第1話
第1話「慶応二年の波間の男」
波が、男を吐き出した。
慶応二年、師走。瀬戸内の海は鉛色に沈み、北風が白波を立てていた。備後の小さな漁村——梶浦の浜に、一人の青年が俯せに横たわっている。潮に揉まれた体は砂にまみれ、唇は紫に染まり、息をしているのかさえ分からぬ有様であった。砂浜には引き波の跡が幾筋も残り、まるで海そのものが青年をここまで引きずってきたかのようだった。潮の匂いが濃く、打ち上げられた海藻の腐りかけた甘い臭気が鼻をつく朝だった。
最初に見つけたのは、朝の網起こしに出た老漁師の源次であった。
「おい、死人か」
近づいて足先で突くと、青年の指がかすかに動いた。生きている。源次は腰を屈め、その異様な姿に眉をひそめた。纏っているのは、見たこともない布地の衣であった。南蛮渡来とも唐土の衣ともつかぬ、妙に滑らかな織りの上着。指先で摘まんでみれば、絹とも木綿とも違う、水を弾くような不思議な手触りがあった。その袖口には、金属の小さな歯車のような飾りが縫い付けられていた。薄い朝日を受けて、その歯車飾りだけが鈍く光っている。
「何者じゃ、こやつ」
源次の声に集まった村人たちが、半円を描くようにして青年を取り囲んだ。漂着物は浜の者の取り分と決まっている。だが人間となれば話は別だ。まして、この異様な風体。年嵩の女が「祟りでもあったらどうする」と呟き、別の男が「長州の間者やもしれん」と吐き捨てた。誰もが一歩分の距離を保ったまま、近づこうとはしなかった。
青年が目を開いた。
灰がかった碧い瞳が、曇天の空を映した。唇が動き、何かを呟くが、それは日の本の言葉ではなかった。阿蘭陀語でも、唐語でもない。誰の耳にも意味を結ばぬ響きだった。喉から漏れるその音は、どこか金属が軋むような硬さを含み、この浜の潮騒とはまるで馴染まぬ異質さがあった。
村人たちの間にざわめきが走る。異人だ。言葉の通じぬ異人が、この浜に流れ着いた。
青年は——レンは、自分を見下ろす人々の顔を見上げながら、何が起きたのかを理解しようとしていた。最後の記憶は、工房都市シルヴェの作業台だった。旋盤の前で歯車の軸を削っていた。真鍮の削り屑が指に刺さる感覚、蒸気管から漏れる低い唸り、隣の工台で師匠のゴルドが鼻歌を歌っていた——その日常が、まだ指先に残っている。それが突然、足元が崩れるような感覚と共に意識が途絶え——気がつけば、この浜にいた。
寒い。
骨の芯まで凍えるような寒さだった。異世界の工房には蒸気管が張り巡らされ、冬でも汗ばむほどの温もりがあった。それが今は、潮風が濡れた衣を通して体温を奪い続けている。歯の根が合わず、顎が勝手に震える。砂に押しつけた掌の感覚が薄れ、指先の色が自分のものとは思えぬほど白かった。レンは立ち上がろうとしたが、膝が砂に沈み、そのまま崩れ落ちた。
村人の一人が棒切れでレンの肩を突いた。固い木の先端が鎖骨に当たり、鈍い痛みが走る。もう一人が石を投げる真似をした。子供が泣き出し、母親が抱き上げて後ずさる。
源次だけが、腕を組んだまま動かなかった。
「納屋に入れておけ。奉行所に届けるにしても、死なれちゃあ厄介じゃ」
こうしてレンは、浜の外れにある漁具納屋に押し込められた。板戸は外から閂をかけられ、壁の隙間から差し込む細い光だけが、時の移ろいを教えてくれた。納屋の中は魚の脂と古い縄の匂いが充満し、隅には錆びた錨と破れた網が積まれていた。土間は冷たく湿り、座っているだけで体の芯から熱が奪われていく。レンは漁網の切れ端を引き寄せ、体に巻きつけて暖を取ろうとしたが、潮を含んだ網は重く冷たいばかりだった。
一日に二度、握り飯と水が戸の隙間から差し入れられる。それが食事のすべてだった。冷えた米の塊を噛みながら、レンは考え続けた。ここがどこなのか。なぜ自分がここにいるのか。どうすれば元の世界に戻れるのか。米の味は工房で食べていた蒸しパンとも穀物粥とも違い、粘りのある甘さが口の中に広がった。こんなものを食べる人々がいる世界。工房の蒸気炉とは何もかもが違う世界。
戻る方法など、見当もつかなかった。
三日目の朝、レンは隙間に耳を押し当てて外の音を拾うことを覚えた。村人たちの会話は意味を成さなかったが、繰り返される音の並びに、少しずつ規則を見出し始めていた。「水」「魚」「飯」——生きるために必要な言葉が、まず耳に残った。シルヴェの工房で複雑な機構図を読み解いてきた頭は、未知の言語体系にも同じように取り組んだ。音の並びを分解し、繰り返しの中から法則を抽出する。歯車の噛み合わせを設計するのと同じだった。一つの歯が隣の歯を動かし、その連なりが意味という回転を生む。四日目には「来る」「行く」「駄目」が加わり、五日目には「奉行」「異人」「殺す」という不穏な組み合わせも聞き取れるようになっていた。
