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Fランクの嘘、十年目の覚醒

第1話 第1話

第1話

第1話

革鎧の継ぎ目から泥が剥がれ落ちる音は、酒場の喧騒に呑まれて誰の耳にも届かない。 レオンは布の端を爪で押さえ、鎖帷子の輪一つ一つに油を塗り直していた。鉄の匂い、乾いた血、革の汗——指先が順番にそれらを拾い上げていく。爪の間に黒い泥が残る。十年、毎晩これだ。 店の中央では、銀翼の剣の四人がジョッキを高く掲げていた。 「最深部の双頭蛇! あれを真っ二つにしたのはこの俺だ!」 リーダーのアルベルトの声が梁を震わせる。剣士のガレンが手を叩き、魔導士のリディアが酒を呷った。聖女ミレイユは微笑むだけで、白い指で杯の縁を撫でている。 レオンの席は、扉に一番近い隅。 蝋燭は半分に燃え落ち、卓の下には罠解除用の細針と、潰れた解毒草の束が転がっていた。卓の上に並ぶのは、四人分の装備の残骸だ。剣の刃こぼれ、矢筒の裂け、ローブの裾の焦げ——全部、彼が今夜中に直す。明日もダンジョンに潜るからだ。 「おい雑用、酒は要らないのか」 給仕の女が皿を下げに来た。レオンは布を持ち替えただけで、口は開かなかった。返事を期待されていないと分かっていた。十年同じ酒場に通って、彼の名を呼ぶ給仕は一人もいない。 鑑定石は十二歳で「Fランク・スキルなし」と判じた。それからずっと、彼の符丁は「Fランクの雑用」だ。

膝の上に広げた羊皮紙には、明日潜る『黒霧の坑道』の見取り図がある。 レオンは指先で、第三層の床に小さな丸を描き加えた。 (——ここに圧力式の罠。先週ガレンが踏みかけた位置から、二歩ずれている) (第五層の分岐、左の壁から毒霧。ミレイユの結界は、最近の魔力残量だと二発が限界) 解毒草の束を七つ。火薬包を四つ。聖水を三本。それから、誰にも見つからない店で買い足した、特級の中和剤が一袋。雑嚢の口を縛り、自分の背に振り分ける。 重い。だが慣れている。肩の骨と、腰の節と、踵の腱が、雑嚢の重さを十年分の癖で受け止めて分配する。 銀翼の剣が一週間で踏むはずの罠は、彼の数え方では十六個ある。そのうち十個はレオンが事前に解除し、四個は迂回路を作り、二個だけ「経験になる」ものを残す。アルベルトは、自分が踏んだ罠が二つだけだと信じている。本当はゼロのはずだが、二つ残しておかないと、彼の機嫌が悪くなる。 「——おい、レオン」 ガレンが酒の臭いを連れて隣に立った。鎧の留め金が外れたまま、油の匂いがする。 「俺の盾、そこに置いてあったろ。傷の入ったやつだ」 「直してある」 「……ふぅん」 ガレンは指先で盾の縁を撫でた。昼にあった深い傷は、元から無かったように消えている。 「ふん。盾の傷一つで威張るな、雑用が」 ガレンは盾を担いで戻っていった。礼の言葉は無い。十年、無い。 鎖帷子の輪に油が染み込んでいく音は、ジョッキのぶつかる音にかき消される。レオンは続きの作業に戻った。指の腹に油の膜が薄く張る。膜は呼吸ごとに乾き、また塗り重ねるたびに新しくなる。十年、毎晩、同じ手順で、同じ薄さの油膜を作っている。 (聖女様、明日の朝、第二層で結界石を一つ追加。魔力消費が、ここ三回で五パーセント増えている) (リディア、杖の魔石にひびが入りかけ。火属性二発で割れる。予備は雑嚢の左に入れた) 誰も計算しない数値が、彼の頭の中だけで巡っている。数値は紙に書かれない。書けば誰かに笑われるからだ。だから、頭の中だけで生かしておく。 卓の向こうで、リディアが笑った。鈴を振るような声で、レオンの方に視線も寄こさず。 「ねえ、ガレン。明日の宝物庫、私の取り分多めにしてよ。前回も雑用に魔石半分も使われたんだから」 ガレンが頷く。 「使ったって? 雑用が魔石を?」 「分配のときに、勝手に解毒草と交換してたじゃない」 事実は逆だ。 リディアが捨てかけた、ひび割れの魔石を、レオンが解毒草と交換して回収した。あれが今、彼女の杖を支えている。 レオンは何も言わなかった。言えば、彼女の機嫌が悪くなり、明日の魔法精度が落ちる。黙って、布を畳む手を止めない。

