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夜にしか会えない皇子

第1話 昼に会えないあなたは、獣の姿で眠っていた

第1話

昼に会えないあなたは、獣の姿で眠っていた

扉を押した瞬間、わたしの喉の奥で、声にならない声がつかえた。

広い寝台の中央で、銀灰色の毛並みをした大きな獣が、静かに眠っていた。狼ではない。熊でもない。もっと大きく、もっと静かで、月光をそのまま練り固めたような、そんな気高い輪郭。獣の前脚の下には、昨夜シルヴァン様が纏っておられた濃紺の上着が、畳まれてそっと敷かれていた。

わたしは、扉の縁を強く握った。 握っていなければ、きっと崩れ落ちていた。

獣の、長いまつ毛が、わずかに震えた。そしてゆっくりと、緑色の瞳が開いた。昨夜、窓辺であの人がわたしに向けてくれた、あの色と、何ひとつ違わない瞳だった。

瞳は、わたしを見た。 まっすぐに、迷うことなく。 そして——とても、とても、静かに、悲しんだ。

誰かが「見てしまった」瞬間に見せる、あの色。取り返しのつかないことが起きてしまった、と、もう諦めに近い形で受けとめている、そんな色。わたしの胸の奥で、何かが熱く、きゅっと縮んだ。この瞳をこんなふうに悲しませたのは、わたしだ、と思った。

わたしは、扉の縁から、そっと手を離した。

ここまで来たのは、ほんの半時前のことだ。

十八歳の初夏、わたしヴィヴィエン・ダリカールは、南の伯爵家を出て、ブロワンヌ公国の湖畔の離宮に嫁いできた。縁談は三ヶ月前、突然もたらされた。使者はただ一つの条件を告げた。「決して、昼間に殿下のお姿をご覧になってはなりません」。父は戸惑い、母は泣いた。姉は眉をひそめて、まるで童話のようねと言った。それでもわたしは、その条件の奥にある理由が知りたかった。条件が奇妙であればあるほど、人は、守りたいものを隠している。わたしは、そう信じていた。

離宮に着いたのは十一日前。白壁の古い館は、湖と深い森に抱かれていた。迎えてくれた老執事ロランと三人の侍女たちは、誰もが静かで親切だった。ただ、彼らの微笑みには、薄い紗のような影がかかっていた。何かを知っていて、けれどそれを告げない者たちの、あの特有の、息を殺した優しさ。

初めてシルヴァン様にお会いしたのは、その日の夜だった。扉が叩かれ、低い声が名乗った。入ってきたのは長身の青年で、濡れたような黒髪と、深い緑の瞳を持っていた。その空気はすこし疲れていたけれど、優しさがまっすぐに滲んでいた。わたしたちはその夜、他愛もない話をした。旅路のこと、南の果物のこと、庭の白薔薇のこと。殿下の声には、何年も人と話す機会を待っていた人の温度があった。

それから十夜、わたしたちは毎晩、同じ椅子に座って話した。殿下は静かで、思慮深く、意外と冗談が上手で、わたしが動物好きだと知ると、離宮の庭の片隅に巣を作った小鳥の話を、ほんとうに楽しそうにしてくれた。わたしの心の奥で、淡い好意が、静かに育ち始めていた。

いちど、五日目の夜だったか、わたしは何気なく尋ねたことがある。「殿下は、日中は、どのようにお過ごしですか」。その瞬間、シルヴァン様の微笑みが、ほんの一瞬、凍った。いや、凍ったというよりは、時計の針が、いちどだけ、止まったような、そんな間だった。「……眠って、いる」。シルヴァン様はそう答え、それから、すぐに別の話に話題を移した。わたしは、それ以上、踏み込まなかった。けれど、あの一瞬の沈黙の重さを、その日以来、わたしはずっと、胸の奥で量りつづけていた。軽い嘘には、軽い沈黙しか伴わない。けれど、あの沈黙は、とても、重かった。

だからこそ、耐えきれなかったのだ。 昼間のあの人を、見たかった。知りたかった。病なら看たかったし、傷なら触れたかった。夜に、あんなに優しく、わたしの他愛もない話に頷いてくれる人が、昼のあいだ、どんな顔でひとりで過ごしているのか。——それを、知らないまま、夜だけを受け取るのは、わたしには、ずるい気がしたのだ。

昼食を終えてすぐ、わたしは庭に出る振りをして、北の翼に回った。廊下は、不自然なほど人気がなかった。侍女たちが、この時間帯に、この翼に近づかないよう、誰かから言い含められているのだ、と、わたしはすぐに気づいた。足音を忍ばせて歩くわたしの心臓が、やけに大きく鳴った。——それが、今、この扉の向こうの光景である。

