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測定不能の追放勇者

第2話 第2話

第2話

第2話

枯れ枝の樹皮が、掌の生命線にざらりと食い込んだ。

握り直した瞬間、指の腹に小さな棘が刺さる。痛みより先に、棘の入り方の鋭さで、この枝が枯れて何日経っているかがわかった。三日、四日。芯まで乾いてはいない。折れにくい、という意味だ。

俺は雪の上を駆け出した。安物サンダルの底が雪を噛む音が、自分の足音とは思えないほど早い。さっきまで肋骨の三本目に残っていた靴の縫い目の痛みは、もう完全に消えている。代わりに、太腿の前側の筋が、誰か別の人間のスケジュールで伸び縮みしている感覚があった。

『──戦意検出』 『──《全成長加速》、運動系に予備展開』

視界の端で、ステータス窓が短く明滅した。説明書を読む暇はない。経験が必要、と書いてあったのは数分前だ。今から拾いに行く。

雪原の右手、白樺の疎林の奥から、二度目の悲鳴。一度目より低く、喉の奥で潰された声。少女の声だ。声帯がまだ細い。年は十五前後、せいぜい十六。 「……商隊か」 独白は風に流された。街道のこの区間で女が一人で叫ぶ理由は限られている。野盗。縄張りは三つ。今のは一番手前のやつだ。

林に飛び込むと、視界の奥で馬の影が二つ揺れていた。荷馬車の車輪が片側だけ雪に沈み、男の声が四つ、低く笑っている。 「逃げ場ないってんだろ、嬢ちゃん」 「兄貴、こいつ、案外いい顔だ」

俺は枝を腰だめに構え、足音を殺した。観察眼が勝手に景色を細切れに分解する。男五人。革鎧、片手剣三、棍棒一、短弓一。距離十二歩。少女は荷馬車の車輪に背中を押し付け、口の端から血を一筋流している。

これくらいで、よかった。

木立から一歩出た瞬間、短弓を構えていた男が振り向いた。反応は早い。経験のある盗賊だ。指が弦に掛かり、引き絞る動作に淀みがない。

矢が飛んだ。 俺は半歩、雪を蹴って横に出た。

矢は左肩の上、髪の毛一本分の上を抜けていった。風切り音が遅れて耳に届く。風切り音より先に、矢羽の白色が網膜に焼き付いた。早すぎる。網膜の処理速度が、矢の物理速度を上回っている。

『──《観察眼》連動上昇』 『──動体視力Lv.4獲得』

枝を握る指が、ひとりでに動いた。

——いや、違う。指は俺の意思で動いている。動かす速度のほうが、俺の感覚を置き去りにしているだけだ。

「あ?」

弓兵が次の矢を番えるより先に、俺は六歩を踏んでいた。一歩目で雪が爆ぜ、二歩目で鎧の革の匂いが嗅覚に届き、三歩目で男の咽喉仏の上下動が見えた。喉に向けて枝を振り抜く。打撃ではなく、切る動きで。

枝の先端が皮膚を裂いた。樹皮の筋目に沿って、男の咽喉が浅く裂ける。血は飛ばない。代わりに、男の声が止まり、白目の内側が一瞬で曇った。気道が裂けたのではなく、頸動脈の表層を一枚剥がしただけだ。意識を奪う最小の傷。

『──剣術Lv.1獲得』 『──Lv.2』 『──Lv.3』

頭の中で、誰かが鋸の歯を順番に研いでいる。歯が一枚増えるたびに、世界の輪郭が一段クリアになる。距離感が更新される。残りは四人。 「て、てめぇ──!」 棍棒の男が叫んだ。叫びながら、踏み込みの足が左に流れている。重心が乗らない踏み込み。観察眼が「未熟」と勝手にラベルを貼る。男の顎に枝を下から擦り上げる。下歯と上歯の間に枝の節が挟まり、男の舌が一瞬で押し出された。あとは声にならない。

『──Lv.5』

剣の二人が左右から同時に来た。型はそろっている。連携の訓練を受けた野盗だ。右の刃が頸を、左が脇腹を狙っている。 俺は枝を持ち替え、回転した。

——ここから先の動きを、俺は後で何度も思い返した。けれど思い返すたびに、その瞬間の自分の身体の中で何が起きたのかは、毎回少しずつ違う輪郭で蘇る。

枝の先が、空気の中に薄い円を切った。 円の半径は、ちょうど俺の腕の長さ。

円の内側で、舞い上がっていた雪の粒が一斉に逆流した。俺の振り抜きが起こした風が、男たちの呼気を押し戻したのだ。四人分の白い息が、空中で同時に途切れる。喉の奥で、まだ吐ききっていない呼気が、行き場をなくして渦を巻く音までが、俺には聞こえた。

