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翼なき妃と双翼の契約

第23話 第23話「庭を守る戦い」

第23話

第23話「庭を守る戦い」

# 第23話「庭を守る戦い」

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雲食いは波のように押し寄せた。

呪いの解除に反応したのだ。千年間封じ込められていた始祖の力が泉から溢れ出した瞬間、雲食いがそれを感知した。分断の呪いが弱まれば、呪いの上に築かれた怨念の均衡も崩れる。だから、雲食いは始祖の庭を潰しにきた。

始祖の庭の外縁から、黒い霧が草原を覆い始める。白い木々が触れられた端から灰色に変わり、銀の葉が落ちていく。葉が地面に触れるとき、かさりとも音がしない。音ごと吸い取られている。花が萎れ、草が枯れ、楽園が急速に蝕まれていく。つい先ほどまで鈴の音のように鳴っていた木々が、沈黙していた。

空気の匂いが変わった。始祖の庭の澄んだ空気が、金属の味を帯びた冷たい空気に置き換わっていく。鼻の奥がぴりぴりと痺れた。

「泉を守れ! 泉が汚染されたら全てが終わる!」

エリオットが叫んだ。翼を広げ、空に飛び上がった。金混じりの銀色の翼から光を放ち、黒い霧を押し返そうとする。翼の光が霧に触れると、じゅっと焼けるような音がして、一瞬だけ後退する。

けれど、雲食いはエリオット様の翼の光を吸い取る。近づくほど、翼の輝きが薄れていく。金色が灰色に変わりかけている。傷が再発しかけている。

「駄目です、殿下! 翼で戦ったら喰われます!」

わたしは地上にいた。虹色の翼は広がっているが、戦闘に使ったことがない。翼で何ができるか分からない。けれど、足は動く。足だけは、何があっても動く。

崖駆けの姿勢を取った。故郷のブーツで地面を蹴り、雲食いの侵食の縁を走る。黒い霧に触れないように、けれどぎりぎりの距離で、泉の周囲を巡回する。霧の端は定まらない。脈動するように広がったり縮んだりする。その呼吸のリズムを読んで、隙間を縫う。崖駆けと同じだ。崖の岩は動かないが、風は動く。動くものの隙間を走る感覚。

「リーナ! 遺跡に何か使えるものはない!?」

「探します!」

リーナが泉の周囲の石板を調べ始めた。古代文字を読みながら走る。小さな翼がはためき、足元の不安定な岩場を跳び移る。この子は飛べないに等しい翼しかなかったはずなのに、今は身体全体で動いている。恐怖を飲み込んで、やるべきことに集中している。

雲食いの侵食が加速した。黒い霧が泉の三十歩先まで迫った。草原の半分が灰色に変わっている。白い木の一本が、根元から砕けて倒れた。銀色の葉を散らしながら。音がなかった。あれほど大きな木が倒れたのに、倒れる音さえ吸い取られた。

わたしは走り続けた。虹色の翼を広げたまま走ると、雲食いがわずかに退くことに気づいた。虹色の光が、雲食いを嫌っている。分断の呪いで染められた銀色とは違う、空と地上を繋ぐ色。始祖の意志の色。それが、分断から生まれた雲食いを退けているのだ。

けれど、翼の光だけでは足りない。侵食の速度に追いつけない。

「セリア様! 見つけました!」

リーナの声が戦場の轟音を切り裂いて届いた。この子の声は、必要なとき、驚くほどよく通る。

リーナが石板の下に隠されていた装置——古代の魔術兵器のようなもの——を引き出した。水晶の棒が付いた台座。千年分の埃を被っていたが、水晶は透明なまま光を閃かせている。リーナが台座に手を置いた瞬間、水晶が光った。始祖の庭の力が装置を通じてリーナに流れ込んだ。

そして——リーナの翼が変わった。

小さかった翼が、大きく広がった。琥珀色の光が翼に満ちている。掌二つ分だった翼が、両腕を広げたよりも大きく開いた。リーナ自身の目が見開かれた。口が開き、声が出なかった。

「な——なに、これ——わたしの翼が——」

ガイウスの血統が覚醒していた。百年前の契約の残滓が、始祖の庭の力に反応して、リーナの中に眠っていた翼の記憶を呼び覚ましたのだ。百年間、小さく縮んでいた翼が、本来の姿を取り戻している。おばあちゃんが言っていた「空と地上を繋ぐ証」が、今、目の前で花開いた。

「リーナ! 飛べる!?」

「飛べ——飛べます!」

リーナの声が裏返った。琥珀色の翼が一度はためき、リーナが宙に浮いた。生まれて初めて、自在に空を飛んでいる。琥珀色の翼が雲食いの黒い霧を切り裂く。装置の水晶が光線を放ち、霧を後退させる。光線が黒い霧に当たると、蒸発するように消えた。

