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鋳蓮堂始末記

第3話 第3話「夜明けの裏口の水車」

第3話

第3話「夜明けの裏口の水車」

明けの空はまだ薄暗く、山の端に細い茜色が滲むばかりであった。

庄左衛門の言葉通り、納屋の裏口は開いていた。閂が外され、板戸がわずかに内側へ押されている。風の仕業とも、人の手とも見える塩梅で。レンは懐の干し飯を確かめ、最後に一度だけ振り返った。水車の音が聞こえる。あの丸石の軸受けは、しばらくは保つ。保たせるだけの仕事はした。

裏山の道は獣道に近く、朝露に濡れた枯れ草が足元を滑らせた。村を見下ろせる丘まで来て、ようやくレンは立ち止まった。梶浦の浜が眼下に広がり、漁船が数隻、灰色の海に浮かんでいる。十日余りを過ごした場所だった。囚われの身であったが、この世界で最初に飯を食わせてくれた場所でもあった。

レンは西へ向かった。長崎。その音の連なりだけが道標であった。

山道を半日歩き、峠を一つ越えた先に街道が現れた。踏み固められた土の道に、轍の跡がいくつも残っている。荷車が通る道だ。人がいる方角。レンは街道に沿って西へ足を進めた。

道中、レンは耳を使った。

すれ違う旅人の会話、茶屋の前で交わされるやり取り、荷を担ぐ人足の怒号。その全てが教材だった。梶浦の納屋で覚えた言葉を土台に、新たな音の並びを一つずつ拾い上げていく。「宿」「銭」「関所」「通行手形」——特に最後の二語は、何度も耳に入った。この国には通行の許しが要る。それが何かの書き付けであること、持たぬ者は咎められることが、周囲の会話から読み取れた。

夜は街道を外れ、林の中で丸くなって眠った。師走の夜気は刃のように冷たく、枯れ葉を掻き集めて体に被せても、明け方には歯の根が合わなくなった。庄左衛門にもらった干し飯は少しずつ減り、三日目の朝には塩鮭の最後の一切れを口に入れた。

飢えは、思考を鈍らせた。五日目の昼には足が重くなり、街道脇の石に腰を下ろす回数が増えた。だが不思議なことに、日本語だけは着実に増えていった。飢えた腹が言葉を求めるのだ。食べ物を得るために。道を尋ねるために。生き延びるために。レンは街道で聞こえる会話を繰り返し口の中で転がし、意味と音を結びつけていった。

    *

七日目の午後、街道の先に人だかりが見えた。

木戸が道を塞ぎ、その手前に番小屋が建っている。関所だった。旅人が列を作り、一人ずつ番人の前に進み出て、何かを見せている。あれが通行手形か。レンは列の後ろに立ち、前の者の所作を観察した。懐から紙を出し、番人に差し出し、番人がそれを検め、頷いて通す。その繰り返し。

列は短かった。あっという間にレンの番が来た。

番人は二人。一人は槍を持ち、もう一人が帳面を開いて座っている。帳面の男がレンを一瞥し、すぐに目を細めた。異様な衣。碧い瞳。日に焼けてはいたが、この国の者ではないことは一目で知れた。

「手形を見せい」

レンは意味を理解した。だが見せるものがない。

「——ない」

一語だけ返した。帳面の男の眉が跳ね上がった。槍の男が一歩前に出る。

「名は。どこの者じゃ」

「レン。梶浦から来た。長崎へ行く」

片言の日本語は、番人の疑念を深めるばかりだった。梶浦という地名は通じたが、手形なしの異人が街道を歩いているという事実は、番人にとって見過ごせるものではなかった。帳面の男が立ち上がり、レンの腕を掴んだ。

「手形なしに関を越えることは許さん。奉行所に引き渡す」

奉行所。その言葉の意味を、レンは梶浦の納屋でよく知っていた。連れて行かれれば、今度こそ閉じ込められる。二度と出られぬかもしれない。

そのとき、背後で悲鳴に近い怒声が上がった。

「車軸が折れた。荷が落ちるぞ」

振り返ると、関所の手前で荷車が大きく傾いていた。前輪の車軸が半ばから裂け、積み上げられた反物の荷が崩れかけている。御者の男と荷主らしき商人が慌てて荷を押さえるが、車体はさらに傾ぐ。反物が地に落ちれば泥にまみれる。商人の顔が蒼白になった。

