第3話
第3話
タブレットの画面は、触れるたびに少しずつ過去へ遡っていった。
辰雄は台所のテーブルに腰を下ろしたまま、美咲のアカウントの投稿を一つずつ開いていた。日付は新しいものから順に並んでいる。週に二、三回の更新。写真はほとんどが料理だった。日替わりランチ、季節の小鉢、手書きのメニューボード。どの写真も構図が似ていた。皿を真上からではなく、少し斜めの角度で撮っている。光の入り方が自然で、作為がない。料理を美しく見せようとする意図より、ただ記録しておきたいという気配があった。
三ヶ月前の投稿に、蕪の含め煮があった。薄い翡翠色の出汁に、白い蕪が沈んでいる。皮の剥き方が丁寧だった。面取りの幅が均一で、煮崩れの気配がない。その写真を見たとき、辰雄の指がわずかに止まった。陽子の煮物だ、と思った。味は分からない。分かるはずがない。けれど、皮の剥き方と面取りの角度に、見覚えがあった。陽子が蕪を剥くとき、包丁の刃を寝かせて、手首だけで回すように動かしていた。割烹で辰雄のそばに立ち、見よう見まねで覚えた剥き方だった。辰雄が教えたのではない。陽子が勝手に盗んだのだ。その刃の角度が、画面の蕪にそのまま残っていた。
さらに遡った。半年前。一年前。投稿の頻度は次第にまばらになり、写真の明るさも変わっていく。開店当初のものらしい、やや暗い写真が続いた。カウンターに並んだ調味料、壁に貼られたメニュー、まだ何もない棚。一人で店を始めた人間の、静かな記録だった。
一年半前の投稿をスクロールしたとき、辰雄の手が止まった。
メニューの写真だった。黒板に白いチョークで書かれた日替わりの品書き。その右下の隅に、紙切れが画鋲で留められていた。写真の端に小さく写り込んでいるだけで、意図的に撮ったものではないように見えた。白い紙に、細かい文字が走り書きされている。
画面を二本の指で広げた。文字は潰れて読みにくかったが、構成は見て取れた。材料名が左に、分量が右に、その下に手順が番号なしで箇条書きになっている。行間は詰まっていて、余白がほとんどない。最後の行だけ少し離れたところに、短い走り書きが添えてある。
辰雄はタブレットを持ち上げて、目を近づけた。画面の光が眼鏡に反射した。読めない。文字そのものは判読できないのに、書式だけが目に焼きついた。
材料を左、分量を右。手順は番号なし。最後に一言だけ、仕上がりの印象を添える。
辰雄のレシピノートと同じだった。
胸の奥で、何かが小さく軋んだ。痛みではない。もっと鈍い、名前のつかない圧だった。
割烹を営んでいた頃、辰雄は献立の控えをすべてその書式で記していた。師匠から受け継いだやり方ではない。自分で作った書き方だった。番号を振らないのは、手順を固定したくなかったからだ。素材の状態によって順番を変えることがある。最後の一言は、味ではなく、皿を見た瞬間の空気を書いた。「冬の朝、障子越し」とか、「雨の日の石畳」とか。陽子にだけは見せたことがあった。陽子は何も言わなかった。ただ頷いた。
美咲はどこでこの書式を覚えたのだろう。辰雄が教えたことはない。美咲が割烹の厨房に入ったことは数えるほどしかなかった。小学校低学年の頃、陽子に連れられて何度か来た程度だ。辰雄は仕込みの最中で、娘に構う余裕はなかった。美咲がどこを見ていたのかも知らない。
陽子だ、と辰雄は思った。陽子が教えたのだ。あのノートを見せたのか。それとも、陽子自身がこの書式で書いていて、美咲がそれを真似たのか。衣装ケースの底にある、陽子の覚え書き。あの字と、画面の向こうの走り書きが、辰雄の知らない場所で繋がっている。
タブレットを置いた。指先が冷えていた。いつの間にか一時間以上が経っていた。台所の蛍光灯だけが白い光を落としている。辰雄は自分の手を見た。皺の深い、節くれだった指。この手からは何も伝えなかった。技術も、書式も、最後の一言の意味も。伝えなかったものを、美咲はどこかから拾い上げていた。
翌朝、辰雄はいつもより三十分早く弁当屋に入った。
