Novelis
← 目次

翼なき妃と双翼の契約

第29話 第29話「プロポーズ」

第29話

第29話「プロポーズ」

# 第29話「プロポーズ」

---

エリオットは、あのバルコニーに、わたしを呼んだ。

宮殿の最上階。初めて翼が生えた場所。初めて飛んだ場所。全てが始まったバルコニー。

呼び出しを受けたとき、リーナがわたしの髪を整えてくれた。旅の間にまともに梳かしていなかった栗色の髪を、丁寧にブラシで解いて、ゆるく編んでくれた。「セリア様、大事な話ってなんでしょう」と訊ねる声が、既に知っている人間の声色だった。わたしも知っている。何の話か。けれど、口に出すと輪郭が壊れそうで、「さあ、何かしらね」とだけ答えた。

バルコニーへ向かう回廊を歩いた。石の壁に、夕陽が橙色の光を投げかけている。柱の影が長く伸びて、わたしの足元に縞模様を作った。虹色の翼が、夕陽を受けて柔らかく光っていた。

手すりの石は夕陽に温められていて、触れると掌がじんわりと温かくなった。石の表面は長年の風雨で滑らかに磨かれていて、指先が吸い付くようだった。

夕陽が雲海を桃色に染めている。あの日と同じ色。雲の甘い匂いが風に乗って漂っている。あの日も、この匂いがした。けれど、あの日のわたしと今のわたしは、全く違う。翼のない娘が、虹色の翼を持つ女になった。雲海の底を潜り、呪いを解き、千年の怨念と向き合って戻ってきた女に。

エリオットが手すりに寄りかかって立っていた。金混じりの銀色の翼を畳んでいる。翼の傷は完全に癒えていた。灰色の痕跡も消えている。最深部で雲食いの核を消した後、翼が本来の姿を取り戻したのだ。正装ではなく、簡素な上衣。旅の間にずっと着ていたものに似ている。表情は穏やかだが、やはり耳の先が赤い。照れている。この人は、核心的なことをさらりと言えるくせに、本当に大切な場面では照れる。そのちぐはぐさが好きだった。

夕風がエリオットの銀色の髪を揺らした。空色の瞳が夕陽を受けて、金と青が混じった不思議な色になっている。

「セリア」

「はい」

「最初に、訂正させてほしい」

「訂正?」

「君が嫁いできた日。君との婚姻は政略だった。ヴェント家との外交関係のための、政治的な結婚だった」

「知っています。最初から」

わたしは静かに答えた。あの日、雲梯を降りたとき、わたしは自分の立場を完全に理解していた。政略の花嫁。外交の駒。それを受け入れた上で、ここに来た。

「ああ。だから——改めて、政略ではなく、私自身の意志で、君に求婚させてほしい」

その言葉を聞いた瞬間、風が止まった。夕陽の光が時間ごと固まったように、バルコニーの空気が静止した。わたしの心臓が一拍跳ねて、翼が無意識に大きく広がった。虹色の光が二人の間に溢れた。

エリオットが、わたしの正面に立った。空色の瞳がまっすぐわたしを見ている。夕陽の光が、その瞳を金色に染めている。翼の付け根から伝わる感情は、緊張で震えていたが、中心にある温もりは揺るがなかった。

「セリア・ヴェント。私は、契約のためではなく、翼のためではなく、一人の人間として、君を選びたい。私の妻に——いや、私の隣に、君がいてくれるか」

風がバルコニーを吹き抜けた。雲海の甘い匂いが、二人の間を流れた。翼の羽根が風に煽られて、小さな音を立てた。

わたしは笑った。涙が出そうだったが、堪えた。雲海の底で涙を落としたのは、暗闘の中の離別の瞬間だったからだ。今は違う。今は泣く場面ではない。笑う場面だ。

「殿下——いえ、エリオット」

初めて、「様」を取った。舌の上で転がすと、「エリオット」という音は、思ったよりも自然だった。ずっとこう呼びたかったのかもしれない。

「わたしは、とっくに、あなたを選んでいますよ」

エリオットの顔がくしゃりと崩れた。泣き笑いの顔。頬が緩み、目尻が下がり、けれど唇は笑っている。この人のこの表情が、わたしは一番好きだった。計算も品格も全部捨てた、子どものような顔。

「ずるい——先に選ばれていたなんて」

「ずるいのはお互い様です。回廊で『君が飛べないうちは私も飛ばない』と言った日から、わたしはもう——」

「あれは本気だった」

「知っています。だから惚れたんです」

エリオットが笑った。声を上げて。宮廷の皇子らしくない、子どものような笑い方で。翼が大きく広がって、夕陽の光を弾いた。金混じりの銀色が、桃色の空に映えていた。風が二人の間を吹き抜けて、エリオットの銀の髪を揺らした。

