第2話
第2話「納屋の三つの松明」
足音は三つあった。
板戸の閂が外される乾いた音がして、冷たい夜気が納屋の中に流れ込んだ。松明を掲げた源次の後ろに、村長の庄左衛門と、先ほどの若い漁師が立っていた。庄左衛門は六十を越えた痩身の男で、日に灼けた顔に刻まれた皺は海風と歳月そのものであった。その目が土間の設計図を一瞥し、次にレンの顔をじっと見据えた。
「こやつが描いたのか」
若い漁師が頷く。庄左衛門は膝を折り、松明の灯りで土間の線を辿った。指が受け板の断面図の上で止まる。水車の実物を知る者なら、この図が何を示しているかは分かるはずだった。庄左衛門の眉がわずかに動いた。驚きなのか、疑いなのか、松明の揺らぎの中では読み取れなかった。
「直せるのか。本当に」
レンに向けられた言葉は短かった。レンは頷き、覚えたばかりの日本語を一語ずつ繋いだ。
「——道具。要る。鉈。鑿。縄」
庄左衛門は長い間黙っていた。背後で若い漁師が何か言いかけたが、庄左衛門が片手を上げてそれを制した。やがて立ち上がり、源次に向かって低く言った。
「道具を出してやれ。ただし目を離すな」
源次が頷き、納屋の奥から鉈と古い鑿を引き出してきた。刃毀れした粗末なものだったが、レンの手が柄を握った瞬間、指先に馴染んだ感覚が蘇った。道具の重さ、刃の角度、柄の太さ——それらを掌が読み取り、何ができて何ができないかを瞬時に計算する。シルヴェの工房で鍛えられた職人の手が、異世界の粗末な道具にも応えようとしていた。
三人に囲まれるようにして、レンは納屋を出た。十日ぶりの外気だった。師走の夜風が肺を刺し、満天の星が頭上に広がっていた。シルヴェの空とは星の並びが違う。それを確かめる余裕はなかった。源次の松明に導かれ、村の裏手の川へ向かう。
水車は、月明かりの下で傾いだまま沈黙していた。
近づいて初めて、納屋の節穴越しには見えなかった損傷の全容が分かった。受け板の欠損は三枚ではなく四枚。軸受けの偏摩耗は想定より深く、木が繊維に沿って裂け始めていた。歯車の歯も二本が根元から折れている。この時代の水車大工が匙を投げたのも無理はない。軸ごと替えねば根本の解決にはならぬと判断したのだろう。
だが、レンの目は別の道筋を見ていた。
軸を替えるのではなく、軸受けの構造そのものを変える。シルヴェの工房で学んだ分割軸受けの原理——摩耗した面を避け、荷重を複数点に分散させる仕組みだった。金属のベアリングはない。だが、川底に転がる滑らかな玉石と、樫の硬材を組み合わせれば、簡易の転がり軸受けに近いものは作れる。完璧ではない。だが、この冬を越すには十分に持つ。
レンは川に入った。膝まで浸かる水の冷たさに息が止まりかけたが、構わず川底を探り、拳ほどの丸い石を五つ拾い上げた。それから岸辺の枯れた樫の枝を鉈で落とし、鑿で慎重に削り始めた。
源次と若い漁師が松明を掲げて見守る中、レンは無言で手を動かし続けた。木を削る音だけが川のせせらぎに混じる。時折、レンは削った木片を軸受けの穴に当てがい、指先で僅かな隙間を確かめては、また削る。その所作には一切の迷いがなかった。言葉は通じずとも、この男が何をしているのかは、木を扱う者の目には明らかだった。
源次が呟いた。
「手つきが、職人じゃ」
二刻が過ぎた。丑の刻を回る頃、レンはようやく鑿を置いた。新しい軸受けの台座には五つの丸石が等間隔に嵌め込まれ、その上に樫材の受け木が載っている。欠損した受け板は、納屋にあった古い船板を鉈で割いて補った。歯車の折れた歯は、堅い桜の枝を削り出して差し込み、縄で締め上げて固定した。どれも応急の仕事であったが、一つ一つの仕口が精確で、遊びのない嵌め合いだった。
レンは水路の堰板を抜いた。
堰き止められていた水が勢いよく流れ込み、受け板を叩く。水車が軋み、長い沈黙の後——動いた。ぎい、と低い音を立てて、受け板が水を受け、軸が回り始める。最初はぎこちなく、やがて滑らかに。丸石の転がり軸受けが効いているのだ。歯車が噛み合い、連動する杵が持ち上がり、落ちる。臼を打つ鈍い音が、夜の静寂を破った。
どん。どん。どん。
規則正しい杵の音が村に響き渡った。それは半月の間、この村から消えていた音だった。
源次の松明が揺れた。老漁師の手が震えていたのだ。庄左衛門は水車の前に立ち尽くし、回り続ける軸受けの部分をじっと見つめていた。丸石が滑らかに転がり、木と石の接する面から微かな水音が聞こえる。この村の誰も見たことのない仕組みであった。