昨日のうちに仕入れた根菜が冷蔵庫に並んでいる。蓮根、ごぼう、人参、里芋。鶏もも肉は今朝、肉屋で受け取った。こんにゃくの下茹でから始める。鍋に湯を沸かし、手で千切ったこんにゃくを入れる。二十分。これを省く人間が多いが、辰雄は省かない。
里芋の皮を剥きながら、指先にぬめりを感じた。包丁の背で薄く皮を引くと、白い肌が現れる。六角に面取りし、塩で揉んで水にさらす。割烹にいた頃と変わらない手の動きだった。ただ、あの頃は何百個と剥いても何も思わなかった。今は一つひとつの手触りが妙に鮮明だった。
鶏肉を一口大に切り、ごぼうを乱切りにし、蓮根は厚めの半月に落とす。鍋に油を引き、鶏肉の表面を焼いた。脂が弾ける音と、醤油を入れたときに立ち上る香ばしい湯気。出汁を注ぐと、厨房の空気がふっと変わった。根菜と鶏の脂と出汁が混ざり合う、筑前煮の匂い。辰雄の鼻が、何十年分の記憶のどこかに繋がった。
村瀬さんの筑前煮を仕上げたのは十一時だった。大きめの鉢に盛り付け、ラップをかけた。蓮根の歯触り、里芋の柔らかさ、こんにゃくの芯まで染みた味。三百八十円の弁当では出さない丁寧さだった。だが手が自然にそう動いた。久しぶりだった。素材と向き合い、火加減を見極め、味を含ませる。その時間だけ、頭の中は静かだった。
村瀬さんが翔太を連れて取りに来たのは十二時過ぎだった。鉢を手渡すと、村瀬さんは中を覗き込んで「わあ」と小さく声を上げた。翔太が背伸びをして鉢の中を見ようとしている。
「ありがとうございます。これ、お代——」
「いりません」
村瀬さんが口を開きかけたのを、辰雄は遮った。
「それと、これを」
辰雄はカウンターの下から小さなパックを取り出した。中に、出汁巻き卵が二切れ入っていた。弁当用のものとは違った。巻きが細かく、断面に巣がない。出汁の割合を少しだけ多くしてある。甘すぎず、塩が立ちすぎず、卵の味が素直に残る配合だった。
「翔太くんに。卵焼き、好きだと聞いたので」
翔太が辰雄を見上げた。それから出汁巻きを見て、また辰雄を見た。小さな目が、パックの中の黄色をじっと見つめている。「ありがとう」と言って、小さな手でパックを受け取った。両手で抱えるようにして持つその仕草が、辰雄の視界の端で滲んだ。
村瀬さんは何度もお辞儀をして帰っていった。翔太はガラス戸を出る直前にまた振り返った。昨日と同じように手を振った。辰雄は今度も軽く頭を下げた。
出汁巻き卵。美咲が好きだった。いつ好きだと知ったのか、辰雄は覚えていない。陽子から聞いたのだと思う。陽子はよくそういう話をした。「美咲ね、卵焼きは甘くないのがいいんだって」。辰雄がそれに何と返したかも覚えていない。おそらく何も返さなかった。割烹の板前が、家庭の出汁巻きを焼くような話は、当時の辰雄には遠い話だった。遠い、と感じていたことすら自覚していなかった。
今日焼いた出汁巻きが、美咲の好みに合うかは分からない。二十二歳の美咲が何を好むのか、辰雄には知る手がかりがない。ただ、タブレットの画面に映ったあの走り書きが、まだ目の奥に残っていた。
午後の片付けを終えて、辰雄がシンクの水を止めたとき、奥の事務スペースから岡田が出てきた。腕を組み、厨房の入口の柱に肩をもたせかけた。
「宮沢さん」
「はい」
「さっきの煮物、見たよ」
辰雄は手を拭いた。岡田の声には、いつもの雑な明るさがなかった。
「あんた、昔はもっといい料理作ってたんだろ」
辰雄の手が、タオルを握ったまま止まった。岡田の目が、まっすぐこちらを見ていた。冗談でも、世間話でもない目だった。辰雄は視線を外し、シンクの縁に目を落とした。水垢が薄く白く残っている。答えるべき言葉があるのかもしれなかった。だが、どの言葉も正確ではなかった。
岡田は答えを待っていた。辰雄は何も言わなかった。換気扇が低く唸っている。シンクの蛇口から、水滴が一つ落ちた。
「まあ、いいけどさ」
岡田はそう言って、奥に戻っていった。足音が事務スペースの奥で止まり、椅子が軋む音がした。それきり静かになった。
辰雄はタオルをかけ直し、厨房の照明を一つずつ消した。最後のスイッチに手をかけたとき、暗くなった厨房の中に、ステンレスの調理台だけが外光を受けて鈍く光っていた。その光沢の中に、自分の輪郭がかすかに映っていた。