わたしの胸の奥で、何かが完成した感覚があった。パズルの最後のピースが嵌まるような。旅の始まりから今まで、ずっと足りなかった何かが、エリオットの笑顔を見た瞬間に満たされた。翼の付け根が温かかった。エリオットの感情だった。同時に、わたし自身の感情でもあった。区別がつかないほど、同じ温度だった。

二人でバルコニーの手すりを蹴って、飛び立った。

あの日と同じように。けれど、全てが違っていた。

あの日、わたしはぎこちなく羽ばたき、エリオットの手を握って、何とか空に浮いていた。翼がどう動くかも分からず、風に煽られるたびに身体が揺れた。

今日は、並んで飛んだ。同じ速度で。同じリズムで。二対の翼が風を切る音が、完全に重なっていた。風を読み、気流を捕まえ、並んで旋回する。右に傾くタイミング。上昇気流を掴む角度。全てが自然に合っていた。言葉は要らなかった。翼の付け根で感情が繋がっている。互いの意図が、翼を通じて伝わる。右に行きたいと思った瞬間、エリオットも右に傾いている。上がりたいと感じた瞬間、二人の翼が同時に煽る。

虹色と金銀。二つの色が夕陽の中で混じり合い、雲海の上に長い影を落とした。

「翼の色が違っても、飛び方は同じだな」

「色が同じだった頃より、ずっと良いです」

「なぜ」

「だって、今のわたしたちは、借り物ではなく、それぞれの翼で飛んでいるから」

エリオットが黙った。翼の付け根から、深い感動が伝わってきた。言葉にできないほどの。温かくて、広くて、空そのもののような感情。

雲海が桃色から紫に変わっていく。空気の温度が下がり始めた。夕暮れの冷気が翼を撫でる。けれど寒くはなかった。隣にいるエリオットの翼の付け根から、温もりが途切れなく伝わってくるから。星が一つ、瞬いた。あの日と同じ星かもしれない。一番星。雲海の端が紫に沈んでいく中で、その星だけが金色に光っている。

宮殿に戻ると、リーナが泣きながら待っていた。バルコニーの内側で、両手で口を押さえている。見ていたらしい。聞いていたらしい。

「おめでとうございます!」

「リーナ、なぜ泣いてるの」

「だって——だって——嬉しくて——」

リーナが鼻を啜りながら、わたしとエリオットを交互に見て、また泣いた。琥珀色の大きな翼が、感情に呼応して大きく広がっている。

「婚礼の支度、わたしにやらせてください。セリア様のドレス、世界で一番綺麗にします。翼が映える背中のカットも考えてます。あと、花も——マルーラを取り寄せたいんです。あの白い花、故郷の花でしょう? 市場の地上出身の商人に頼めば——」

この子は泣きながら、もう段取りを考えている。実務家だった。涙と計画が同時に動いている。

「リーナには、ドレスよりも大事なお願いがあるわ」

「え?」

「花嫁付添人に、なってくれる?」

リーナの琥珀色の瞳が見開かれた。涙が止まった。口が開いたまま固まった。それから、もっと大きな涙がこぼれた。今度は声を上げて。

「は——はい……!」

わたしはリーナを抱きしめた。リーナの大きくなった琥珀色の翼が、わたしの虹色の翼に重なった。虹色と琥珀色が混じって、温かい光を生んだ。

エリオットが二人を見て、静かに笑っていた。金混じりの翼が、穏やかに畳まれていた。翼の付け根から伝わる感情は、穏やかで、深くて、澄んでいた。湖の底のように静かな幸福。

リーナがわたしの腕にしがみついたまま、エリオットに向かって深々と頭を下げた。「エリオット殿下。セリア様を、どうかよろしくお願いします」。声が震えていたが、目はまっすぐだった。大きくなった琥珀色の翼が、決意を持って広がっている。

エリオットが頷いた。「リーナ。こちらこそ。セリアをここまで支えてくれたのは、君だ」。

リーナの耳が真っ赤になった。口がぱくぱくと動いたが、声にならなかった。わたしは笑った。この子のこういうところが、わたしは好きだった。

窓の外で、最後の夕陽が雲海に沈んだ。空が紫から藍に変わり、星が増えていく。

明日は、婚礼の日だった。枕元に置いた銀色の羽根——旅の間ずっとポケットに入れていた、最初の翼の名残——に触れた。温かかった。まだ、温かい。この羽根から始まった。翼が消えた朝、枕に残されていた一枚の銀の羽根。あの時わたしは「待っていて」と呟いた。今、待っていたものが、ここにある。

この話はいかがでしたか?

次の話を読む →

第30話「第30話「わたしの空」」

↓ スクロールで次の話へ

第29話「プロポーズ」 - 翼なき妃と双翼の契約 | Novelis