獣は、わたしを見つめたまま、身動きしなかった。 喋ることはできないようだった。けれどその緑の瞳には、恥じらいと、痛みと、そして——どこかに、小さな、安堵の色があった。

秘密を抱え続ける日々は、きっと、わたしが想像するよりも、ずっと孤独だったのだろう。

「……シルヴァン様」

わたしは、震える声で呼んだ。

獣は、答えのかわりに、長い前脚をわずかに動かし、上着の端を自分のほうへ引き寄せた。まるで、その布の匂いで、人の姿だった自分を思い出そうとしているかのように。その仕草が、わたしの胸の底を、静かに揺さぶった。昨夜まで、わたしにあんなに穏やかな声で話してくれた人が、昼のあいだ、ひとりきりで、自分の上着の匂いに縋って、自分が「人だったこと」を忘れまいとしている。そのことの孤独を、想像すると、涙が、ひと筋、勝手にわたしの頬を伝った。

月輝獣、と、わたしの中で、古い記憶の扉が開いた。

子どもの頃、乳母が寝物語に話してくれた。公国の王族の一部は、遠い祖先が月の女神と交わした契約のせいで、昼間だけ神聖な獣の姿を取る。月光の下でのみ、人の姿に戻れる。呪いではなく、女神からの役目。けれど、身を削る——と。

笑いながら聞いた物語が、いま、目の前で、静かに呼吸していた。

わたしは、ゆっくりと部屋に入り、扉を閉めた。そして、寝台のそばに膝をつき、獣の前脚の、柔らかい毛並みに、そっと手を伸ばした。

獣は、びくりと身を震わせた。 けれど、逃げなかった。逃げる代わりに、ほんのわずか、こちらへ首を傾げた。許しを請うような、あるいは、逆に、許しを与えようとするような、そんな仕草だった。

「ごめんなさい。条件を破ってしまって」

毛並みは、温かかった。夜、殿下がわたしの手を取ってくださったときと、同じ温度だった。

「でも——わたし、怖くないんです。むしろ、嬉しいくらい」

獣の大きな瞳が、驚いたように見開かれた。

「だって、昨夜までのあなたの優しさが、昼間のあなたにも、ちゃんと繋がっている、って、今、わかったから」

わたしは、自分でも驚くほど、落ち着いた声で語っていた。獣は何も言わなかった。ただ、前脚を、わたしの手の上に、そっと重ねてきた。その重みは、夜のあの人のものと、同じだった。

日が沈み、最初の月光が、窓から差し込んできた。

獣の輪郭が、淡く揺らいだ。ひと滴の光に包まれた次の瞬間、寝台の上には、人の姿のシルヴァン様が、少し疲れた顔で横たわっていた。

「……見てしまったのだな、ヴィヴィエン」

「はい。ごめんなさい」

「謝ることはない。私は、むしろ、安堵している。あなたが、逃げなかったことに」

シルヴァン様は、ゆっくりと身を起こした。緑の瞳の奥で、昼の獣のまなざしと、夜の人のまなざしが、ひとつに溶けあっていた。

「ヴィヴィエン。この契約は、私の代では、おそらく解けない。昼のあなたの隣に、私はいてあげられない。それでも、私の妃でいてくれるだろうか」

わたしは、少しだけ微笑んだ。

「夜だけでも、充分でございます。そして、昼のあなたがお眠りの傍で、わたしは花を替え、本を読みます。それでは、いけませんか」

シルヴァン様の瞳が、小さく揺れた。涙だったのかもしれない。

獣の前脚と、人の手のひらを、続けて握った娘は、この広い世界でも、きっと、わたしだけだろう。湖の向こうの森の奥から、銀色の月が細い光の道を湖面に敷いていた。その道は、獣と人の狭間に生きるシルヴァン様のもとへ、まっすぐに伸びていた。

わたしの新しい日々は、ふたつの顔を持つ夫との物語として、静かに、けれど確かに、始まろうとしていた。昼のあなたの傍で、わたしは、花を替えよう。本を読もう。あなたの銀の毛並みを、そっと梳いてさしあげよう。そして夜になれば、また、窓辺の椅子で向かい合って、南の果物や、庭の小鳥の話をしよう。昼と夜の、ふたつの時間の端をつないで縫いあわせるのが、これからのわたしの役目だ。——ふと、わたしはそう思った。離宮の窓の外で、湖の水鳥が、もう一度、ぱさりと羽を打った。月の道は、湖面の上を、まっすぐに、この部屋へと伸びていた。

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