三方向からの防衛が成立した。エリオットが空から光を放ち、リーナが装置で侵食を後退させ、わたしが地上から泉の周囲を走って虹色の光で霧を退ける。三人が三人とも、自分にしかできないことをしていた。空の皇子と、地上の娘と、両方の血を持つ侍女。三つの異なる力が、一つの目的のために動いている。

けれど、雲食いは止まらなかった。押し返しても押し返しても、新しい波が来る。核が健在である限り、末端を退けても意味がない。一つ消しても二つ生まれる。もぐらたたきのように。いや、もぐらたたきにはまだ終わりがある。これには終わりがない。

汗が目に入った。視界がぼやける。ブーツの底が泥と枯れ草で滑った。転びかけて、手をついた。手のひらに石の角が食い込み、皮が破れた。血の味がした。

戦闘の最中、わたしの翼が——消えた。

虹色の光が、すっと消えた。背中が軽くなった。翼の重みが消える感覚は、もう何度も経験したが、今回は違った。記憶の欠落ではない。今度は別の理由。戦闘の疲労。意志の力が限界に達した。翼は意志の結晶。意志が枯渇すれば、翼も消える。

翼なしのわたしが、黒い霧の中に立っていた。虹色の光が消えたことで、霧がわたしの方に押し寄せてきた。冷たい。金属の味がする空気が肌に張り付いた。

けれど、足は止まらなかった。

崖駆けだけで走った。翼がなくても、風を読み、足場を選び、雲食いの隙間を縫って走り続けた。泉を守るために。ブーツの底が石を蹴り、身体が宙を飛ぶ一瞬がある。翼はないのに、飛んでいるような感覚。崖の娘の飛翔。

足の裏が痛い。ブーツの底がすり減って、石の凹凸が直接伝わってくる。けれど、この痛みは故郷の崖と同じ痛みだった。知っている痛みだった。知っている痛みなら、耐えられる。

霧が一瞬だけ薄くなった隙間を走り抜けた。肌に触れた黒い粒子が、ちくりと刺すような痛みを残した。鉄の味が口に広がった。唇が切れたのか、空気の味なのか、分からなかった。

夜明けが来た。

雲食いは陽の光で勢いを弱め、侵食が止まった。始祖の庭は半分が蝕まれたが、泉は無事だった。銀色の水面が朝陽を受けて、静かに光っている。

三人とも限界だった。わたしは草の上に倒れ込み、空を見上げた。全身の筋肉が痙攣している。手のひらの擦り傷が、朝露に沁みて痛んだ。リーナは装置の横で膝を抱えていた。大きくなった琥珀色の翼が地面に垂れて、朝露に濡れている。エリオット様が三人分の水を汲んできてくれた。泉の水は温かくて甘かった。

「核を——叩かなければ」

エリオット様が疲れた声で言った。顔が蒼白で、翼の灰色が増えていた。

「末端の霧を退けても終わらない。核は始祖の庭の真下。雲海の最深部にある」

「最深部」

検証の儀で降りた場所よりも、もっと深い。光が届かない、空気すら薄い場所。千年分の怨念が凝縮した場所。

わたしの翼は消えていた。けれど、泉の力は身体に残っている。記憶は戻った。呪いは解けた。翼はまた現れるはずだ。意志が回復すれば。

「休んでから行きましょう」

リーナが毛布を持ってきた。わたしの肩にかけ、自分も隣に座った。大きくなった琥珀色の翼を、わたしたちの上にかざしてくれた。日除けのように。翼越しに見る空は、琥珀色のフィルターがかかって、温かい色をしていた。

「リーナ。翼、すごいわね」

リーナの琥珀色の翼は、目を閉じても光を感じるほどの輝きを放っていた。

「まだ自分でも信じられません……おばあちゃんが見たら、何て言うかな」

「きっと、『だから言っただろう、恥じるな』って」

リーナが泣き笑いの顔をした。涙と笑顔が同時に浮かんで、どちらが先か分からない表情。

わたしは目を閉じた。身体は疲れ果てていた。けれど、胸の奥は澄んでいた。記憶がある。母の声が聞こえる。マルーラの名前を覚えている。父の崖駆けの手順も、全部覚えている。

あとは——雲食いの核を止めるだけだった。

眠りに落ちる前に、翼が戻ることを確かめた。目を閉じ、意志を込めた。飛ぶ。わたしは飛ぶ者だ。背中に温もりが生まれ、虹色の翼がゆっくりと広がった。光が弱い。疲れている。けれど、消えない翼だった。呪いのない、わたしだけの翼。

安心して目を閉じた。リーナの琥珀色の翼が天蓋のように頭上を覆ってくれていた。その翼越しに見る空は、琥珀色に染まって温かかった。泉の銀色の光と、琥珀色の翼と、虹色の残光が混じり合って、始祖の庭の朝を染めていた。

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