第3話
第3話
夜が明けても、カイルは目を閉じていなかった。
鶏鳴の前、まだ暗いうちに毛布から這い出して、雪に埋もれた斧を掘り起こす。薪を割る音が、狩人小屋の壁を二度叩いて返ってきた。掌に伝わる柄の冷たさ、刃が樫の節を裂いて咬み込む鈍い手応え、それだけが、起きていることの証だった。
朝餉の支度を終え、馬の蹄に詰まった氷を落としていると、レオンが小屋から出てきた。聖剣《白銀》を腰に下げ、革帯を締め直しながら大あくびをする。
「雑用係、出立は午後だ」
「午後、ですか」
「次の宿駅で、装備の最終確認をする。──お前にもしっかり働いてもらうぞ」
「はい」
声は朝の中で妙に明るかった。ミラが薄荷の香を引いて続いて出てきて、カイルに向けて短く微笑んだ。祈りの笑みではない。何か別の、語尾の細い、薄い笑みだった。
カイルは頷き返し、馬の手綱を握った。革は冷えて、昨夜のガイの血がまだ抜けていない。指の腹を一度だけ、強く擦りつけた。
街道は緩やかに北へ折れ、午過ぎに王国境の宿駅へ入った。
古い丸太組みの宿舎。樫の梁から塩漬けの肉が吊され、暖炉の煙が天井を煤で黒く染めている。卓を囲んだ五人分の影が、火の揺らぎに合わせて壁を伸び縮みした。カイルは隅で、鞍の革帯を一本ずつ点検していた。
ガイが黒パンを噛みながら、ふと顔を上げた。
「明日からだな、第七層」
「装備の番号、確認しとけよ」
レオンが応じる。声の張りが、夜営の朝より、わずかに高い。仕掛けの時刻が近づいていることを、カイルは指先で測っていた。
レオンが立ち上がったのは、暖炉の薪が二度目の崩れを起こしたときだった。
「──カイル」
名を呼ばれた。「雑用係」ではなく、名で呼ばれたのは、白銀の翼に入って五年で、二度目だった。
「はい」
「お前に、訊きたいことがある」
声は静かだった。けれど、静かさの中に、刃の角度があった。フォルクが竈の灰掻きを止め、ガイがパンを置いた。ミラが膝の上で両手を組んだ。組んだ手の指が、組み直された。一度。
暖炉の薪が、もう一度、わずかに崩れた。火の粉が一つ、卓の縁まで飛び、誰の手も、それを払わなかった。
「今朝、聖剣を贋物だと言ったな」
「言いました」
「Eランクの雑用係が、王家と教会と大陸の鑑定士団が裏書きした剣を、贋物だと」
「鍔の内側に、継ぎ目が」
「フォルク」
レオンが盗賊の名を呼んだ。フォルクは肩をすくめ、立ち上がってカイルの隣に来た。
「悪いな、雑用係」
その手が、カイルの腰の布袋を抜き取った。中身を卓の上に空ける。鴉の喉で拾った薬草の見本、針と糸、銀貨が三枚、そして、底に沈んでいた、一枚の小さな羊皮紙。
カイルは息を飲んだ。
それは、彼が入れたものではなかった。
羊皮紙の縁は、卓の油に触れて黒ずんでいた。墨は新しく、暖炉の光を受けて、まだ艶を残している。書かれてから半日も経っていない筆跡だ、と「なんとなく」が告げた。線の太さの均一さは、慣れた指の運びだった。フォルクの右手の親指の腹に、いつから墨の汚れがあったのかを、カイルは思い出そうとして、思い出すまでもないと知った。
「呪符だ」
レオンが告げた。
「何ですって」
「雑用係、お前の袋から、呪符が出た。古代遺跡の最深部で禍を呼ぶ、黒呪の文様だ。──昨夜、お前が小屋の裏で何かを呟いていたと、フォルクが見ている」
「私は、何も」
「ミラ」
ミラが立ち上がった。
修道服の上に羽織った外套の襟を、彼女は両手で握りしめた。指先が、白くなるほどに。
「──カイル」
声が、震えていた。
「あなたが、こんなことをする人だなんて、私は、思いたくなかった」
「ミラ、私は」
「聖剣を贋物だと言って、隊の信を乱して、その上、呪符まで」
涙が、一粒、ミラの頬を伝った。落ちる前に、外套の襟で押さえる。指先が、襟の毛を握りしめるたびに、新しい一粒が、彼女の頬に流れた。
演技ではなかった。たぶん、本物の涙だった。けれど、流す手順は、決まっていた。
涙の落ちる位置も、外套の繊維が湿りを吸う角度も、彼女はすでに知っていた。膝の上で組み直された指は、もう、組み替えられない。祈祷の所作と同じだった。祈りの代わりに、ミラは、自分の罪を、襟の毛の一本ずつに、握り込んでいた。
