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Fランクの嘘、十年目の覚醒

第2話 第2話

第2話

第2話

夜が明けきらないうちに、レオンは宿を出た。 雪は止んでいた。地面は霜で硬く、踏むたびに薄い氷が割れる音がする。腰の雑嚢が、肩の付け根に食い込んだ。中身は昨夜と同じ——解毒草七束、火薬包四つ、聖水三本、それから特級の中和剤。 集合場所の南門は、まだ衛兵の交代前だった。レオンは石畳の上に膝をつき、霜を払いのけて、地面に指で線を描き始めた。坑道の見取り図だ。雑嚢の重みを膝で支えながら、第三層の床に、点を一つだけ強く打つ。圧力式の罠の位置——昨日からまた、半歩ぶん壁側に寄っている。 (......動いている) 罠は、踏まれかけた回数の重みでわずかに位置を変える。三日前は中央寄り、今は壁際に近い。誰かが踏みかけた跡だ。先週、ガレンが踏みかけた位置から、合計で二歩ずれている。 息が白く伸びた。指先の霜が、皮膚の脂に触れた瞬間だけ溶けて、再び固まる。銀翼の剣の三人は、まだ来ない。 「——おい、雑用」 ガレンの声が背後から飛んできた。鎧の留め金が、まだ完全には締まっていない。レオンは指で霜を均し、図を消した。立ち上がるとき、膝の関節は鳴らなかった。十年前なら、雪の朝には必ず軋んだはずの関節が、今は鉄の蝶番のように静かだった。 リディアが欠伸を噛み殺し、アルベルトとミレイユが少し遅れて現れた。聖女は朝の光の中でも肌の白さが目立った。 「全員揃ったな。最深部まで、今日で抜く」 アルベルトが宣言した。誰も復唱しなかった。それが慣例だった。

坑道の入口は、岩肌の裂け目だった。 内部に踏み込むと、空気の温度が三度ほど落ちた。壁面を伝う水滴の音が、奥へ行くほど間隔を伸ばしていく。松明の油が炎の縁で焦げ、酸化鉄の匂いに混じって、わずかに硫黄の気配が下から立ち上ってきた。レオンの鼻腔は、その匂いの濃度を呼吸ごとに数えていた。レオンは先頭を歩く。十年、ずっとそうだ。荷物が一番重い者が、罠を一番先に踏む役目を負う。それが銀翼の剣の暗黙の規則だった。 第二層の入口で、レオンは足を止めた。 「アルベルトさん。ここから先、聖女様の結界石を一つ、追加でお渡ししても」 ミレイユの杖を支える結界石は、最近の魔力消費で限界が近い。彼の頭の中の数値が告げている——五パーセント増。二回の戦闘で割れる。 「は?」 アルベルトが振り向いた。 「結界石、私の雑嚢に予備が一つあります。今日、使われた方が」 「お前、何様のつもりだ」 リディアの声が割り込んだ。鈴を振るような声で、棘だけが鋭い。 「Fランクのくせに、聖女様の魔力管理に口を出すの? 失礼にも程があるわ」 ミレイユは、目を伏せたままだった。否定もしないが、肯定もしない。長い睫毛の影が、頬骨のあたりで小さく揺れただけだ。 レオンは雑嚢の口を縛り直した。指の腹が、革紐を一本ずつ数える。 「......申し訳ありません」 「分かったら、後ろを歩け。先頭はガレンに代わる」 アルベルトが手を振った。ガレンは盾を担ぎ直し、レオンの肩にぶつかってから前に出た。ぶつかった瞬間、レオンの体は半歩も動かなかった。ガレンの方が「うっ」と短く呻き、肩を押さえた。 「......鎖帷子、随分硬く磨いたな」 「すみません」 ガレンは舌打ちしてから、先頭に立った。 第三層への階段で、レオンは指の関節を一つだけ鳴らした。圧力式の罠の位置は、頭の中で点が一つ、明滅している。先頭がガレンなら——あれを踏む。 (踏ませる訳にはいかない) 鎖帷子の下で、皮膚が一度だけ粟立った。掌の皮は乾いているのに、指先だけがほんの少し湿る。十年前の、最初の罠の前と、同じ反応だった。ガレンが盾を担いだまま、足音重く階段を下りていく。レオンは黙ったまま、雑嚢の中から細針を一本、袖の中に滑らせた。罠の解除針だ。 階段の最後の段で、レオンの肘がガレンの脇腹を、ごく軽く突いた。 「邪魔だ、雑用!」 ガレンが一歩、横にずれた。 その一歩が、罠の位置から壁側に半歩ぶんずらした。罠の上を踏まずに、ガレンは通過した。 レオンは、ガレンが過ぎた直後に、自分の足で罠の床板を踏んだ。 板は微かに沈んだ。袖から滑り出した細針が、踏み込みの瞬間に板の継ぎ目に滑り込み、解除機構の差し込みに食い込んだ。 カチ、と内部の歯車が止まる音がした。誰の耳にも届かない、雑嚢の革が擦れる音にも紛れる、極めて小さな金属音だった。 レオンの呼吸は、二拍ぶん遅れて再開した。胸の内側で、心臓は普段の倍の速さで打っているはずだったが、表に出る音はひとつもない。雑嚢の革紐の擦れる音が、その一切を覆い隠していた。 「何ぼうっとしてんだ。ついて来い」 アルベルトが背後から押した。レオンは頷いて、何事もなかったように歩き出した。

