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桜の下、震える拳を見た

第1話 第1話

第1話

第1話

三回目の転校で学んだことがある。教室には関わっていい人間と、そうでない人間がいる——そして私は、どちらにもならないことを選んだ。

四月の始業式が終わって、担任に促されるまま教室の前に立ったとき、三十二の視線がいっせいにこちらを向いた。品定めするような目。興味半分、警戒半分。どれも見慣れたものだった。蛍光灯の白い光が妙にまぶしくて、黒板の匂いと、誰かの制汗剤の甘ったるい香りが混ざり合っている。前の学校でも、その前の学校でも、最初に立たされる教壇の景色はいつも同じだ。違うのは窓から見える街並みだけ。

「藤宮凛です。よろしくお願いします」

声は自分でも驚くほど平坦だった。笑顔を作る必要はない。愛想よくしすぎれば期待される。素っ気なくしすぎれば敵を作る。転校生の最適解は、印象に残らないことだ。担任が「なにか質問ある人ー」と間延びした声で促したが、手を挙げる生徒はいなかった。静寂が二秒、三秒。担任が「じゃあ席に——」と言いかけたタイミングで、後ろのほうから小さな拍手が一つだけ聞こえた。振り返る間もなく、それは周囲のざわめきに飲まれて消えた。

窓際の後ろから二番目。与えられた席に座ると、四月の風が首筋をくすぐった。椅子が微かに軋む。前の持ち主が彫ったらしい小さな落書きが、机の右端に残っていた。星のような、花のような、よくわからない形。桜はもう散りかけていて、中庭のアスファルトに薄桃色の花びらが貼りついている。前の学校では、こういう景色をきれいだと思える余裕があった。放課後に友達と屋上から港を眺めて、風が気持ちいいねと笑い合った日があった。その前の学校では、一緒に見てくれる子がいた。春になるたびに並んで桜を見上げて、来年も一緒に見ようねと約束した。その約束は、父の辞令によって紙切れより軽く破られた。

今はただ、窓の外を眺めるふりをしているだけだ。

鞄から文庫本を取り出した。栞は昨日の続き、百二十三ページ。物語の中にいれば誰にも話しかけられなくて済む。一年生の教室特有の、まだぎこちない笑い声があちこちから上がる。「中学どこだった?」「え、うそ、近いじゃん!」——そんな断片が耳に飛び込んでくるたびに、活字の上を滑る目の速度が少しだけ落ちる。グループができあがるのは早い。入学式から三日もあれば、教室の地図はほぼ完成する。転校生が入り込める余白は、初日の今日しかない。

だから今日、壁を作る。

ページをめくる指先に力を入れた。文字は追っているけれど、一行も頭に入ってこない。隣の席の女子が「ねえ、前の学校どこ?」と声をかけてきたのに、「横浜」とだけ答えて視線を本に戻した。沈黙。相手が「ふうん」と興味を失くしたのが気配でわかる。椅子の脚が床をこする音がして、体ごと反対側の友達に向き直ったのだろう。これでいい。深く関わらなければ、離れるときに痛くない。横浜の友達——美月の顔がちらついて、慌ててページに視線を押しつけた。美月の最後のメッセージにはまだ返信していない。「凛ちゃんの新しい学校、楽しいといいね」。楽しいかどうかなんて、最初から期待していない。

二時間目と三時間目のあいだの休み時間に、それは起きた。

窓の外、中庭の桜の木の下に二つの人影があった。一人は背の高い男子で、もう一人はその半分くらいしかない小柄な女子。制服の上に生徒会の腕章をつけた男子が、なにか書類のようなものを突きつけている。

声は聞こえない。窓は閉まっていたし、二階から中庭までは距離がある。でも、男子の身振りが苛立っているのは見てとれた。書類を押しつけるように差し出し、早く受け取れとでも言うように顎をしゃくる。風が吹いて、書類の端がばたばたとはためいた。男子の唇が大きく動く。言葉は読めないが、語気の荒さは距離を超えて伝わってきた。

女子は受け取らなかった。

両手を体の横にぴったりつけて、まっすぐに男子を見上げている。小柄な体が風に揺れそうなほど細いのに、足だけは地面に根を張ったように動かない。肩まで伸びた黒髪が春風に乱されて頬にかかっても、払おうとすらしなかった。男子が一歩詰め寄った。身長差で完全に影に入る距離。女子は一歩も引かなかった。

