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測定不能の追放勇者

第3話 第3話

第3話

第3話

右腕の指先が、雪の冷たさで初めて感覚を取り戻した。

「動かないでください、お兄さん」

ミィと名乗った少女が、馬車の荷台から取り出した晒し布を、俺の右肩に巻きつけている。指は震えていたが、結び目を作る手順だけは慣れていた。荷縛りの結び方だ。骨折を疑った彼女が咄嗟に取り出したのは、医療用ではなく荷物用の麻紐。それでも巻く方向は正しかった。心臓へ血を戻す向きに、肩から肘へと螺旋を描いている。 「腕、骨は折れてない。筋が伸びただけだ」 「で、でも、汗が……」 「ただの寝違えみたいなもんだ」

嘘を吐いた。三分前、観察眼が「神経伝達一時遮断」と表示した感覚は、寝違えの十倍は不快だ。けれど、ミィに本当のことを言う理由が見当たらなかった。怯える人間にもう一つ怯える材料を渡しても、雪の上では何の足しにもならない。

雪の上で、野盗五人は動かない。気を失っているだけの三人を、俺は左手で順番に縛り上げた。麻縄の結び目はミィに任せた。彼女は鼻を啜りながら、馬の轡を扱うのと同じ手付きで、男たちの両手首を背中に回した。手早い。 「商隊の、護衛を、待ってたんです」

ぽつり、と少女が言った。

「四日前、街道の北で別れて。先行偵察に出た三人が、戻ってこなくて」

俺は唇の内側を噛んだ。ミィは商隊の生き残りではなく、商隊の置き去りだった。雪の上に放り出された荷馬車一台、御者台の足板には古い血が固まっている。少女一人で、四日。風の音と馬の鼻息だけを相手に、四日。

頭目の懐から、丸めた羊皮紙が雪の上に落ちていた。俺は左手でそれを拾い、ボロ布の内側に滑り込ませた。ミィは見ていなかった。見せる気もなかった。

馬車を雪の轍から押し出すのは、左腕一本では無理だった。ミィが先頭の馬の手綱を引き、俺が後輪の輻に肩を当てて押した。雪の中で車輪が一度、二度、空転して、三度目に乾いた咳のような音を立てて回り始めた。 「進む! 進みます!」 少女が叫んだ。声に、初めて、生きた人間の張りが戻った。

林の縁を半里。風の通らない岩陰に馬車を寄せて、俺たちは野営の支度を始めた。日没まで一刻もない。雪の中での野営は、火が落ちた瞬間に死ぬ。

ミィが荷台から薪と火打ち石を取り出し、俺は左手で枯れ枝を集めた。集めながら、右腕の指先で雪を一握りすくってみる。冷たさは戻った。痺れは消えていない。指が、自分の指のはずなのに、紙ごしに何かを触っているような感触が残る。掌で握り潰した雪の粒が、感覚の薄い皮膚の上で、ゆっくり融けていく。

『──神経再接続72%』 『──完全回復まで、推定四十分』

「お兄さん、火、つきました」

焚き火が、岩肌に黄色い影を投げた。俺は雪を払って腰を下ろした。ミィが向かいに座り、両手を炎にかざす。指先の凍傷は、思ったより浅い。商隊で長く外気に晒されてきた手は、すでに寒さへの耐性を持っている。 「……商隊って、何を運んでた」 「香辛料です。北の辺境都市──アルディアまで」 「アルディア」 「はい。ここから三日、ですけど、馬車一台じゃ、二日延びるかも」

俺は焚き火の向こう側のミィを見た。栗色の髪が炎で赤く透ける。頬の打撲は腫れていたが、表情は崩れていない。十五、十六と踏んだのは正しかった。けれど、目の落ち着き方は二十歳を越えている女のものだった。商隊の末娘ではなく、商隊で叩き上げられた使い走り、という顔だ。 「両親は」 「父は、北で雪崩に。母は、その前に病で」 「……兄弟」 「いません。商隊が、家でした」

その商隊が、四日前に半壊した。残ったのは、馬車一台と少女一人と、香辛料の樽が三つ。

俺は焚き火の薪を、左手で一本くべ直した。火の粉が、ミィの頬の高さまで舞い上がって、消えた。乾いた木の脂が爆ぜる音が、岩陰の中で短く跳ね返る。 「お兄さんは、どこへ」 「決めてない」 「……追放、って、さっき」

少女の目が、雪に縛り付けられた野盗のほうへ、ちらりと動いた。あの応酬を、彼女は最初から最後まで見ていた。聞こえる距離にいた。 「無能判定だ。王都から放り出された」 「無能、って」 「測定不能って書類に書かれた」

