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最弱烙印の規格外、最速で頂へ

第3話 第3話

第3話

第3話

栗毛の馬の鼻面から、白い湯気が朝の冷気に解けていた。 宿屋の柱に巻きつけられた手綱は、結び目ひとつにも無駄がなく、緩みもない。鞍の革は夜露を吸って色を濃くし、剣と天秤の焼き印だけが、朝靄のなかでも陰になり、はっきりと浮かんで見えた。

エルドは、短剣の柄に置いた指を、ようやく離した。皮紐の下、古い文字の溝に溜まっていた夜気の湿りが、指の腹を冷たく濡らしている。森から戻った足の裏には、祠近くの腐葉土の柔らかさが、まだ残っていた。靴底の縁から、湿った苔と、朽ち始めた樫の葉の匂いが、ふっと立ちのぼる。

宿屋の二階の格子窓に、ひと影。 外套の裾が、ほんの一瞬だけ動いて──また止まった。

(昨夜の、藪の) そう思いかけて、エルドは首を振った。気配の重さが違う。昨夜の森にあったのは、もっと低い位置から見上げてくる、樹液のように粘りのある視線だった。窓の影は違う。机に肘を置き、書類を読み下ろす目の高さだ。骨を数えるのではなく、書記簿の余白に何を書くべきかを、迷っている目だ。

「エルド」 工房の戸が開いて、父シャルクが顔を出した。鎚を握ったままの右手で、息子の肩を一度、軽く押す。 「ギルドの巡回が来た。昨夜の宿に、泊まった」

シャルクの視線は、息子の手のひらに落ち、それから、剣帯のあたりを抜けて、宿屋の窓へ伸びた。 「今日は、薪は二十でいい。──広場へ出る用が、あるかもしれん」

(ある、ということだ)

エルドは無言で頷いた。柄の皮紐に汗が染み、傷ついた指の付け根が、しんと痛んだ。

***

広場には、もう人が集まり始めていた。 鍛冶炉の煙と、井戸端の湿った石、それから祭り櫓の組みかけの柱。その柱の根元に、ヨルグの父ヨルゲンが革の手袋を片手に握ったまま立ち、村長フェルディッシュは、白髪まじりの髭を撫でながら、見慣れぬ男の前ですでに眉間に深い皺を作っていた。

男は、灰色の旅外套を腰のあたりで紐留めし、首には剣と天秤の銀の徽章を提げていた。背は中肉、年は三十に届かぬほど。革帯には、書記用の銅製ペン軸と、薄い羊皮紙の束が下げてある。腰刀はあるが、長剣ではない。戦う者ではなく、量る者の佇まいだった。

「ギルド東部支部、巡回査定官のヴィクトル・ハインだ」 男はそう名乗ると、フェルディッシュにではなく、櫓のほうへ目を向けたまま、紙束をめくった。 「昨日この村で、年次の魔力測定があったと聞いた。──針が、振り切れた件について、書記簿の写しを取りに来た」

「わざわざ、巡回を曲げて、ですか」 フェルディッシュは喉の奥で笑い、すぐに笑いを引っ込めた。「あれは、装置の故障でございましょう。次の巡回鍛冶に、修理を頼もうかと」

「故障ではないかもしれぬ」 ヴィクトルは、ようやく村長のほうへ目を向けた。「目盛りより上に振れた針は、針止めの真鍮を打って戻る。ところが、書記簿の記述によれば──針はゼロを過ぎ、目盛りの刻まれていない零下の領域で、止まった。これは、私が二十二の村で測ってきた中で、二例目だ」

「二例目」 ヨルゲンが、口を挟んだ。「で、一例目は、どうなりました」

ヴィクトルは、答えなかった。 代わりに、紙束の一枚を、フェルディッシュの手のひらの上に置いた。

「測定不能、と書記簿にはある。だが、本部の覚え書きには、別の解釈がある。装置の目盛りで捉えきれぬほど、針が走った場合──これを我々は、振り切れ、と呼ぶ。規格外、ということだ」

広場の縁で、誰かが息を呑む音。 エルドは、薪割り台の影に立ったまま、奥歯を噛んだ。鉄錆の味が、また舌の付け根に戻ってきていた。

ヴィクトルの目が、ふっと、エルドのほうへ流れた。 ほんの一瞬。骨の数を数えるような視線ではなかった。書記簿の余白に、もう一行書き加えるべきかどうかを、迷っている目だった。

「その子か」 「……ええ」フェルディッシュは答えた。「鍛冶屋シャルクの、三男です」

「お役人様」 ヨルゲンが、わざと軽く笑って、村長の沈黙を埋めた。「装置の故障で、一人の坊主の値打ちを変えてしまうのは、村にとってもよろしくありますまい」

「装置の故障では、ない、と申し上げた」 ヴィクトルは、そう繰り返した。声を荒げず、ただ、書記の机に判を一つ置くような調子で。「規格外という解釈の余地が残るなら、本部に書類を上げる事案だ。村が一存で、最弱、と決めてよいものではない」

