第2話
第2話
廊下の突き当たりに立ち尽くしたまま、どれくらい経っただろう。一分か、三十秒か。放課後の校舎は静かで、旧視聴覚室から漏れる声だけが空気を震わせている。
声が、また始まった。
「——届かないってわかってるのに、どうして手を伸ばすんだろう」
独り言ではなかった。台詞だ。けれど教科書を朗読するような平板さはなくて、言葉の一つひとつが呼吸と一緒に押し出されている。掠れた声が廊下の壁に反射して、まるですぐ隣で囁かれているみたいに輪郭がくっきり届く。
私はそっとドアに近づいた。近づいてどうするつもりなのか、自分でもわからない。ただ足が勝手に動いた。筆箱を取りに来ただけなのに、教室は反対方向なのに。
ドアには小さなガラス窓がついていた。埃で曇っているけれど、中の様子がぼんやり見える。暗幕が半分だけ引かれた部屋の中央に、一人の女子が立っていた。
——昼間の、あの子だ。
中庭で生徒会の腕章をつけた男子に食い下がっていた、小柄な女の子。肩までの黒髪が、窓から差し込む西日で茶色く透けている。手には何枚かのプリントを持っていて、それを台本がわりにしているらしかった。古い視聴覚室の機材——壊れたプロジェクターや積み上げられたパイプ椅子——に囲まれて、たった一人で芝居をしている。相手役のいない会話を、空気に向かって投げかけている。
見てはいけないものを見ている気がした。それなのに目が離せなかった。あの子が台詞を口にするたび、埃っぽい旧視聴覚室の空気がわずかに変わる。それは上手いとか下手とかではなくて、もっと単純な——本気だ、と思った。
「届かなくても、」
声が一段低くなった。プリントを持つ手がわずかに震えている。昼間と同じ震え方。怖いのに止まらない、あの拳の震えと同じだ。
「届かなくても、声を出さなきゃ——」
台詞が途切れた。彼女の視線が、ドアのガラス窓を捉えていた。
目が合った。
逃げようとした。体ごと廊下の壁に張りつこうとしたけれど、遅かった。ドアが内側から勢いよく開いて、小柄な体がぬっと廊下に飛び出してきた。近くで見ると本当に小さい。私の肩くらいまでしか背丈がない。なのに目だけがやけに強くて、見上げてくる視線に射すくめられた。
「覗いてた?」
声は責めるような調子ではなかった。むしろ確認するような、淡々とした言い方。
「——通りかかっただけ」
「嘘。三十秒は立ってた」
三十秒。正確だ。いや、もっと長かったかもしれない。言い訳を探したけれど、彼女はもう興味をそちらに向けていなかった。私の顔を下からじっと見つめて、何かを測るような目をしている。値踏みとは違う。品定めでもない。もっと切実な、何かを探すような目つきだった。
「ねえ、一回だけ」
唐突だった。彼女が手にしていたプリントの束から一枚を引き抜いて、こちらに差し出した。
「相手役、やってくれない?」
意味がわからなかった。プリントには手書きの文字がびっしり並んでいて、台詞らしきものにマーカーが引いてある。黄色のマーカーと、ピンクのマーカー。二色。二役分。
「ここ」
彼女が黄色い線の引かれた一行を指さした。
「この台詞だけでいいから。一行だけ。お願い」
断る理由はいくらでもあった。知らない人に付き合う義理はない。そもそも私はここに筆箱を取りに来ただけだ。関わらないと決めたのだ。壁を作ると、今朝決めたばかりだ。
「ごめん、私——」
「十秒で終わるから」
食い下がり方が、昼間の中庭と同じだった。一歩も引かない足。まっすぐな目。手にしたプリントだけが微かに震えている。ずるい、と思った。その震えを見せられたら、振り払えない。
気がついたら、プリントを受け取っていた。
黄色いマーカーの一行。「——そんなの、届くわけないじゃん」。たった十五文字の台詞。彼女がピンクのマーカーの台詞を先に読み、私がそれに返す構成らしい。
「じゃあいくよ」
彼女が一歩下がって、旧視聴覚室の入口に立った。廊下と部屋の境目、ちょうどドアの枠に夕日が斜めの線を引いている。
「届かなくても、声を出さなきゃ始まらない。だから私は——」
