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最後の一皿

第2話 第2話

第2話

第2話

翌朝、五時半にアラームが鳴る前に目が覚めた。

身体を起こすと、腰のあたりが重かった。昨夜の缶ビールのせいではない。病院のベッドで眠ったわけでもない。ただ、五十七年使い続けた身体が、少しずつ言うことを聞かなくなっている。それだけのことだった。

顔を洗い、歯を磨く。鏡の中の自分を見る習慣はとうに失くしていたが、蛇口を閉めたとき、ふと目が合った。頬がこけている。いつからこうだったのか、分からない。目の下に影があった。睡眠の質が悪いのは今に始まったことではないが、その影は以前より深くなっている気がした。鏡から目をそらし、作業着に着替えた。

弁当屋の厨房に入ると、換気扇の唸りがいつもと同じ音程で迎えた。田村さんはまだ来ていない。辰雄は手を洗い、出汁を引く準備を始めた。昆布を水に浸す。鍋に火をかける。里芋の下茹では昨日のうちに済ませてある。今日の弁当は、鮭の塩焼き、ほうれん草のおひたし、きんぴらごぼう、出汁巻き卵。いつもの献立だった。

卵を割る。ボウルの縁に当てて、片手で開く。黄身が出汁の中に沈む。四つ、五つ、六つ。菜箸で切るように混ぜる。泡を立てない。出汁巻き卵は泡が入ると巣ができる。卵焼き器を火にかけ、油を引き、最初のひと流しを入れる。じゅ、と小さな音がして、卵液が薄く広がる。端から巻いていく。手首の返し。これも身体が覚えている動作だった。

六時半に田村さんが来て、七時過ぎに岡田が来た。三十食分の弁当を並べ始める頃には、厨房は湯気と油の匂いで満ちていた。辰雄は出汁巻きを切り分けながら、昨夜のことを考えまいとしていた。冷蔵庫の前で立ち止まったこと。卵を見て、美咲の名前が浮かんだこと。それを押し込めるように、包丁の刃先に意識を集中させた。三センチ幅。弁当の容器に二切れずつ。手は止まらない。

十一時の開店直後に、村瀬さんが来た。

三十代の、小柄な女性だった。いつも息子の翔太を連れている。翔太は五歳で、カウンターの椅子に座ると足がぶらぶらと宙に浮く。村瀬さんは週に二回ほど弁当を買いに来る常連で、辰雄とは挨拶を交わす程度の関係だった。名前を知っているのは、岡田が「村瀬さんとこの坊やが卵焼き好きでさ」と言ったのを覚えていたからだ。

「宮沢さん、あの、ちょっとお願いがあるんですけど」

村瀬さんは弁当を受け取りながら、少しだけ声を低くした。翔太はカウンターの上に置かれたふりかけの見本を眺めている。

「明後日、この子の誕生日で。お弁当じゃなくて、何か特別なもの、一品だけお願いできませんか。お金はもちろん払いますので」

辰雄は手を止めた。特別なもの。その言葉が、厨房の空気の中で少しだけ浮いた。三百八十円の弁当屋に、特別な一品を頼む。村瀬さんの表情には気負いがあった。無理を言っている自覚があるのだろう。

「お誕生日ですか」

「六歳になるんです。ケーキは用意するんですけど、この子、甘いものよりおかずが好きで」

翔太がふりかけから顔を上げた。丸い目が辰雄を見た。

「おかあさんの好きなもの作って」

村瀬さんが「え、翔太」と笑った。「あなたの誕生日でしょ」

「おかあさんがおいしいって言うやつがいい」

翔太はそれだけ言って、またふりかけに目を戻した。子供の言葉はいつも短い。短いから、刺さる場所を選ばない。

辰雄の指先が、カウンターの縁をかすかに握った。

おかあさんの好きなもの。

音として聞いたはずの言葉が、別の声で再生された。もっと高い、もっと幼い声で。台所の低いテーブルに頬杖をついて、足をぱたぱたさせていた小さな女の子。

——おとうさんの好きなもの、作って。

美咲が何歳のときだったか。五つか、六つか。陽子が夕飯の支度をしている横で、美咲がそう言った。陽子が笑って「お父さんは難しいものが好きだから」と答えた。辰雄は割烹から帰っていなかった。この場面を辰雄が知っているのは、陽子があとから話してくれたからだ。「美咲ったらね」と、おかしそうに笑って。辰雄は「ふうん」と言っただけだった。

その「ふうん」の軽さを、辰雄はずっと覚えている。陽子がどんな顔をしたかは覚えていない。自分が何をしていたかも思い出せない。おそらく新聞を読んでいたか、テレビを見ていた。娘が父親の好きなものを作りたいと言った、その話を聞きながら、目を上げさえしなかったのだ。

