第28話
第28話「凱旋」
# 第28話「凱旋」
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アルシエルに戻ると、世界が変わっていた。
最初に気づいたのは、足元だった。降下台の石を踏んだ瞬間、雲の基盤がしっかりと踏み返してきた。出発前は雲が薄くなって、足元が揺れる感覚があった。それが消えている。
雲海が元の白さを取り戻している。西端の黒い変色は消え、分厚い白い雲が修復された基盤を支えていた。市場の雲も元通り。もう透けていない。空気が甘い。雲の匂いが——あの甘く懐かしい匂いが、戻っていた。鼻の奥に広がる、夕陽に焼かれた雲の、柔らかな甘さ。一度失いかけた匂い。泉で呪いを解くまで感じられなくなっていた匂い。泣きそうになった。この匂いを、わたしはもう二度と感じられないかもしれないと思っていた。
わたしたちが降下台に降り立ったとき、人々が押し寄せてきた。翼の大きい者も小さい者も、貴族も庶民も。歓声と拍手と、涙。子どもたちが最前列で翼をばたつかせている。年配の女性が両手を組んで祈るような姿勢でわたしを見ていた。見知らぬ人々がわたしの名前を呼んでいた。「セリア様」「雲海を潜った妃」「虹の翼」。
足が着地した瞬間、膝が折れそうになった。全身が限界だった。最深部の重い空気に耐え続けた身体が、地上の軽い空気に戻った途端に、反動で崩れかけた。けれど、倒れるわけにはいかなかった。降下台の石が、ブーツの底に硬く伝わった。故郷のブーツ。母が繕った踵の継ぎ当て。この感触が、わたしを支えてくれた。
リーナは一足先に装置の片付けを終えて戻っていた。琥珀色の大きな翼を——まだ信じられないという顔で——広げたまま、人混みの中でわたしたちを待っていた。旅の前と比べて、この子は変わった。背筋が伸びている。翼が堂々と広がっている。もう身体に密着させて隠そうとしていない。目が真っ赤で、鼻先も赤い。ずっと泣いていたのだろう。泣きながらも、装置をきちんと片付けてから戻ってくるあたりが、リーナらしかった。
「セリア様! エリオット殿下! 無事だったんですね——!」
「リーナ。ありがとう。あなたが庭を守ってくれなかったら、泉が汚染されていた」
リーナが泣いた。おいおいと泣いた。声を上げて、隠しもせずに。鼻水も涙も拭わず、ただ泣いた。旅の間ずっと堪えていたものが、堤防を切ったように溢れ出ている。わたしもリーナを抱きしめた。この子の体温が伝わってきた。旅の前より、少しだけ温かくなった気がした。翼が大きくなったことと関係があるのかもしれない。琥珀色の翼がわたしの虹色の翼に重なった。二つの翼の色が混じって、不思議な光を生んだ。
◇
枢密院は翌日に招集された。
一晩眠って——リーナが用意してくれた温かい風呂に浸かってから眠って——身体は少し回復していた。けれど、筋肉の痛みは残っていて、回廊を歩くたびに太腿が悲鳴を上げた。
円形の間。わたしとエリオットが中央に立つ。以前は裁かれる者として立ったこの場所に、今日は違う立場で立っている。議員たちの目は、前回とは全く違っていた。畏敬と感謝が混じった目。何人かの議員は目が潤んでいた。
わたしの背中の虹色の翼が、蝋燭の光を七色に分散させ、円形の間を万華鏡のように彩っていた。壁に映る虹色の光が、議員たちの白い衣に色を落としている。翼を一枚動かすたびに、壁の虹が揺れた。議員たちの目がその光を追っている。百年間見られなかった光。始祖以来の虹色の翼。
「雲食いの鎮圧。始祖の泉の浄化。双翼の契約の呪いの解除」
議長が実績を読み上げた。声が高い。感情を抑えきれていない。
「枢密院は、セリア・ヴェントの双翼の契約を、正当かつ完全と認定する。暫定の文言を削除する」
拍手が起きた。わたしは軽く頭を下げた。虹色の翼が、礼の動きに合わせて、ふわりと揺れた。
レイヴン殿下が最上段にいた。腕を組んだまま、いつもの灰色の瞳でわたしを見ている。拍手はしていなかった。けれど、敵意もなかった。瞳に映っているのは、複雑な色だった。認めたくないが認めざるを得ない、という男の顔。
枢密院が散会した後、回廊でレイヴン殿下と出くわした。
午後の光が回廊の柱を照らし、白い石に長い影を落としていた。レイヴン殿下の黒銀色の翼が、光の中でも暗く見えた。この人の翼は、光を反射しない。吸い込む。そういう翼だった。
