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翼なき妃と双翼の契約

第30話 第30話「わたしの空」

第30話

第30話「わたしの空」

# 第30話「わたしの空」

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婚礼の朝、わたしは故郷の母に手紙を書いた。

夜明け前に目が覚めた。眠れなかったのではない。身体が、この日の朝を少しでも長く味わいたがっていた。窓の外はまだ暗く、東の空が紫に白み始めたところだった。寝台の上で横になったまま、天井を見つめた。石の天井に、翼の影が映っていた。わたしの虹色の翼が、寝ている間も微かに光を放っている。呪いのない翼は、眠っている間も消えなくなっていた。

起き上がって、机に向かった。羽根ペンを取り、谷間の国の紙——リーナが「たまたま市場で見つけた」と嘘の下手な笑顔で渡してくれたもの——に、文字を綴った。紙は厚手で、繊維が粗くて、指にざらりと引っかかる。故郷の紙だ。この手触りを知っている。子どもの頃、この紙に母が買い物の覚書を書いていた。台所の棚の上に、この紙の束が紐で括られて置いてあった。その光景まで覚えている。全部、取り戻した記憶の中にある。

ペン先にインクを含ませた。空の国のインクは青い。地上のインクは黒い。どちらで書こうか迷って、青を選んだ。空の国から送る手紙だから。

「お母さんへ。

わたしは元気です。空の国は美しい所です。翼が生えました。虹色の翼です。驚きましたか。わたしも驚きました。

崖で教わったことが、全部、役に立ちました。風を読むこと。足場を確かめること。背筋を伸ばすこと。高いところを恐れないこと。

今日、わたしは結婚します。政略ではなく、自分の意志で。

マルーラの花を覚えていますか。白い花弁が五枚、黄色い花芯、甘い匂い。わたしは一度、この花の名前を忘れかけました。でも、取り戻しました。お母さんの笑顔も、お父さんの声も、崖の風も、全部覚えています。

ヴェントの女は涙を落とさない。でも、今日は、きっと泣きます。嬉しくて。

いつか、この国に来てください。わたしが空を案内します。

セリアより」

ペンを置いた。指先にインクがついていた。青いインク。エリオットが書庫で調べ物をしていたとき、指にインクの跡がついていたのを思い出した。あの頃はまだ、代償の恐怖に怯えていた。今は違う。全て取り戻した。全て乗り越えた。

インクが乾くのを待つ間、窓の外を見た。朝陽が銀色の塔を照らしている。雲海が白く輝いている。甘い匂いが窓から入ってきた。朝の雲の匂い。もう二度と失わない匂い。

翼を広げた。虹色の光が部屋に七色の影を落とした。壁に映る虹が、手紙の上にも落ちて、青いインクの文字を七色に染めた。

婚礼の式典は、アルシエルの最も高い塔の頂上で行われた。

空に最も近い場所。雲海を見渡す円形のテラス。白い大理石の手すりに花が飾られ、浮遊する蝋燭が昼の空にも灯されている。蝋燭の炎は朝の光に負けて見えないが、揺れる熱が空気の中で光の粒子のように踊っていた。花は空の国の風車花と、わたしが地上庭園で育てた地上の花の両方が飾られていた。地上の花の中には、白い花弁が五枚のマルーラも混じっていた。リーナが地上の商人に頼んで取り寄せてくれたのだ。マルーラの甘い匂いが、風車花の淡い香りと混ざって、空と地上の匂いが一つになっていた。リーナの発案だった。

アルシエルの全市民が——いや、ほぼ全市民が空に浮かんでいた。塔の周囲に、翼を広げた人々が浮遊し、祝福の列を成していた。大きな翼も、小さな翼も、入り混じって。空が、翼で埋め尽くされていた。翼の色は様々で、銀、白、淡い青、灰色。それが陽光を受けて、空全体が動く宝石箱のように見えた。

わたしは白いドレスを纏い、虹色の翼を大きく広げて、テラスの入口に立った。ドレスの背中は大きく開けてあり、虹色の翼が朝陽を受けて七色に輝いている。リーナが隣にいた。花嫁付添人。琥珀色の翼を慎ましく畳み、小さな花束を抱えている。

「セリア様。綺麗です」

リーナの声が震えていた。目が潤んでいる。けれど、笑っていた。

「リーナ。あなたもよ」

「わ、わたしは——」

「綺麗よ。嘘じゃない」

リーナが耳まで赤くなった。琥珀色の翼が、照れで小さく震えた。

テラスの奥に、エリオットが立っていた。正装の白い軍礼服。金のボタンが並び、肩に銀糸の飾緒がかかっている。金混じりの銀色の翼を半開きにしている。空色の瞳が、わたしを見て——笑った。あの、さらりとずるい笑い方ではなく、子どものように無防備な笑顔。口元が震えていた。泣きそうなのを堪えている。

