第3話
第3話
蝶番の軋む音が、石室の奥に低く伸びた。 アルベルトが一番奥の宝箱の蓋を持ち上げる。蓋の縁から金貨の重なりが姿を現し、松明の油煙が箱の中で渦を巻いた。彼の目に黄色い斑が映る。 「来たぜ。最深部の取り分だ」 ガレンが二つ目の宝箱に飛びついた。盾を床に下ろし、両手で蓋をこじ開ける。リディアは三つ目の前で杖を構え、罠の有無を確かめる仕草をしてから、唇を吊り上げた。 「魔導書。第七階梯——本物よ、これ」 リディアの杖の先で、青白い光が、表紙の銀の刻印を一度だけ撫でた。刻印は、息を吹き返すように、ゆっくりと熱を帯びた。彼女の指の腹が、表紙の革目を一往復した。 三つの蓋が前後して開く音が、石室の壁面で重なって戻ってきた。レオンは扉の脇で動かなかった。 雑嚢の口は縛ったままだ。中身を出す予定はない。彼の役目は、四人の取り分が三人で揉めぬよう、卓の片隅で目録を書き付けるだけだった。十年、ずっとそうだ。 ミレイユは祭壇の前で立ち止まっていた。 白い指が、首元の銀の鎖を撫でている。鎖の先には、小さな水晶の首飾り——前回の最深部で得た、聖女の装飾品だった。レオンの位置から見て、水晶は祭壇の蝋燭の光を受け、ごく薄い乳色に発光していた。 (……位置が、離れている) レオンの頭の中で、距離が一つ更新された。 ミレイユと宝箱の間、四歩半。アルベルトとリディアの間、二歩。ガレンは床に膝をついて金貨を数え始めた。聖女の背中だけが、誰の視線からも一拍ぶん遅れて、祭壇の影に入った。 扉の向こうから、坑道の風が一筋流れてきた。風はレオンの足元を抜けて、石室の中央で渦を作った。蝋燭の炎が一斉に右へ傾ぎ、すぐに戻った。 レオンは雑嚢の口元を、もう一度確かめた。指先が革紐を一本ずつ数える癖が、また始まっていた。
「ミレイユ様、今回の取り分ですが——」 アルベルトが振り向きながら、宝箱の縁に肘をついた。リディアが魔導書を脇に抱え直し、ガレンは金貨の数えを止めずに、肩越しに聖女を見た。 祭壇の前で、ミレイユの両手が止まった。 動きが止まったというより、動きの途中で、糸を切られたような止まり方だった。指先は、鎖の留め具の方へ伸ばされたまま、空中で角度を保っている。彼女の細い肩が、息を吸う形のまま、戻らなかった。 銀の鎖の留め具は、外れていなかった。鎖は首にかかったまま、ただ、水晶だけが消えていた。 「……無い」 聖女の声は、ほとんど囁きだった。彼女はもう一度、鎖の全長を指で辿った。指の腹が留め具に触れ、また鎖の中ほどに戻り、もう一度、留め具に戻った。同じ動きを三度繰り返した。 「どうした、聖女様!」 リディアが魔導書を放り出して駆け寄った。ガレンが金貨を数える手を止めた。アルベルトは宝箱の蓋から手を離し、靴の踵で石畳を一つだけ強く踏んだ。 石室の空気が、急に薄くなった。 「水晶が……前回の最深部で得た、私の——」 ミレイユの白い指が、祭壇の上を探った。蝋燭の蝋が垂れた跡を撫で、石の継ぎ目に指を差し込んだ。何も無かった。 リディアは床に視線を走らせた。レオンの足元、扉の脇、それから自分自身のローブの裾までを順番に確かめた。 「落ちていないわ。鎖は切れていない」 「俺の宝箱の中にも無い」 ガレンが金貨を払いのけて、箱の底を確かめた。 アルベルトは振り向かなかった。 視線だけが、石室の隅——扉の脇に立つレオンの方へ、ゆっくりと角度を変えた。松明の光が、彼の頬の片側だけを照らした。残りの半分は、宝箱の影に沈んでいる。 「——レオン」 名を呼ばれた。 十年、雑用としか呼ばれなかった彼の名が、今夜初めて、アルベルトの口から出た。 レオンは、革紐を数える指を止めた。胸の内側で、何か硬いものが、わずかに位置を変えた。十年の符丁の方ではない。十年で初めて、自分の名で呼ばれたという事実の方が、胸骨の裏側で重さを変えた。 これまで、卓の隅で目録を書く彼を呼ぶ声は、いつも「おい」か「そこの」だった。名は、十年、誰の口にも乗らなかった。乗らないことが、彼の仕事の一部だと、彼自身も思っていた。今夜、その名は、咎める言葉の前に置かれた。前置きの位置にあって、続く言葉の重さを支える、踏み板の役目を担っていた。 「お前、扉の脇で何をしていた」 アルベルトの声は低かった。怒鳴り声ではない。昨夜、卓の縁を指で叩いたときと、同じ角度の声だ。 その角度の声を、レオンは何度も聞いてきた。値踏みするときの声だ。罠の解除料を値切るときも、雑嚢の中身を確かめるときも、そして、卓の隅で目録を書く彼の手元を、ちらりと見るときも、同じ角度だった。怒りではなく、計算の声だった。 「立っていました」 「動かなかったか」 「動きませんでした」 「雑嚢の口を、開けたか」 「開けていません」 レオンの手は、雑嚢の革紐に置かれたままだった。指の腹は止まったが、革紐の数は、頭の中でまだ数えられていた。