さっきまで一人で練習していたのと同じ台詞だった。でも声の質が変わっていた。相手がいる。投げる先がある。それだけで、言葉の輪郭がまるで違った。彼女の目がまっすぐ私を見ている。台詞なのに、台詞じゃないみたいだった。
プリントに目を落とした。黄色い線。十五文字。口を開く。声を出すつもりなんてなかったのに、彼女の台詞が胸の真ん中に飛び込んできて、返さなきゃ、と体が反応した。
「——そんなの、届くわけないじゃん」
自分の声が、思ったより低く響いた。廊下の天井に反射して、旧視聴覚室の暗幕に吸い込まれて、消えた。一行だけ。それだけ。なのに喉の奥が、じんと熱かった。
沈黙が落ちた。
彼女が目を丸くしていた。プリントを持つ手が下がって、さっきまでの真剣な演者の顔がほどけて、年相応の——同い年くらいの女の子の、素の表情になっていた。
「あんた、声いいね」
静かな声だった。お世辞の響きはなかった。ただ事実を口にしたような、平らな言い方。それが余計に真っ直ぐ刺さった。
「……別に」
「ううん、いい。すごくいい。冷たいのに温度がある。矛盾してるけど、そういう声」
意味がわからなかった。冷たいのに温度がある? 何を言っているんだろう。でも胸の奥で、さっきの一行を読んだときの熱がまだくすぶっていて、否定する言葉がうまく出てこなかった。
「私、水瀬咲良。演劇部——っていうか、ほぼ一人だけど」
彼女は——咲良は、名乗りながらプリントの束を胸に抱え直した。演劇部。一人。なるほど、だから旧視聴覚室で一人芝居をしていたのか。昼間の中庭で生徒会の男子に食い下がっていたのも、きっとこの部のことだ。
「藤宮凛。今日転校してきた。筆箱、取りに戻っただけだから」
「知ってる。二組でしょ。朝、拍手したの私」
あの拍手。始業式のあと教室で、たった一つだけ聞こえた拍手。あれがこの子だったのか。一瞬で周囲のざわめきに消されたあの音の出どころが、今、目の前にいる。
「……なんで拍手なんか」
「転校生って拍手もらえないでしょ、大体。でもあんた、あの空気の中で堂々と立ってたから」
堂々となんて立っていない。印象に残らないように、壁を作るために、平坦な声で名前を言っただけだ。それを堂々と呼ぶこの子の目は、たぶん少しずれている。いい方向に。
「ありがとう。じゃあ」
プリントを返そうとした。咲良は受け取らなかった。
「それ、持ってて」
「……は?」
「明日また読んでほしいから」
断ろうとした。口を開きかけて、けれど咲良はもう旧視聴覚室に引っ込んでいた。ドアの隙間から「ばいばい」とだけ声がして、パタンと閉まった。手の中にプリントが一枚残された。黄色いマーカーの一行が、夕日に照らされてやけに鮮やかだった。
筆箱。
本来の目的を思い出して教室に戻り、机の中から水色の筆箱を取り出した。鞄にしまう。プリントは——折りたたんで、筆箱の隣に入れた。捨てればいいのに。明日返せばいいだけだ。読み返す必要なんてない。
帰り道、いつもなら音楽を聴くイヤホンをつけなかった。
自分の声がまだ耳の奥に残っている。「届くわけないじゃん」。たった一行。あの台詞を口にした瞬間の、喉の奥の熱。冷たいのに温度がある、と咲良は言った。意味はわからない。わからないのに、あの言葉が頭の中でぐるぐる回っている。
壁を作ると決めたのだ。関わらないと決めたのだ。なのにプリントを捨てられない自分がいて、それが少しだけ腹立たしい。
夜、机に向かって宿題を広げたけれど、鞄の中の折りたたまれたプリントのことが気になって仕方なかった。結局一度だけ開いて、黄色のマーカーの下にある二行目を読んだ。明日の台詞。声には出さなかった。出したら、もう一歩踏み込んでしまう気がしたから。
翌朝、教室に入って席についた瞬間、廊下からぱたぱたと小走りの足音が近づいてきた。ドアが開く。肩までの黒髪、小柄な体。制服の胸ポケットにペンが三本刺さっている。
咲良が、教室の入口に立っていた。
「凛、放課後空いてる?」
三十二人の視線が、今度は私ではなく彼女に集まった。咲良は気にした様子もなく、まっすぐこちらを見ている。昨日と同じ、何かを探すような目で。
返事をする前に、鞄の中のプリントが微かに重くなった気がした。