七日が過ぎた。
レンの日本語はまだ片言にも満たなかったが、村の様子はおおよそ掴めていた。漁師が十数軒、田畑は狭く、冬場の食い扶持は乏しい。だが一つ、気にかかるものがあった。
納屋の壁の節穴から見える位置に、水車があった。
村の裏手を流れる細い川に据えられた木製の水車で、脱穀に使うものらしい。だがその水車は、動いていなかった。レンが流れ着いた日からずっと、傾いだまま止まっている。
水車の構造は、納屋の節穴越しにも読み取れた。受け板が三枚欠損し、軸受けが偏摩耗で噛んでいる。歯車の噛み合わせも狂っているのだろう、回転軸がわずかに歪んでいた。シルヴェの工房であれば半刻で直せる程度の故障だった。だが、ここには旋盤もヤスリもベアリングもない。あるのは木と石と、おそらくは鍛冶場の簡素な道具だけだ。それでも——レンの目は節穴に吸い寄せられるように水車を観察し続けた。壊れた機械を見ると手が疼く。これは生まれつきの性分であり、シルヴェの職人としての業のようなものだった。
日が暮れると、板壁の向こうから村人たちの声が聞こえてきた。
「水車が止まって半月になる。米搗きが出来んで困っとる」
「大工の伝七に頼んだが、軸が歪んどるけえ無理じゃと言うた」
「備中の水車大工を呼ぶにも銭がかかる。この冬は手搗きで凌ぐしかなかろう」
溜め息混じりの声が重なり、やがて足音が散っていった。誰も解決策を持っていない。その沈黙の重さが、板壁越しにもレンの胸に伝わってきた。
手搗き。レンはその言葉を覚えたばかりだった。朝から晩まで女たちが杵を振るう、あの重労働のことだ。この寒さの中で。毎朝、納屋の外から聞こえてくる杵の音は鈍く不規則で、振り下ろす腕がいかに疲弊しているかが音だけで分かった。
レンは暗闘の中で膝を抱え、壁の節穴を見つめた。
直せる。間違いなく直せる。
だが、問題はそこではなかった。自分は囚われの異人だ。言葉もろくに通じない。下手に動けば縛り上げられるか、殴り殺されるかもしれない。この村の人間にとって、自分は得体の知れぬ化け物に等しいのだ。
それでも——水車は直せる。
レンは納屋の隅に落ちていた古釘を拾い、土間の地面にゆっくりと線を引き始めた。水車の構造図だった。受け板の寸法、軸受けの嵌合、歯車の歯数。暗がりの中で指先の感覚だけを頼りに、シルヴェで叩き込まれた製図の技法が蘇る。釘の先が土を掻く小さな音だけが、納屋の闇に響いていた。線を一本引くたびに、凍えた指先にわずかな熱が戻るような気がした。
直せば、何かが変わるかもしれない。変わらないかもしれない。だが、この手が覚えている技だけが、レンをこの世界に繋ぎ止めている唯一のものだった。
十日目の昼、板戸の隙間から差し入れられた握り飯がいつもより小さかった。水車が止まっている影響が、村の食事にまで及び始めている。女たちの手搗きでは到底、村全体の米は賄えない。
その夜、レンは初めて、日本語で声を発した。
壁の節穴に口を寄せ、見張りの若い漁師に向かって、覚えたばかりの言葉を絞り出す。
「——水車、直す」
声は震えていた。発音は酷かったに違いない。寒さのせいか、恐怖のせいか、自分でも分からなかった。だが若い漁師の足音が止まり、砂利を踏む音が途切れた。しばらくの沈黙の後、乱暴に板戸が開いた。
松明の明かりが目を射る。十日間暗がりに閉じ込められていた目には、その炎は太陽のように眩しかった。漁師の険しい顔が、暗がりに慣れたレンの目に浮かび上がった。日に焼けた肌、眉間に深く刻まれた皺、そしてレンを見る目には警戒と、かすかな好奇が入り混じっていた。
「何を言うた、異人」
レンは土間に描いた水車の図を指さし、もう一度言った。
「水車。直す」
漁師は松明を傾けて土間を照らした。闇の中に浮かび上がったのは、驚くほど精緻な図面だった。水車の全体図、受け板の断面、軸受けの組み付け——釘一本で土に描いたとは思えぬ正確さで、部品の一つ一つが寸法の注記と共に並んでいた。漁師は図を見下ろし、それから納屋の奥で膝を抱えるレンの顔を見た。碧い瞳が松明の光を受けて揺れていた。
漁師は何も答えず、板戸を閉めた。閂が再びかかる音がした。
だがレンの耳は、遠ざかる足音がまっすぐ村長の家へ向かうのを聞き逃さなかった。
夜が更ける。潮騒が遠く響き、北風が板壁を鳴らす。レンは暗闇の中で、土間の設計図を指先でなぞり続けた。この手が、この頭が、まだ何かの役に立つのだと——自分自身に言い聞かせるように。
板戸の向こうで、複数の足音が近づいてくる気配がした。