「ヴェントの娘」
「はい、殿下」
レイヴン殿下が一歩近づいた。灰色の瞳が、わたしの虹色の翼を見た。じっと。翼の一枚一枚を観察するように。
「異国の娘が国を救ったなどと、認めがたい」
声に感情が混じっていた。初めてだった。いつもの冷徹な硬質さに、苦さが滲んでいる。自分の矜持を飲み込む、大人の苦さ。歯の奥で噛みしめるような。この人はこれまで、あらゆる問題を計算と力学で解いてきた。感情を排し、論理で国を守ってきた。けれど、雲食いは計算では止められなかった。わたしの虹色の翼と、エリオットの金混じりの翼と、リーナの琥珀色の翼が止めた。計算ではなく、意志の力で。それを認めることは、この人の世界の基盤を揺るがすことだ。
「殿下——」
「だが、事実は事実だ」
レイヴン殿下の声が、わずかに低くなった。認めるという行為が、この人にとってどれほどの重みを持つか。計算と理性だけで動いてきた人が、感情で言葉を選んでいる。
「わたしはもう異国の娘ではありません」
わたしは穏やかに言った。怒りはなかった。この人に対して、もう怒りはなかった。
「この国の空を飛ぶ、あなたの義妹です。殿下」
レイヴン殿下の灰色の瞳が、わずかに動いた。驚きか。怒りか。——いや、もっと複雑な何かだった。義妹という言葉が、この人の中で何かを動かしている。政治的な対手から、家族への転換。
「……義妹、か」
長い沈黙の後、レイヴン殿下は目をそらした。窓の外の雲海を見ている。白さを取り戻した雲海。この人が守ろうとしていたものが、そこにある。
「認める。——だが、和解ではない。停戦だ」
「充分です」
わたしは微笑んだ。停戦で充分だった。この人との関係は、時間をかけて変わっていくものだ。今日でなくていい。明日でなくてもいい。翼の色が変わるのに時間がかかるように、人の心もまた、ゆっくりと変わるものだ。
レイヴン殿下が踵を返した。黒銀色の大きな翼が回廊に影を落としながら遠ざかっていく。靴底が石を打つ音が規則正しく響いた。その足取りは、来たときよりもわずかに軽く見えた。何かを手放した人間の歩き方に似ていた。その背中は、敵の背中ではなかった。完全な味方でもない。けれど、同じ空を飛ぶ者の背中だった。
背中が角を曲がって消える瞬間、レイヴン殿下の翼が、一瞬だけ、光を反射した。いつもの黒銀色ではなく、かすかに銀色に輝いた。見間違いかもしれない。午後の光の加減かもしれない。けれど、わたしの翼の付け根が、微かに温かくなった。契約者同士ではないのに。あの灰色の瞳の男から、初めて受け取った温度だった。
◇
夕方、エリオットが改まった表情でわたしの前に立った。
私室のバルコニーで、夕陽が雲海を染めている。桃色の光が部屋に入り込んで、壁を柔らかく照らしていた。
「セリア」
その呼び方が、旅の前と変わっていた。以前は丁寧で穏やかな響きだった。今は、もっと近い。名前を呼ぶこと自体が、親しみの証であるような、自然な響き。
「はい」
「大切な話がある」
わたしの心臓が跳ねた。バルコニーの手すりに置いた手が、石の温度を感じている。夕陽に温められた石の感触。初めて翼が生えたあの夜と同じ場所。同じ石。同じ温度。けれど、わたしの翼は銀色ではなく虹色で、エリオットの翼は銀色ではなく金混じりで、二人の間にあるものは、あの夜とは比べようもなく深かった。
翼の付け根から、エリオットの感情が伝わってきた。緊張。決意。そして——とてつもなく深い、柔らかな温もり。蜂蜜を湯で溶いたような甘さではない。もっと深い。地下水脈のように、ずっとそこにあった温度。雲海の底で二人の翼が共鳴したとき感じた温もりに似ていた。あの瞬間から、ずっと流れ続けていた温もり。
「明日、話してもいいか」
「……今日じゃないんですか」
わたしの声が少し上ずった。期待と緊張で。翼の付け根からエリオットの感情を読もうとしたが、この人は大事なときだけ、感情を隠すのが上手くなる。壁ではない。贈り物を隠すような、意図的な遮蔽。
「今日は疲れている。こういう話は、ちゃんとした気持ちでしたい」
エリオットが少し照れたように笑った。耳の先が赤い。金混じりの銀色の翼が、照れで少し縮んだ。この人は本当に、大切な場面で照れる。
わたしも笑った。明日の話が何か、たぶん、分かっていた。翼の付け根が温かかった。温かくて、くすぐったくて、嬉しかった。