拳が震えていた。

距離があっても、それだけは見えた。握りしめた両の拳が、小刻みに震えている。怖いのだ。怖いのに、逃げない。スカートの布地に爪が食い込むほど握りしめているのが、白くなった指の関節でわかった。

私は自分でも気づかないうちに文庫本を閉じていた。

あの拳を、知っている。一回目の転校のとき、仲良くなった子と引き離されて、母に「行きたくない」と言ったときの自分の手が、あんなふうに震えていた。リビングのテーブルに両手をついて、声を絞り出して、お願いだからと繰り返した。母は困ったように笑って、「お父さんのお仕事だから」とだけ言った。結局なにも変わらなかった。父の辞令ひとつで街が変わり、人が変わり、私はまた一からやり直しになった。二回目のときにはもう、拳を握ることすらやめていた。握っても届かないと知ってしまったら、力の入れ方を忘れる。

中庭の女子は、まだ動かない。男子が背を向けて歩き去っても、しばらくそこに立ち尽くしていた。やがて一人になった桜の木の下で、ゆっくりと拳をほどく。その指が震えているのが、今度もはっきり見えた。ほどいた手のひらを、自分の胸の前で重ねるようにして、深く息を吐いたのが肩の動きでわかった。それから一度だけ空を仰いで、散りかけの桜を見上げた。花びらが一枚、肩に落ちたのを払いもせず、静かに校舎の中へ戻っていった。

——関係ない。

私は自分に言い聞かせて、文庫本を開き直した。百二十三ページ。同じ行を三回読んで、やっと次の行に進んだ。活字の隙間に、あの震える拳がちらつく。

関係ない。あの子が誰で、なにを守ろうとしていたかなんて、知る必要はない。

チャイムが鳴った。三時間目の準備をしなければ。ノートと教科書を引っ張り出しながら、ちらりと窓の外を見た。桜の木の下にはもう誰もいなかった。花びらだけが、さっきより少し多く地面に散っている。

放課後になるのを、私は静かに待った。

最後のホームルームが終わると同時に鞄を掴む。誰かに声をかけられる前に教室を出る。これも転校三回で身についた技術だった。廊下はまだ賑やかで、部活の勧誘ビラを手にした上級生が一年生を捕まえようと待ち構えている。目を合わせず、足を緩めず、人波の端を縫うように進む。下駄箱で靴を履き替え、正門に向かおうとして——足が止まった。

筆箱。

机の中に置いてきた。明日でもいいか、と一瞬思ったけれど、あの筆箱は母が横浜で買ってくれたものだ。転校が決まった日の翌朝、朝食のテーブルに黙って置いてあった。ごめんね、とも、頑張ってね、とも書かれていない無地の包装紙。開けたら淡い水色の筆箱が入っていて、母なりの謝罪なのだと理解した。一晩でも知らない場所に置いておくのは落ち着かない。

踵を返し、静まりかけた校舎に戻った。昇降口から教室棟への廊下は、放課後の光が斜めに差し込んで、埃が金色に浮かんでいる。自分の足音だけが反響する。さっきまでの喧騒が嘘のように、校舎は急速に空っぽになりつつあった。どこかの教室からパイプ椅子を畳む音が聞こえて、それもすぐに止んだ。

二階に上がり、教室に向かう途中で、聞こえた。

廊下の突き当たり——旧視聴覚室と書かれたプレートの向こうから、声がする。

一人分の声だった。台詞を読み上げているような、独特のリズム。掠れているのに、どこか芯がある。壁越しなのに言葉の輪郭がはっきり届いてくるのが不思議だった。高くも低くもない、中性的な声だ。でも言葉の一つひとつに体温がある。まるで台詞の中の人物が本当にそこにいて、息をしているかのように聞こえた。

足が止まった。

聞き覚えがある声ではない。でも、聞き覚えがある熱さだった。昼間、中庭で拳を握りしめていた、あの——。

声が途切れた。旧視聴覚室のドアの向こうで、なにかが動く気配がする。紙が床に落ちるような、乾いた小さな音。

私は筆箱を取りに来ただけだ。ここにいる理由はない。さっさと教室に行けばいい。

なのに足が、動かなかった。

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