「呪われた偽鑑定士、ですね」
レオンが、最後の一行を引き取った。
「これ以上、お前を白銀の翼に置くわけにはいかない」
カイルは、椅子から立ち上がった。
立ち上がる動作だけは、自分のものだった。けれど、その先の言葉を、彼は持っていなかった。三度まばたきをして、三度とも、同じ顔を見ていた、あの予習の続きが、ここから先には書かれていなかった。
「弁明は」
「ありません」
口を開いた瞬間、自分の声がそう言うのを、彼は他人事のように聞いた。
ガイが大きく息を吐いた。それが、隊の総意の合図だった。
「装備を置け」
レオンが命じた。
「外套も、靴も、針も糸も、すべて白銀の翼の備品だ。雑用手当の銀貨三枚は、呪符の没収料で相殺する」
カイルは外套を脱いだ。脱ぎながら、ミラの方を一度だけ見た。ミラは、もう、こちらを見ていなかった。
下着の上から、宿駅で借りた古い毛織のシャツを一枚だけ着せられた。
毛織は固く、皮膚を擦るたびに、塩漬け肉と煤の匂いがした。腋の下の縫い目が、半ば破れていた。風が、そこから入ってきた。
靴は、隊舎の隅に積まれていた底の薄い旅靴に履き替えさせられた。革は擦り切れ、踵の縫い目が外れかけている。ガイの腰帯を直したのと同じ針で、いつか自分が当てた継ぎ布だった。それを、自分が履く側に回るとは、思わなかった。
「外まで送る義理はない」
「はい」
「二度と、白銀の翼に近づくな」
「はい」
宿舎の扉が開いた。雪の壁が、夜気の中で立ち上がっていた。
カイルは、その壁に向かって、一歩を踏み出した。
踵の縫い目が、すぐにほどけた。雪が指の隙間に滑り込み、足の甲を一瞬で凍らせた。
扉が、背後で閉まる。閂を下ろす音が、二度。
二度目の閂が落ちた瞬間、宿舎の窓から漏れていた灯りが、ふっと一段、暗くなった。誰かが、油皿を遠ざけたのだ。雪を踏む音は、自分のものひとつしか、聞こえなかった。
街道に出ると、雪はやんでいた。
代わりに、月が出ていた。藍色の空に、欠けた銀貨のような月。雪原を照らす光は冷たく、けれど、視界だけは妙に澄んでいた。遠くの林の梢、雪の重みでしなった枝、その上で羽を畳んだ鴉の影、すべてが、カイルの目には鮮明に見えた。
見えてしまう、と言ったほうが、正しかった。
彼は、街道の真ん中で、振り返った。
宿駅の窓に、一つだけ灯りがあった。レオンの泊まっている部屋だ。窓の硝子越しに、聖剣《白銀》の柄頭が、卓の上に置かれているのが見えた。布は、もう、巻き直されていない。剥き出しの柄が、月光を浴びて、白銀のように、輝いて見えた。輝いて見えるだけだ、と「なんとなく」が告げた。
カイルは、そこから視線を外した。
懐に手を入れた。寒さに震える指が、底に残った最後のひとつを探り当てた。鴉の喉で拾った、毒の調合表らしき羊皮紙の切れ端。フォルクは、これだけは見落としていた。いや、見落としたのではない。盗賊の眼が、これは「価値がない」と判じただけだ。
カイルは、その羊皮紙を一度だけ広げ、月光に透かした。
裏に、別の文様が浮かんでいた。
聖剣《白銀》の鍔に走っていた、あの細い継ぎ目と、同じ角度の、線。
「──そう、ですか」
声に出した。誰もいない街道の上で、白い息が、ひと筋立ち上った。
「贋作の聖剣を作った職人は、毒針の細工師と、同じ流派でしたか」
カイルは、その羊皮紙を懐の奥に戻した。
雪の街道は、北東に向かって緩やかに昇っていた。
その先には、王都がある。鑑定協会の門も、白い大理石も、五年前に「Eランク・微弱識別」と判じた試験石も、すべてその先にある。
カイルは、踵のほどけた靴で、一歩を踏み出した。雪が踏み固まる音が、自分の体重よりも、はるかに重く響いた。
二歩目の前に、彼はもう一度、宿駅の方を振り返った。
そして、月の下で、ひとことだけ呟いた。
「──あの剣で、第七層は、越えられない」
声は、誰にも届かなかった。
届かなくていい、と思った。届いてしまえば、彼らはまだ、引き返せる。引き返さなければ、剣は折れる。折れたあとの第七層がどうなるかを、カイルの眼は、もう、見ていた。
雪原の彼方で、鴉が一羽、月の前を横切った。
カイルは三歩目を踏み出し、街道を北東へ、王都の方角へ、ゆっくりと歩き出した。