わたしはテラスを歩いた。一歩ずつ。白い大理石の足元に、虹色の翼の影が落ちている。靴底が石を叩くたびに、小さな音がした。その音が、空中の市民たちに届いているのか、歩くたびに歓声の波が広がった。翼が朝陽を受けて虹色に輝く。光が空気中の水分に反射して、わたしの周囲に小さな虹が無数に生まれた。

式典官が口を開いた。白い衣を纏った老人で、声は穏やかだったが、よく通った。だが、式典官の言葉は半分も聞こえなかった。儀式の文言が空気を流れていくのを、どこか遠くで聞いていた。わたしの耳には、エリオットの翼の付け根から伝わる感情だけが響いていた。幸福という名の、揺るがない温度。水面のように静かで、けれど底なしに深い温もり。雲海の底で対峙した千年の闇よりも深い。闇の深さは恐怖だったが、この深さは安心だった。

「セリア・ヴェント。誓いの言葉を」

わたしはエリオットの手を取った。手が温かかった。あの書庫で震えていた手が、もう震えていない。

「わたしは、あなたの隣に立つことを選びます。翼があってもなくても。記憶があってもなくても。この空の一番高いところで、一番低いところで、どこでも」

「エリオット・アル・アルシエル。誓いの言葉を」

エリオットがわたしの手を握った。強く。けれど、優しく。

「私は、君と飛ぶことを選ぶ。並んで。同じ高さで。同じ風の中で。二人が別々の翼を持つことを、喜びとして」

空から、歓声が降ってきた。アルシエルの全市民が、翼を広げて祝福の羽ばたきをした。何千もの翼が風を生み、テラスの花が舞い上がった。花弁が空に舞い、虹色の翼の光を受けて、七色に染まった花吹雪になった。

リーナが声を上げて泣いていた。花束を握りしめたまま。

虹色の翼の輝きが、空の国の歴史で、始祖以来初めてだと、後に記録されることになる。

式典の後、わたしは一人で、最も高い塔の頂上に立った。

アルシエルの全景が見渡せる。銀色の塔。白い回廊。浮遊する市場。雲海の白。そして、遠く、地上の緑。故郷がある方角。山の稜線が、雲の切れ間からかすかに見えた。

風が吹いた。強い風。髪を煽り、ドレスの裾を翻す風。故郷の崖で吹いていた風と、同じ匂いがした。嘘だと思った。空の上で、地上の風の匂いがするはずがない。けれど、確かに感じた。土と草の匂い。母の家の匂い。

第1話の貴婦人の囁きを思い出した。「翼のない妃、だそうね」。

あの言葉を、もう思い出しても、胸が痛まなかった。あの日の冷たい笑い声が、今は遠い過去の音のように響く。

翼のない妃は、虹色の翼を持つ女になった。けれど、大切なのは翼の色ではない。翼の有無ですらない。

わたしが、ここに立つと決めたこと。それだけが、変わらない真実だった。

風が吹いた。塔の頂上を、強い風が吹き抜けた。崖の上と同じ風。背筋を伸ばせ、と言っている風。

わたしは翼を広げた。大きく。思い切り。虹色の光が朝陽を受けて、眼下の雲海に七色の影を落とした。影が雲の上を泳いでいく。わたしの翼の影が、この国の雲の上に色を落としている。銀色でも白でもない、七色の影。空と地上を繋ぐ色。始祖が千年前に望んだ色。

「セリア」

振り返ると、エリオットがいた。金混じりの銀色の翼を広げて、塔の縁に降り立っていた。軍礼服の裾が風にはためいている。

「一人で飛ぶのかと思った」

「いいえ。あなたを待っていました」

一人で飛ぶことは、もうできる。翼があるから。けれど、一人で飛びたくはない。この人の隣で飛びたい。それは依存ではなく、選択だ。

エリオットが笑った。あの子どものような無防備な笑い。わたしも笑った。

二人で、塔の縁に立った。風が強い。ドレスの裾が翻る。眼下に、アルシエルの全てが広がっている。銀色の塔が、白い雲が、空の民が。そして遠くに、地上の緑が。

わたしは手すりを蹴った。エリオットが隣で跳んだ。二対の翼が同時に開き、風が二人を押し上げた。足が石を離れた瞬間の浮遊感。もう恐怖はない。ただ、自由がある。

虹色と金銀が、並んで、朝陽の空を切った。

わたしの空は、ここにある。この人の隣の、この風の高さに。

翼は空に在らず、意志に在り。

崖の上で空を見上げていた少女は、今、空の真ん中にいる。虹色の翼で、自分だけの色で。

そして、わたしの意志は、この空のどこまでも、飛んでいける。

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