ミィは、二度、瞬きをした。それから、焚き火を挟んで真正面から、俺を見た。長い睫毛の影が、頬の打撲の縁で、ほんの少しだけ揺れた。 「お兄さん、野盗五人を、枯れ枝一本で倒しましたよ」 「……ああ」 「測定不能って、そういう意味ですよね」

俺は、一拍、口を閉じた。 この少女は、四日間、雪の中で一人で生き延びた人間だ。算盤の珠は、俺と同じ向きに動いている。 「そういう意味、らしい」 「……すごい」

息と一緒に出た一言だった。賢者ノエルが「測定不能」を「無能」と訳したあの口調と、ミィの「すごい」は、同じ言葉から始まって、まるで違う場所に着地していた。同じ秤に乗せて、片方は塵、片方は宝、と札を貼る。秤を握っているのは、いつだって、その人間の肚の据え方ひとつだ。

夜が更けて、馬が眠った。 俺は左手で羊皮紙を引き出した。火明かりの下で封蝋を確かめる。蜂の巣を半分に割った紋様。北方の小領主の印ではない。観察眼が、記憶の引き出しを順番に開けていく。 「──聖教会だ」

呟いた声が、ミィの耳にも届いた。 「聖、教会?」 「……野盗が持つようなもんじゃない」

封は破らなかった。俺の指紋を残す理由がない。羊皮紙をボロ布の内側に戻し、ミィのほうを見た。 「アルディアまで、俺が一緒に行く」 「……いいんですか」 「四日、一人で死ななかった人間を、もう一晩で死なせるのは寝覚めが悪い」

ミィは、火の向こうで何度か瞬きをした。それから、両手で口元を覆って、俯いた。栗色の髪のあいだから、耳の縁だけが赤くなっているのが、火明かりで見えた。寒さで赤くなるのは頬と鼻先だ。耳の縁ではない。 「……お兄さんの、お名前」 「ハルト。天野ハルト」 「ハルト、さん」

呼んだ。呼び方を一度、口の中で確かめるみたいに、ゆっくり、もう一度呼んだ。 「ハルトさん」

俺は焚き火に左手をかざして、皮膚の下の青い線が、薪の赤と同じ周期で脈打っているのを確かめた。脈は安定している。右腕の感覚も、指先まで戻ってきている。

ミィは膝を抱えて、火の向こうから、俺をじっと見ていた。涙でも怯えでもない目だった。観察眼が、彼女の感情を勝手に分類しようとして、途中で迷う。これは──。

『──対象の生体反応: 信頼/帰属/独占願望』 『──注意: 観察対象の感情は本人の同意なく可視化されています』

俺は窓を、左手で払うように消した。観察眼に勝手なことを言わせない。彼女がいま何を感じているかは、彼女が自分の口で言うまで、俺の側で先回りして名前を付けるべきものじゃない。名前を付けた瞬間に、その感情は本人のものではなくなる。誰かの分類の檻の中に閉じ込められて、逃げ場を失う。

ただ、ミィの口元が、火の向こうで、ほんの少しだけゆるんでいた。 笑顔ではない。決意に近い表情だった。 「ハルトさん」

三度目に呼んだとき、声が、少し低くなっていた。 「アルディアに着いたら、私の商会、正式に再起ち上げます。香辛料以外も、運びます。ハルトさんが、依頼で動くなら──私の商会を、優先で使ってください」 「……交渉か」 「はい。商人の娘ですから」

俺は、思わず、笑った。肋骨の三本目の痛みも、肩の痺れも、冷たい計算機の中で全部処理が終わったあとに、笑いだけが、別の場所からひょっこり上ってきた。久しぶりの感触だった。王都にいた最後の半年、笑った記憶は一度もない。 「考えとく」 「絶対、です」

ミィの目に、火が映っていた。火の奥で、誰にも譲らない、という温度の灯が、小さく一本、立っていた。

夜半、見張りを交代した。

ミィを毛布にくるんで馬車の荷台に押し込み、俺は焚き火の脇で左手の枝を握り直した。右腕の感覚は、八割方戻っている。残り二割は、明日には。

風が、北東から南西へ向きを変えた。雪雲の切れ目から、月が一度だけ顔を出した。蒼白い光が、雪原の起伏を、骨の浮いた獣の背のように浮かび上がらせる。 そのとき、観察眼が、街道の遠く北方──三里、四里向こう──に、奇妙な反応を捉えた。

『──未知の生体反応、八体』 『──分類: 不明』 『──備考: 個体間で同期した心拍。群れ単位で一つの意思を共有』

群れ。八体。同期した心拍。 雪原の獣はそんな心拍をしない。 俺は、ボロ布の内側の羊皮紙に、左手で触れた。封蝋の蜂の巣の紋様が、指先で熱を持っている気がした。 「……アルディアまで、二日か」

独白が、霧になった。焚き火の向こうで、ミィの寝息が、規則正しく上下していた。

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