レンの体は考えるより先に動いていた。

番人の手を振り解き、荷車に駆け寄った。背後で番人が叫ぶ声が聞こえたが、構わなかった。壊れた機械を前にすると手が勝手に動く。シルヴェの職人の業であった。

車軸の損傷を一目で見て取る。樫材の軸が乾燥による亀裂から裂けている。完全に折れたわけではない。繊維が半分繋がっている。今ならまだ間に合う。

レンは街道脇の竹藪に走り、手頃な青竹を二本折り取った。それを車軸に沿わせ、御者の縄を借りて巻き締める。添え木の原理だった。折れかけた骨を副え木で固定するように、裂けた車軸を竹で挟んで縄で締め上げる。だが、ただ巻くのではない。竹の節の位置を計算し、荷重のかかる点を避けて結び目を配置した。縄の巻き方も螺旋状に角度をつけ、軸方向と回転方向の両方の力に耐えるようにした。

作業は短かった。縄を締め終え、レンは車体の下から這い出た。

「——動かせ」

御者に向かって、短く言った。御者が恐る恐る車輪を押す。荷車が軋んだが、車軸は保った。傾きが戻り、荷が安定する。御者が試しに数歩引いてみると、車輪は問題なく回った。

荷主の商人がレンの前に立った。四十がらみの恰幅のいい男で、頭を丸めた坊主頭に旅塵がかかっていた。商人の目がレンの手元と車軸を交互に見る。

「大したもんじゃ。おまえ、車大工か」

「——職人」

レンが返せた言葉はそれだけだった。商人はしばらくレンの顔を見つめ、それから関所の番人のほうを見やった。番人が近づいてくる。

「この者は手形を持たぬ異人じゃ。引き渡してもらう」

商人が口を開いた。

「待たれい。この者はわしの荷方じゃ。備後で雇い入れたばかりでな、手形の届けがまだ済んどらんのじゃ」

番人の目が商人を射た。商人は懐から自分の通行手形と、もう一通の書き付けを取り出して見せた。博多の大店の名が記された荷主の証文であった。番人は証文を検め、商人の顔とレンの顔を見比べた。

「荷方にしては、妙な出で立ちじゃな」

「南蛮渡来の技を持っておってな。変わり者じゃが腕は確かじゃ。今しがた見た通りよ」

番人はなおも疑わしげであったが、商人の証文は本物であり、荷車の車軸を直した腕は目の前で見ている。長い間を置いて、番人は帳面に何か書き付け、木戸を開けた。

「次からは手形を持たせい。面倒をかけるな」

商人はレンの肩を叩き、荷車の横を歩かせた。関所を抜けると、街道は松並木の間を西へ伸びていた。冬枯れの松が乾いた風に揺れ、木漏れ日が斑に地面を照らしている。

「わしは筑前博多の反物商、嘉兵衛じゃ」

商人は歩きながら名乗った。

「長崎へ行くと言うたな。わしの荷は博多止まりじゃが、そこから先は長崎への船便がある。——それまでの間、もう少し車の面倒を見てくれるか」

レンは頷いた。言葉は少なかったが、嘉兵衛は気にしなかった。商人というものは、言葉より腕を信じる生き物であった。

荷車は西へ進んだ。嘉兵衛は道中、レンに飯を食わせ、藁の寝床を分けてくれた。その代わり、車輪の軋みや荷崩れの気配があるたびにレンを呼んだ。レンはそのたびに手を動かし、直した。嘉兵衛はレンの仕事ぶりを黙って見ていたが、三日目の夜、焚き火を挟んでぽつりと言った。

「長崎には異人がおる。出島にはオランダ人がおるし、唐人屋敷には唐人もおる。——おまえが何者かは知らん。知ったところで、わしには関わりのないことじゃ。じゃがな」

嘉兵衛は火の粉を払いながら続けた。

「長崎は異人に甘い土地ではないぞ。出島に入れるのはオランダ人だけ、唐人屋敷に入れるのは唐人だけ。どちらでもない者は——どこにも居場所がない」

レンは火を見つめたまま黙っていた。嘉兵衛の言葉の全てを理解したわけではなかったが、その声の底にある忠告の響きは分かった。長崎に着いても、安住の地があるわけではないのだ。

「腕があれば、道は開ける」

レンが返した言葉は、自分に言い聞かせるものでもあった。嘉兵衛は薄く笑って横になった。

五日後、博多に着いた。嘉兵衛は約束通り長崎への船便を手配し、レンの肩を叩いた。

「まあ、死ぬなよ」

波止場に一人残されたレンの前に、冬の玄界灘が広がっていた。潮風が頬を打ち、その先に長崎がある。異人の港町。言葉も銭もない男が、職人の手だけを頼りに踏み込む未知の都。船の帆が風を孕み、西へ膨らんだ。

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