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最後の一皿

第1話 第1話

第1話

第1話

きんぴらごぼうは、三ミリ幅に切り揃えなければ気が済まない。

誰に求められたわけでもなかった。プラスチックの容器に詰める弁当の惣菜に、そこまでの精度は必要ない。隣で作業するパートの田村さんは五ミリだったり七ミリだったり、日によってまちまちで、それでも客から文句が出たことは一度もない。当たり前だ。三百八十円の日替わり弁当に、ごぼうの太さを気にする人間はいない。

それでも、宮沢辰雄の指は三ミリを刻み続ける。

朝六時の厨房は、換気扇の低い唸りだけが響いている。辰雄は出汁を引く鍋に火をかけ、まな板の前に立った。包丁の柄が掌に馴染む。三十年以上、毎日握ってきた感触だ。ただし、この包丁はかつて使っていたものではない。割烹「みやざわ」の厨房に並んでいた堺の刃物は、店を畳んだときにすべて処分した。今使っているのは、弁当屋の備品のステンレス包丁だ。切れ味は悪くない。研ぎだけは辰雄が毎週やっている。砥石に刃を当てる角度は身体が覚えている。どんな刃物であっても、研ぎ方を変える必要はなかった。刃が応えてくれるかどうかの違いだけだ。

ごぼうの土を落とし、背で皮をこそげる。薄茶色の皮が水に流れていく。ごぼうの青い香りが鼻腔に届く。この匂いだけは、割烹の厨房にいた頃と変わらない。素材は嘘をつかないと、辰雄は思う。三ミリ。包丁を入れるたびに、同じ幅の断面が生まれる。まな板に並ぶ白い断面を見て、辰雄はわずかに息を吐いた。均一であること。それだけが、今の辰雄に残された矜持だった。

「宮沢さん、ごぼう足りてる?」

田村さんが冷蔵庫から顔を出した。六十過ぎの小柄な女性で、辰雄より三つ年上だ。白い割烹着の袖をまくり、頬が冷蔵庫の冷気で少し赤くなっている。

「ええ、大丈夫です」

「今日ね、里芋の煮物も入れてって店長が。三十食分」

「分かりました」

会話はそれだけだった。辰雄は多くを話さない。田村さんもそれを知っていて、必要なこと以外は聞かない。弁当屋の店主である岡田が辰雄を雇ったのは二年前のことで、履歴書の調理師免許だけを見て「じゃ、明日から」と言った。それ以前に何を作っていたのか、岡田は一度も聞かなかった。辰雄にはそれがありがたかった。

里芋の皮を剥きながら、辰雄は昨日の午後のことを考えないようにしていた。考えないようにする、というのは正確ではない。考える隙間に、別のことを詰め込んでいた。里芋の面取りの角度、出汁の色味、きんぴらの炒め加減。手を動かしていれば、頭は黙る。四十年近くそうやって生きてきた。

昨日の午後二時、辰雄は大学病院の診察室にいた。

待合室の椅子に座っている間、窓の外では工事車両が断続的に音を立てていた。名前を呼ばれて立ち上がったとき、膝の裏側がかすかに汗ばんでいるのに気づいた。診察室のドアを開けると、消毒液の匂いと、暖房の乾いた空気が混ざっていた。

担当医は四十代の、眼鏡をかけた穏やかな男だった。モニターに映ったCT画像を指しながら、抑えた声で説明した。膵臓癌、ステージIV。肝臓への転移が認められる。医師の指がモニター上の白い影をなぞるのを、辰雄は黙って見ていた。白い影は地図のようにも見えた。自分の身体の中に、知らない土地が広がっている。辰雄はその言葉を、まるで仕入れ先の報告を聞くように受け取った。今日の鯛は型が小さい、入荷が遅れている——そういう類の、対処すべき事実として。

「治療の選択肢についてお話ししたいのですが」

医師がそう言ったとき、辰雄は壁の時計を見ていた。二時二十三分。明日の仕込みのことを考えていた。里芋は今日中に下茹でしておかないと間に合わない。医師の声は続いていた。化学療法の奏効率、副作用の可能性、通院の頻度。辰雄の耳にはその言葉が入ってきていたが、頭の中ではすでに里芋の数を数えていた。三十食分なら四十個は要る。煮崩れを考えて、四十五。

「宮沢さん?」

「はい」

「ご家族に連絡を取られた方がいいと思います。お一人で抱えるには——」

「家族はおりません」

嘘ではなかった。嘘では。

医師は一瞬言葉を止めた。それからカルテに視線を落とし、小さく頷いた。辰雄には、その沈黙の重さが分かった。医師は何かを飲み込んだのだ。職業的な優しさを、言葉にしかけて、やめた。辰雄はそれをありがたいと思った。