「——承ります」

声が出ていた。村瀬さんが目を丸くした。

「いいんですか?」

「何がお好きですか。村瀬さんが」

「え、私ですか?」村瀬さんは翔太をちらりと見て、少し考えた。「煮物、かな。おばあちゃんが作ってくれた筑前煮が好きで。でも自分で作ると何か違うんですよね」

「根菜は明後日の朝に仕入れます。お昼過ぎに取りに来ていただければ」

村瀬さんは何度も頭を下げて帰っていった。翔太が出口でくるりと振り返り、辰雄に向かって手を振った。小さな手のひらが、ガラス戸越しの日光を一瞬受けて白く光った。辰雄は軽く頭を下げた。それだけだった。

岡田が奥から顔を出した。「いいのか、宮沢さん。うちは仕出しはやってねえぞ」

「材料費は自分で出します」

「そういう話じゃねえんだけどな」

岡田はそれ以上何も言わなかった。辰雄の顔に何を読み取ったのかは分からない。

午後の片付けを終えて、辰雄は弁当屋を出た。二月の日差しは低く、商店街のアーケードの影が長く伸びていた。風が首筋を抜けた。冷たいが、もう真冬の鋭さはない。筑前煮の材料を頭の中で並べた。蓮根、ごぼう、里芋、人参、鶏もも肉、こんにゃく、干し椎茸。出汁は鰹と昆布の合わせ。ありふれた煮物だ。しかし、ありふれた煮物ほど手を抜けない。素材の切り方、煮る順番、火加減、味の含ませ方。割烹で教えたことのある料理だった。若い板前に何度も繰り返した。基本ができていなければ、何を作っても同じだ。

基本。

陽子に初めて作った料理も、筑前煮だった。見合いの席で、陽子は「煮物が好き」と言った。辰雄は翌週、自分の店で仕込んだ筑前煮を小さな重箱に入れて持っていった。陽子は一口食べて、箸を止めた。「こんにゃくが美味しい」と言った。こんにゃくを褒める人間を、辰雄は初めて見た。下茹でに二十分かけたこんにゃくだった。手間をかけた場所を、何も言わなくても分かる人だと思った。あのとき、陽子の箸先がこんにゃくの断面をじっと見つめていたのを覚えている。料理を見る目だった。味が分かる人の目だった。

アパートに帰り、靴を脱ぎ、電気をつけた。昨夜と同じ六畳間。缶ビールを買い忘れたことに気づいたが、取りに戻る気にはならなかった。テーブルの前に座り、壁を見る。何もない壁だった。

翔太の声がまだ耳に残っていた。おかあさんの好きなもの作って。その声の奥に、別の声が重なっている。消えない。消せない。消したいとも思わなかった。ただ、そこにある。

辰雄は立ち上がり、衣装ケースの上に置いていた古い携帯電話を手に取った。二つ折りの、画面の小さな機種だった。電話帳には数件しか登録がない。美咲の番号は三年前に変わったまま、古い番号だけが残っている。かけても繋がらない番号だ。それでも消去できなかったのは、この数字の並びだけが、娘との最後の接点のように思えたからだ。

携帯電話を閉じた。テーブルの上に戻す。

それから何分か、辰雄は動かなかった。

ゆっくりと台所に移動し、古い棚の引き出しを開けた。中にチラシや領収書に混じって、岡田が「便利だぞ」と押し付けてきた安いタブレット端末が入っていた。ほとんど使ったことがない。電源を入れると、画面が青白く光った。

検索窓に指を置いた。一文字ずつ打つ。み、や、ざ、わ、み、さ、き。変換する。宮沢美咲。自分の指が打った文字を、辰雄はしばらく見つめていた。娘の名前がこんなにもよそよそしい字面に見えるのは、画面の上だからだろうか。検索ボタンを押す指が、わずかに震えていた。

結果が並んだ。同姓同名の人間はいくらでもいる。辰雄はゆっくりとスクロールした。画面の文字は小さくて読みにくかった。三ページ目に、写真つきの投稿があった。

小さなカフェのカウンター。白い皿に盛られた料理。木の温もりのある内装。アカウント名は店の名前らしかった。辰雄はその投稿を開いた。

写真の中に、手が写っていた。皿を置く手。爪は短く整えられている。その手首のかたち。陽子に似ていた。

辰雄は画面をスクロールする手を止めた。投稿の日付は先週だった。プロフィールに書かれた住所は、電車で四十分ほどの街だった。四十分。毎日の通勤圏内だった。そんなに近くにいたのか、と思った。

画面の光が、暗い台所に青白い影を落としていた。辰雄はタブレットをテーブルに置いたまま、しばらく立っていた。画面がやがてスリープで暗くなっても、動かなかった。

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