第四層の中央広間で、ガレンが先に骨剣士を仕留めた。盾で殴り、剣で薙ぎ、得意げに笑った。 「楽勝だ。今日は最深部まで一気に行けるな」 骨剣士の砕けた骨片が、石畳の上で乾いた音を立てて転がっている。レオンの靴底は、欠片を踏みしだかぬよう半歩だけ角度を変えた。粉塵が松明の光の中を泳ぎ、咳こそ出なかったが、喉の奥にざらりとした感触が残った。リディアが杖を構え直した。火属性の魔石が、刃の縁ほどの細さで光っている。 レオンの頭の中で、また数値が更新される。 (リディアの杖、火属性、あと二発で割れる) 昨夜、雑嚢の左に予備の魔石を入れた。だが渡すことはできない。今、口を開けば、また棘が飛んでくる。 通路は狭くなり、第五層の入口に差し掛かった。 ここから先が、毒霧の階層だ。 レオンは先頭のアルベルトに並びかけた。 「アルベルトさん」 「なんだ」 「第五層の右側通路、毒霧が出ます。中央分岐の手前で、左側に寄ってください。ミレイユさんの結界は、二回が限界です」 「......」 アルベルトは立ち止まった。靴の踵で、石畳の継ぎ目を踏み鳴らした。 「お前、本当に何様のつもりだ」 声は低かった。怒鳴り声ではない。低い、押し殺した声の方が、剣を抜くときの音に近い。 「俺たちが、どこを通るかをお前が決めるのか?」 「いえ、そういう意味では」 「黙れ」 アルベルトの手が、レオンの胸倉を掴んだ。鎖帷子の輪が、彼の指の間で軋む。 レオンの肩は、引かれた力に対して、思ったよりも動かなかった。アルベルトの足の位置が、わずかに後ろにずれた。 「......!」 アルベルトが手を離した。眉の間に、一瞬だけ困惑の影が走った。 「Fランクのくせに、口を出すな。何度言わせる」 「申し訳ありません」 レオンは胸倉を掴まれた跡を、布の上から軽く均した。鎖帷子の輪が一つだけ、押された方向と逆へ滑って戻ったのが、指先に伝わる。十年で身についた重さは、もう自分の意思では脱げない。 「次に口を開いたら、雑嚢ごと置いて行く」 レオンは頭を下げた。 (——左に寄せた方が良いのですが) 口にしなかった。 代わりに、第五層に踏み込む直前、雑嚢の中の解毒草を七束のうち四束、上の方に詰め直した。すぐに取り出せる位置だ。火薬包は二つ、左袖の中に滑らせた。アルベルトが右側通路を選んだとき、毒霧の発生源を一つだけ封じる目算だった。 実際、アルベルトは右側を選んだ。 そして、レオンが袖から取り出した火薬包を、毒霧の発生口に投げ込んだ瞬間、霧の流れがわずかに反転した。ミレイユの結界は、一回で済んだ。 誰も気づかなかった。アルベルトは「思ったより楽だな」と笑い、リディアは杖の魔石が割れる前に最後の一発を撃った。 (——これで、最深部まで保つ) レオンは雑嚢の口を縛り直した。指の腹が、また革紐を一本ずつ数える。

最深部の扉の前で、銀翼の剣は立ち止まった。 重い石の扉だった。アルベルトが押し開けると、奥に石の祭壇と、宝箱が三つ並んでいた。 ミレイユが小さく息を呑んだ。 「......宝物庫」 リディアが手を打ち、ガレンが歓声を上げた。アルベルトは振り向きもせずに、一番奥の宝箱に近づいた。 レオンは、扉の脇で立ち止まった。 聖女の首元で、銀の鎖が光った。装飾品——前回の最深部で得た、小さな水晶の付いた首飾りだ。ミレイユは祭壇の前で立ち止まり、白い指で水晶を撫でた。 (......何かが、視線の角度を変えている) レオンの胸の内側で、また温度の質感が変わった。 鎖帷子の輪が、布の下で、わずかに楕円に歪んだ。 アルベルトが宝箱の蓋に手をかけた。蝶番が低く軋んだ。 レオンは、扉の脇で、ただ立っていた。

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