レンはその場にしゃがみ込んだ。疲労と寒さで膝が笑い、指先は木屑と泥にまみれている。だが目だけは水車を見上げていた。回っている。自分の手が直したものが、この世界で動いている。その事実が、凍えた体の奥にわずかな温もりを灯した。
*
翌朝、村は騒然となった。
夜明けと共に水車の音を聞きつけた女たちが川辺に駆け寄り、回る水車を前に手を合わせる者さえいた。つい昨日まで凍えた手で杵を振るっていた腕が、今朝は要らぬ。その安堵は言葉にするまでもなく、女たちの紅潮した頬が語っていた。
庄左衛門は村人を集め、水車の修繕の経緯を説明した。「異人が直した」という事実に、反応は二つに割れた。
「異人だろうが何だろうが、水車が動きゃあええ。この冬、手搗きで通すつもりじゃったんぞ」
年嵩の漁師がそう言えば、源次も黙って頷いた。水車が回っているという現実は、どんな理屈よりも重かった。握り飯が少し大きくなった。板戸の閂はかけられたままだったが、壁の節穴から差し入れられる食事に、初めて干し魚がついた。
だが、若い漁師の市助は違った。
「あの異人を置いとったら、いずれ奉行所の目に留まる」
市助は漁師仲間を三人ほど従え、庄左衛門の家の前で声を上げた。日に焼けた精悍な顔に、苛立ちが滲んでいる。
「水車を直したことは認める。じゃがのう、村長。それとこれとは話が別じゃ。長州征伐の折から、この辺りの浦々には奉行所の目が光っとる。異人を匿うておると知れたら、村ごと咎を受けるぞ」
市助の言葉には理があった。慶応二年——第二次長州征伐の余波はまだ瀬戸内を覆っている。幕府の威信は揺らいでいたが、それゆえにこそ奉行所は些細な不穏にも過敏であった。身元不明の異人を匿う漁村など、格好の見せしめになりかねない。
庄左衛門は腕を組んだまま、市助の言葉を聞いていた。
「奉行所に届け出るか」
「違う。追い出すんじゃ。どこへなりとも行かせりゃええ。このまま置けば、村に災いを呼ぶ」
「追い出して、どこへ行く。言葉も分からん男が」
「知ったことか。少なくとも、この村でなければええ」
市助の声が大きくなり、周囲の空気が張り詰めた。漁師仲間が頷き、女たちの顔にも不安の色が広がる。水車の恩義と、奉行所への恐れ。その天秤は、恐れの方に傾きかけていた。
庄左衛門が口を開いた。
「明日まで待て」
それだけ言って、庄左衛門は家に入った。市助は舌打ちをして浜の方へ去り、残された村人たちは互いの顔を見合わせるばかりであった。
*
その日の暮れ方、庄左衛門が一人で納屋を訪れた。
板戸を開け、中で膝を抱えているレンを見下ろす。レンは庄左衛門の顔を見上げ、その表情から何かを読み取ろうとした。老人の目には、感謝でも敵意でもない、重い逡巡があった。
庄左衛門は懐から小さな布の包みを取り出し、レンの前に置いた。開くと、干し飯と塩鮭の切り身が入っていた。旅の食糧だと、レンにも分かった。
「長崎」
庄左衛門がゆっくりと言った。
「長崎に行け。——長崎なら、おまえのような者でも生きる道があろう」
長崎。その言葉を、レンは以前にも聞いていた。村人たちの会話に何度か出てきた地名だ。異人がいる場所。南蛮の商人が集まる港町。この国で唯一、異人が存在を許される場所。
庄左衛門は板壁に寄りかかり、松明の灯りの中で静かに続けた。
「おまえの腕は認める。水車を直したことは忘れん。——じゃがな、この村には守らにゃならん者がおる。女子供がおる。奉行所に目をつけられるわけにはいかんのじゃ」
レンは全てを理解したわけではなかった。だが、庄左衛門の声の調子と、目の前に置かれた旅の食糧が、すべてを語っていた。ここにはいられない。去れ。だが死ぬな。
レンは干し飯の包みを手に取り、頭を下げた。まだ覚束ない所作だったが、この十日間で見た村人たちの仕草を真似たものだった。
庄左衛門は黙って頷き、立ち上がった。
「明朝、裏口を開けておく。山道を西へ行け」
板戸が閉まり、足音が遠ざかる。
レンは暗闇の中で布の包みを握りしめた。長崎。その響きだけを頼りに、西へ。言葉も地図も銭も持たず、この未知の国を歩く。手にあるのは、職人の指先と、壊れたものを直せるという一つの事実だけだった。
夜半、風向きが変わった。北風が西風に転じ、納屋の板壁を揺らす。その風は瀬戸内の海を渡り、遥か西の港町から吹いてくるかのようであった。レンは包みを懐に入れ、暗がりの中で目を閉じた。明日の朝、この納屋を出る。言葉の通じぬ世界を、西へ。
水車の回る音が、遠く、規則正しく響いていた。