リディアが、アルベルトと聖女の間に体を入れた。 「アルベルト、待って。まさかこいつが——」 「他に誰がいる」 アルベルトの声が、一段落ちた。 「俺は宝箱に手を入れていた。ガレンは金貨を数えていた。リディアは魔導書を確かめていた。ミレイユ様は祭壇の前で——背中を向けていた」 彼は石室の四隅を、視線で順番に切った。 「聖女様の背中が、誰の死角にもなっていなかった位置は一つだけだ。扉の脇。お前の立っていた場所だ」 ガレンが盾を担ぎ直した。剣の柄に掌をかける癖が出た。 「アルベルト、こいつの雑嚢を改めるか」 「……いや」 アルベルトは首を振った。 「雑嚢の中に無くても、こいつの言い訳は通る。坑道のどこかに隠したかもしれん。お前の手は、十年、罠の解除をしてきた手だ。隠し場所を作るのは、慣れている」 レオンは目を細めた。 反論はできた。雑嚢を開けて、中身を晒せば、水晶が無いことは証明できる。袖の中の細針も、火薬包の残りも、解毒草の束も、全部、目の前で並べられる。並べたところで、十年の符丁は、彼の口より早く、相手の耳に届いていた。 十年というのは、そういう厚みだった。最初の半年で雑嚢持ちと呼ばれ、次の二年で雑用と呼ばれ、それから先の七年は、ただ「そこの」だった。今夜、最初に名で呼んだのは、最も近かった男の、最も遠い声だった。距離は、十年かけて、ゆっくり伸びていたのだと、レオンは今になって知った。 胸の内側で、また温度の質感が変わった。 今度は、冷たくはなかった。冷たさを通り越した、硬い何かの位置が、胸骨の裏側で、わずかにずれた。鎖帷子の輪が、布の下で、楕円に歪んだまま、戻らなかった。指の腹で輪を押し戻そうとしたが、輪は鉄の弾力を失って、押した形のまま、止まっていた。 (……これは、何だ) 昨夜、酒場の卓で押した鉄の輪と、同じ感触だった。だが、今夜の方が、戻らない時間が長い。 ミレイユは、祭壇の前で動かなかった。 聖女の白い指は、空になった鎖の先を握ったまま、ゆっくりと膝の脇に落ちた。彼女は俯いていた。否定もしなければ、肯定もしなかった。長い睫毛の影が、頬骨のあたりで、一度だけ、震えた。 白い指の関節が、わずかに白かった。握ったまま落ちた手は、開かれることがなかった。鎖の先を握り潰すでもなく、放すでもなく、ただ、その形のまま、留められていた。 レオンは、その震えを見た。 (……聖女様、何を) 口には出さなかった。出せば、聖女の立場を悪くする。十年、ずっとそうだった。リディアが、聖女の横顔を一度だけ見て、それから視線を逸らした。逸らした角度が、いつもの彼女の角度より、ほんの少し、深かった。 十年、彼女の視線の角度は、レオンの中で、いくつかの基準値として刻まれていた。卓を挟んで議論するとき、坑道で陣形を組むとき、夜営の火を囲むとき。今夜の角度は、そのどれとも違っていた。基準値の外にある、新しい角度だった。 レオンは、その角度も、見た。 雑嚢の革紐の上で、彼の指は動かなかった。革を数えるのを止めた指先が、初めて、空を握っていた。
「証拠も、聖女様の証言も、ありません」 レオンが、初めて言葉を継いだ。 アルベルトが手を上げた。掌の方を、レオンに向ける形で。 「黙れ」 声は、もう低くなかった。低さの底を抜けて、ただ平らな声に戻っていた。 「お前以外に、誰がいる」 石室の奥で、蝋燭の炎が一つだけ消えた。 ガレンが盾を構え直した。リディアの杖の先に、青白い火が灯った。聖女の白い指は、空になった鎖の先を、もう一度だけ握り直した。 レオンは、扉の脇から動かなかった。 雑嚢の革紐に置いた指の腹が、革を数えるのを完全に止めた。十年、ずっと数えてきた癖が、今夜、初めて止まった。 鎖帷子の輪は、楕円に歪んだまま、戻らなかった。 扉の向こうから、坑道の風が、もう一筋流れてきた。 今度は、誰の足元も抜けずに、石室の中央で止まった。