円の上を、四つの軌跡が交差した。右の剣士の手首。左の剣士の膝裏。少し下がって構え直した最後の一人——おそらく頭目——の鎖骨。そして、最初に倒した弓兵の額。とどめを刺したつもりはなかった。けれど枝の末端が、たまたま、計ったように、それぞれの致命に近い柔らかい場所を通った。

雪の上に、四つの身体が、ほぼ同時に倒れた。

音はなかった。

正確には、音があったはずなのに、俺の聴覚はその音を一拍遅れて拾った。鎧が雪に沈む音、棍棒が転がる音、男の喉から漏れる短い呼気——すべてが、俺の振り抜きの動作が完全に終わったあとで、順番に耳に届いた。

枝を見た。 先端が、白く、毛羽立っていた。 握っていた部分が、黒く焦げたように炭化していた。 枝はまだ折れていない。けれど、次に振れば一回で粉になる。それくらいの限界まで、俺はこの一本の枯れ枝を使い切った。節と節のあいだには、細かい亀裂が網目状に走っている。亀裂の底で、樹皮の繊維が一本ずつ、まだかろうじて互いを掴み合っていた。指を一つでも余分に握れば、その繊維は順番に切れていく。 「……お、おにいさん……?」 背後で、少女の細い声がした。 俺は振り返る——つもりだった。

その瞬間、右肩から指先まで、誰かに焼けた鉄棒を縦に差し込まれたような熱が走った。 「……っ」 膝が落ちた。雪の冷たさが、左膝の皿の真下にまっすぐ突き上げてくる。枝が手から滑り、雪に半分埋まる。右腕は痺れているのではない。感覚そのものが、肩から先だけ、別の生き物の腕になっていた。指が動かない。動かそうとした命令が、どこかで途中で消えていく。肩の関節の中で、誰かがゆっくりと氷の塊を砕いている音がした。骨が鳴っているのではない。骨と肉の継ぎ目で、新しい何かが組み直されている音だ。汗が一筋、こめかみから顎までまっすぐに線を引いて落ち、雪に触れる前に湯気になって消えた。

『──筋繊維、再構築中』 『──成長加速の反動: 神経伝達一時遮断』 『──推定回復: 三分以内』

頭の中で、冷たい計算機がきちんと動く。データを並べる。野盗五人を一本の枝で制圧した代償は、右腕の三分間。コストとしては、悪くない。三分。脈拍にして百八十回。その間に新手が現れたら、俺は左手の枝一本で凌ぐしかない。算盤の珠が頭の奥でぱちりと一つ動いて、止まった。

ただ、悪くない、という結論を出した瞬間に、俺は自分の頬の片側がゆるんでいるのに気付いた。笑っている。雪の上に右膝をついて、痺れた右腕をだらりと垂らしたまま、口の端だけが、ひどく満足そうに上がっていた。

——リナが、見たら、どんな顔をするだろう。 ふと、そう思った。 思った自分が、面倒くさかった。 「……無事か」 声を出す。少しかすれた。

少女が、雪の上を四つん這いで近づいてきた。栗色の髪が一筋、額に張り付いている。頬の打撲、口の端の血。けれど目は、生きている人間の目だった。目尻の睫毛が一本、頬骨の上で凍りかけている。寒さで凍ったのではない。涙が、流れ出る前に途中で止まって、そのまま固まったのだ。 「し、神様、みたい……」 震える両手が、俺の左腕——動くほうの腕に、しがみついた。力は、思ったより強かった。商人の娘の握力じゃない。馬の手綱を毎日握る人間の指の力だ。指の腹には、固い豆がいくつも並んでいた。手綱だけでは作れない位置の豆だ。荷を縛る麻縄を、毎晩、結び直し続ける指の豆。商隊の中で、彼女は積み下ろしまで任されていた側の人間らしい。 「神様じゃない」 俺は、雪に半分埋もれた枯れ枝を、左手で掴み直そうとして、やめた。 「ただの、追放された無能だよ」

少女は、何度か瞬きをした。それから、大きな目から、ぽろりと涙が一粒落ちた。涙は俺の左手の甲に落ち、皮膚の下の青い線の上で、一瞬だけ止まった。線が、その滴を、ゆっくり、ひとつ呑み込んだ気がした。

東の空で、雪雲が割れ、低い太陽が雪原を一度だけ赤く撫でた。 頭目の懐から、丸めた羊皮紙の端が一枚、雪の上に転がり出ていた。封蝋の色が、街道筋の野盗が使うには上等すぎる。 右腕の感覚が、まだ戻らない。

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