていかない、ということが彼なりの答えなのだと、なんとなくわかった。

咲良が日野の置いていった書類を広げた。文化祭参加団体エントリーシート。団体名、代表者名、部員名簿、演目、使用希望設備。空欄だらけの書類の、部員名簿の欄には二行しか埋まっていない。水瀬咲良。桐生蓮。その下の空白が三行、しんと白い。

「あと三人」

咲良が呟いた。独り言なのか、私に向けて言ったのか、判断がつかなかった。たぶん両方だ。

「当てはあるのか」

蓮の問いに、咲良は少し考えてから首を横に振った。正直だった。嘘でもいいから「ある」と言えばいいのに、この子はそうしない。中庭で日野に食い下がったときも、旧視聴覚室で一人芝居をしていたときも、震えながらも嘘だけはつかなかった。

「でも二週間ある」

「二週間しかないんだよ」

蓮の言い方は冷たかったけれど、残酷ではなかった。事実を事実として差し出しているだけ。日野と似ている。けれど日野が外側から突きつけた事実を、蓮は内側から——同じ部にいる人間として突きつけている。その違いが、声の温度のわずかな差に出ていた。

私はパイプ椅子にも座らず、ドアの近くに立ったままだった。鞄の中に昨日の台本のプリントが入っている。朝、咲良に返すつもりだった。返して、それで終わりにするつもりだった。

咲良がエントリーシートをテーブルに置いて、ペンを取り出した。胸ポケットの三本のうち、赤いやつ。空白の部員名簿の三行目に、何も書かずにペン先を宙に浮かせたまま止まった。書く名前がないのだ。

私は、その赤いペン先を見ていた。

手伝う、と言えばいい。もっと簡単に、入部する、と言えばいい。たった一言で、あの三行目は埋まる。残りは二人になる。それだけのことだ。

——それだけのこと?

一回目の転校で学んだ。関われば、離れるときに痛い。二回目で学んだ。最初から関わらなければ、痛みはない。三回目の今、私は完璧な壁を作るはずだった。初日に名前だけ言って、文庫本を開いて、誰の視線も受け流して、一年間を透明に過ごすはずだった。

なのに二日目で、ここにいる。

咲良が赤いペンをしまった。誰にも強制しない。「書いて」とは言わない。ただ空白を空白のまま見せるだけ。それがずるいのだと、たぶん咲良自身は気づいていない。

「今日は帰る」

自分の声は思ったより普通だった。咲良がこちらを見た。引き止めない。うん、とだけ頷いた。蓮はパイプ椅子に座ったまま、天井を仰いでいた。

鞄の中のプリントを返さなかった。返すタイミングを逃した、と自分に言い訳した。明日返せばいい。

校門を出て、春の空気を吸い込んだ。四月の夕方は昨日と同じ匂いがする。制汗剤と桜と、どこかの部活のホイッスルの音。イヤホンをつけようとして、やめた。昨日もつけなかった。二日続けてつけないのは、もう習慣の崩壊だ。

帰り道、信号待ちをしながらスマートフォンを開いた。美月からのメッセージは、まだ「凛ちゃんの新しい学校、楽しいといいね」のまま既読がついている。返信しようとして、指が止まった。楽しいかどうかわからない。でも昨日までは「楽しくない」と即答できた。今日は、できない。

夜、宿題を片づけてから、また鞄のプリントを開いた。昨夜は二行目だけ読んだ。今夜は三行目まで読んでしまった。声には、出さなかった。

翌日も、その翌日も、放課後になると足が旧視聴覚室に向かった。入部届は書いていない。手伝うとも言っていない。ただ部屋の隅のパイプ椅子に座って、咲良が一人で台本を読むのを聞いている。蓮は照明のスイッチをいじったり、古い機材の埃を払ったりしている。三人とも、私がなぜここにいるのか訊かない。

エントリーシートの三行目は、まだ空白のままだった。

四日目の放課後、旧視聴覚室に向かう廊下で、ふと足が止まった。自分が何をしているのか、急にわからなくなった。入部するつもりはない。手伝うつもりもない。なのに毎日ここに来ている。壁を作ると決めたのに、壁の内側に窓を開けてしまっている。

——私は、何がしたいんだろう。

答えは出ないまま、足はまたドアの前に立っていた。

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