「お役人様」 フェルディッシュが、ようやく低い声を出した。「あの針の鳴った音を、村の者は皆、聞きました。お役人様は、聞いておりませぬ。──あれは、不吉でございます。装置の故障か、規格外か、本部の覚え書きで決めるのは、構いませぬ。だが、この村の祭り櫓を組む手前で、不吉が走った──その事実だけは、消せませぬ」

ヴィクトルは目を伏せた。 紙束を一度束ね直し、革帯の脇に挟み直す。それから、フェルディッシュの肩越しに、もう一度、エルドの立つほうへ、目を投げた。

「書記簿の写しは、いただいた。今日のうちに、東街道へ戻る。本部の判断は、追って文書で届くだろう」

ヴィクトルは、エルドの前を通り過ぎる際、わずかに歩を緩めた。 栗毛の馬のほうへ向かう途中、すれ違いざま、低く、ほとんど風のような声で、彼は呟いた。

「──少年。針止めの真鍮、もう一度、見ておきたまえ。あれを打った音は、装置の故障の音ではない」

それだけ言って、男は背を向け、馬の鞍に手をかけた。馬蹄が乾いた音を鳴らし、東街道のほうへ遠ざかる。 振り返ったとき、エルドの背後では、すでに男たちの数人が、祭壇のほうへ歩き出していた。

***

日が中天を過ぎ、薪割り台に日陰が伸びるころ、フェルディッシュは祭壇の下に、村の主立った男たちを呼び寄せた。

祭壇は、広場の北の端にある。四隅を樫の杭で囲い、中央に灰白色の石板。石板の表面は、長年の祈祷で松脂と煤が染み込み、雨に晒された部分だけが、白く脱色していた。

「不吉払いだ」 フェルディッシュは、開口一番にそう言った。 ヨルゲンが頷き、宿屋の主人ガスト、それから、製粉所の老人クレオが、低い声で同意を返した。

「お役人様は、装置の故障ではないと仰る。が、それは──ギルドの言い分だ。村には、村の量り方がある」

「親父さん」 ヨルグが、後ろから口を挟もうとするのを、ヨルゲンが手のひらで制した。子どもの出る場ではない、ということだ。

「祭り櫓は、明後日には組みあがる」 クレオが、樫の杖を地面に一度、突いた。「振り切れた針の音が、櫓に染みつく前に──祓っておくべきでしょう」

「祓う、とは」ガストが訊ねた。 「焚火を一晩、祭壇で絶やさぬ。香木を焚き、不吉の名を、煙に乗せて、村の北の森へ流す」

「名は」 誰かが、低く訊いた。

祭壇の下の男たちは、互いに目を交わした。 誰も、はっきりとは口にしない。けれども、その沈黙は、すでに一つの名を、空気の中に書き込んでいた。

エルドは、薪割り台の脇から、それを見ていた。 父シャルクは、工房の戸口に立ち、革前掛けを腰の前で固く握って、動かなかった。表情は煤に紛れて読めなかったが、鎚を握っていない右手の指が、関節のところで一度、強く折り畳まれて、それから、ゆっくりと開かれた。ふいごを踏むときの呼吸を、自分の腹の底へ送り直すような仕草だった。

「祭壇の火は、今夜から焚く」 フェルディッシュが宣告した。「香木は、ヨルゲンの蔵から出す。──エルド」

呼ばれて、エルドは顔を上げた。 村長は、目を合わせなかった。石板の白く脱色した部分に視線を落としたまま、続けた。

「お前は、今夜、家から出るな」

エルドの胸の奥で、何かが低く鳴った。 昨夜の井戸端で、メリアの言葉に折れた、あの細い糸の続きが、今日は別の場所で、もう一度、ぴんと張られた音だった。

(出るな、ではない。出てくるな、だ)

口の中で、そう訳した。 父は、何も言わなかった。鎚を工房の中へ持ち帰り、火床のほうへ姿を消した。

ヴィクトル・ハインの栗毛は、もう、宿屋の柱にはいなかった。

***

夕方になっても、エルドは家の中にいた。 窓の隙間から、祭壇の方角を見ていた。煙はまだ立っていない。だが、ヨルゲンの蔵の前には、すでに男たちが三人、香木の束を運び出していた。柏と、白檀。それから、村の北の沼地でしか採れぬ、苦い匂いのする黒い枝──不吉払いと呼ばれる類の香木だ。

(出るな、と言われた)

卓の上の短剣に、目を落とす。 皮紐の擦り切れ。古い文字の彫り。昼のあいだ、傷の血が乾いた皮紐の溝が、ほんの少しだけ、色を濃くしていた。

戸口の向こうで、足音。

「シャルクさん、いるか」 ヨルゲンの声だった。父は工房の奥で、答えなかった。代わりに、客の足音は、迷うことなく、家の戸口へ回ってきた。

「シャルク、息子のことで、話がある」 戸越しに、低く落ちた声。「祭壇の火を焚くだけでは、村の者は得心せぬ。──それから、お前の息子の、その短剣のことだ」

エルドは、卓の短剣を、黙って胸元に引き寄せた。 皮紐の下の古い文字が、掌の傷の熱を少しだけ吸い込んで、温かかった。 窓の外、祭壇の方角に、最初の一筋の煙が、ゆらりと立ちのぼり始めていた。

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