蝋燭の芯が短くなり、店の客が半分に減った頃、アルベルトが立ち上がった。 床板を踏む音は重く、酔いのせいか歩幅が一定しなかった。 ジョッキを片手に、レオンの卓まで歩いてくる。銀翼の剣の他の三人の視線も、ゆっくりと卓を辿ってこちらに寄ってきた。給仕の女が皿を抱えたまま動きを止め、酒場の喧騒が、レオンの卓の周囲だけ薄い膜を張ったように引いていった。 「精が出るなあ、雑用」 酒で赤くなった頬。剣の柄を撫でる癖。レオンは布を止めずに、視線だけ上げた。 「明日の支度です」 「——お前がいなくても、明日は回る」 ジョッキの底が、卓に置かれた。木の卓が低く鳴った。蝋燭の炎が、底から立ち上る微かな空気の流れに揺れる。 「分かってるよな?」 店の喧騒が、一瞬だけ薄くなった。誰かが意図して引いたのではない。アルベルトの言葉が空気の重さを変えただけだ。リディアが横目でこちらを見た。ミレイユは目を伏せたままだった。 レオンは布を握り直した。指が、革の繊維を一本ずつ数える。 「はい」 「お前、最近何か勘違いしてないか? 罠の位置がどうのこうの、補給がどうのこうの——口を出すな。お前は荷物番だ。それ以上でもそれ以下でもない」 「分かっています」 「分かってるなら、明日も大人しく、後ろを歩け」 アルベルトは笑った。歯が黄色い。笑い声に、口の端から酒の雫が一滴垂れて、髭を伝った。 「お前がいなくても回る、ってのはな——いてもいなくてもどうでもいい、って意味だ。雪の降る前に、よく覚えとけ」 卓の縁を指で叩いた。一拍、二拍。それから、もう一度、強く。 背を向けて、自分の卓に戻っていく。仲間が笑った。リディアが小さく拍手した。ミレイユだけが拍手をしなかった。聖女の白い指は、相変わらず杯の縁を撫でていた。 レオンは、手元の鎖帷子に視線を落とした。 胸の内側が、冷たく硬くなる音がした。怒りではない。哀しみでもない。音とも呼べない、ただ温度の質感だけが、胸骨の裏側で変わった。 (……何だ、これは) 問いの形をした、答えのない震えだ。 鎖帷子の輪を、指先が一つだけ強く押さえた。鉄の輪が、軋まずに、変形した。親指の腹で、鉄が革のように沈んだ。輪の縁が、わずかに楕円に伸びて、また弾かれるように形を戻す。 レオンは目を細めた。布の下で、輪の歪みを元に戻す。誰にも見せず、深く息を吐いた。 (最近、こういうことが、多い) 半月前、宿の井戸で縄が切れた朝、片手で桶を吊り戻した。重さを感じなかった。先週、坑道の入り口で岩の欠片を蹴飛ばしたとき、思ったより遠くまで転がっていって、ガレンが「足癖の悪い雑用だ」と笑った。あのときも、自分の踵が硬いものに触れた手応えだけが、奇妙に薄かった。 鑑定石が「Fランク」と判じたはずの指先が、鋼を粘土のように押す。階段を二段抜きで上るとき、踏み板が鳴らない。重い荷物を背負っても、息が乱れない。 最初は気のせいだと思っていた。次は、十年の習熟だと思った。雑用の十年は、罠の感触を指の節で覚え、毒草の匂いを舌の先で見分け、夜の暗がりでも階段の段差を踏み外さない目を、彼に与えた。これもその延長だと、自分に言い聞かせて済ませてきた。だが今夜は——アルベルトの言葉が落ちた瞬間、胸の奥で、何か硬いものが、わずかに位置を変えた。 (鑑定石が、間違っていたら?) 浮かんだ問いを、レオンは咄嗟に押し戻した。十年の符丁を疑うのは、彼にはまだ早すぎた。 ただ、アルベルトの言葉が、奇妙な角度で胸に残った。 ——お前がいなくても回る。 本当にそうか? レオンは布を畳んだ。明日の段取りを、頭の中で最後にもう一度なぞる。第三層の罠、第五層の毒霧、聖女の魔力残量、ガレンの盾の継ぎ目、リディアの杖の魔石。全部、自分の頭の中にしかない。

蝋燭が燃え尽きる前に、レオンは雑嚢を肩にかけた。 扉を押すと、外は雪が降り始めていた。 舌に冷たいものが落ちる。鉄の味のする雪だ。舐めた覚えのない味だった。だが、口の中で確かに、鉄を噛んだときの記憶と一致した。 背中越しに、アルベルトの笑い声が聞こえた。 「明日、最深部だ! 聖女様の宝物庫を空にしてやるぜ!」 レオンは、雪の中へ一歩を踏み出した。 鎖帷子の重みが、背中で鳴る。 (——明日、何かが、終わる) 理由は分からなかった。ただ、指先が覚えていた。鉄を粘土のように押した、あの感触を。 雪が、彼の足跡を一つずつ埋めていく。 銀翼の剣の名で歩く最後の夜が、静かに更けていった。

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