病院を出たのは三時過ぎだった。二月の風が首筋に触れて、辰雄はコートの襟を立てた。風は乾いていて、唇の端が切れそうなほど冷たかった。駅までの道を歩く。この道は何度も通っている。二ヶ月前、最初の検査で訪れたときから数えて四回目だ。並木のケヤキはまだ裸で、枝の先が空に細い線を引いている。角を曲がれば駅前のロータリーで、その手前に小さな花屋がある。

フリージアが出ていた。

黄色い花弁が、店先のバケツの中で冬の日差しを受けている。辰雄の足が、ほんの少しだけ遅くなった。甘い、かすかな香りが風に乗って鼻先をかすめた。記憶が呼ばれるより先に、身体が反応していた。

妻の好きな花だった。

陽子は毎年、春先になるとフリージアを一本だけ買ってきて、台所の窓辺に飾った。安い花だ。割烹の女将として、もっと華やかな花を買えたはずなのに、陽子はいつもフリージアだった。「台所に合うのよ」と言っていた。辰雄にはその感覚が分からなかったが、黄色い花が窓辺にあると、厨房の空気が少しだけ柔らかくなる気がした。それを口にしたことは、一度もない。

陽子が死んだのは八年前だ。

辰雄は花屋の前を通り過ぎた。立ち止まりかけた足を、意思の力で動かしたわけではない。ただ、通り過ぎた。買う理由がなかった。飾る窓辺もない。六畳一間のアパートの台所は、一人分の食事を作るだけの場所だ。

電車に乗り、最寄り駅で降り、コンビニで缶ビールを二本買った。アパートの階段を上がるとき、二階の廊下の蛍光灯がちらちらと瞬いていた。管理会社に連絡すべきだが、辰雄はしない。自分の部屋の前まで来て、鍵を開ける。靴を脱ぐ。電気をつける。

六畳間に、布団と小さなテーブルと、古いテレビがある。壁際に衣装ケースが二つ。それが宮沢辰雄の持ち物のすべてだった。割烹を畳んだとき、ほとんどのものを処分した。残したのは衣類と、わずかな日用品と、一冊のノートだけだ。

ノートは衣装ケースの底にある。茶色い表紙の、何の変哲もない大学ノート。陽子の字で、割烹の献立の覚え書きが並んでいる。辰雄の料理を食べて、陽子が感じたことをそのまま書きつけたものだった。「今日の椀物、蓋を開けた瞬間の柚子がよかった」「焼き胡麻豆腐、少し火が強い?」。辰雄はこのノートを読み返さない。ただ、捨てられなかった。

缶ビールを開けて、一口飲んだ。冷たい液体が喉を通る。暖房のない部屋で飲むビールは、身体の芯を冷やすだけだった。テレビをつける気にはならなかった。二本目を開ける頃には何か食べなければと思い、台所に立った。冷蔵庫を開ける。

卵が四つ。豆腐が半丁。昨日の残りの味噌汁。

辰雄の手が、冷蔵庫の扉を握ったまま止まった。

十四歳だった。陽子が死んだ年、美咲は十四歳だった。中学二年。毎朝、弁当を持って学校に通っていた。弁当は陽子が作っていた。陽子が入院してからは、美咲が自分で作っていたのだと、あとから知った。辰雄は割烹の朝の仕込みに追われていた。毎朝四時に家を出て、夜は十一時過ぎに帰る。娘の弁当箱を見たことすらなかった。

予約の取れない割烹の主人が、自分の娘の弁当を一度も作らなかった。

冷蔵庫の明かりが、辰雄の顔を白く照らしている。卵が四つ。ここにある卵で、三百八十円の弁当の出汁巻きは作れる。かつて懐石の八寸を飾った手で、プラスチックの容器に収まる出汁巻きを焼くことはできる。

美咲が好きだった出汁巻きを、美咲のために焼いたことは一度もなかった。

辰雄は冷蔵庫を閉めた。缶ビールの残りを飲み干して、布団に横になった。天井の染みを見つめる。膵臓癌、ステージIV。明日の朝は五時半に起きて、弁当屋の仕込みに行く。里芋の下茹でをして、きんぴらを三ミリ幅に切る。それだけのことを、残りの時間、繰り返していく。

美咲の連絡先は、三年前に変わったきり知らない。最後に話したのがいつだったか、正確には思い出せない。電話口で美咲が何を言ったのかも。覚えているのは、自分が何も答えられなかったことだけだ。

天井の染みが、暗がりの中でぼんやりと滲んでいた。

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