第1話
第1話
――背中を蹴飛ばされた瞬間、革靴の縫い目が肋骨の三本目に食い込んだ。
肺の底から空気が抉り出される音を、自分の耳のすぐ内側で聞いた。視界が黄色く明滅し、次の瞬間には白に飲み込まれた。
雪の街道に俺は前のめりに突っ伏した。口の中に鉄の味が広がる。舌の先で確かめれば、奥歯の根元が一本欠けていた。頬骨の右側がじんと痺れ、雪の細かい粒が鼻孔に入り込んで、息をするたびに痛みと冷たさが交互に押し寄せる。 「死ね、ハルト」 背後で誰かが吐き捨てる。剣聖ガイル。剣を抜いて見送るような律儀さは、もう持ち合わせていないらしい。鞘鳴りひとつ立てない。代わりに、彼の革靴は雪を二度、苛立たしげに踏み締めた。 「測定値ゼロの足手まといを連れて、魔王と戦えるか」 笑い声が三つ。賢者ノエル、僧侶マリア、剣聖ガイル。最後に、短い沈黙。 聖女リナだった。 彼女の沈黙は、他の三人の笑い声よりも重く、雪の底に沈むみたいに、俺の肋骨の隙間に降り積もった。
俺の幼馴染。ステータス測定の水晶玉が「測定不能」を表示したあの瞬間、彼女は俺ではなく床のタイルを見ていた。十二歳のときに庭で蛍を捕まえた手のまま、咳ばらい一つでこっちを切り捨てた。 重い門扉の閉じる音。鉄の蝶番が軋み、最後にがちんと錠が落ちる音まで、雪の上に倒れたままの俺の身体は律儀に数えていた。一回、二回、三回——閂が落ちる金属音は、王都の城壁の厚みをそのまま俺の背骨に伝えてきた。これでもう、自分の意思で戻る扉はない。 あとに残ったのは、雪と、支給品のボロ布一枚と、革袋に残された銅貨ゼロ枚。 俺は地面に手をついて、ゆっくり立ち上がった。
風が左頬を削る。気温は氷点下二、三度。安物サンダルの底が雪の結晶を踏み砕く音だけが、白い世界に響く。息は鼻から吸い、口で吐く。肺の奥に冷気の刃が刺さるたびに、肋骨の三本目が記憶のように疼いた。爪先の感覚は、すでに半分ない。 「……やってくれたな」 独白は霧になって消えた。怒りは湧かない。代わりに、奥歯の欠けた場所を舌でなぞるたびに、冷たい計算機が頭の中で起動するのを感じる。 何が起きたのか、誰が何を選択したのか、選択の動機は何か。順番に並べていけば、感情は薄い水のようにどこかへ流れていく。
俺、天野ハルト、十七歳。日本の私立高校から召喚された六人の勇者候補のうちの一人。三日前まで王城の客間に泊まっていた。シーツは絹、夕食には林檎の砂糖煮、リナと並んで歩く廊下の窓は薔薇模様。 それが、今朝の測定一回で全部消えた。
水晶玉に手をかざせ、と神官は言った。かざした。 水晶の表面は奇妙にぬるく、手のひらに吸い付くような感触があった。指の腹を伝って、何かが体側ではなく俺の側へ流れ込んでくる気配。あの瞬間、皮膚の下を細い水銀が走り抜けるみたいな感覚があったことを、雪の中で歩きながらようやく言語化できる。普通なら逆だ。測定とは、こちらから差し出す行為のはずだ。
表示された数値は、なし。 正確には『測定不能(ERR_OVERFLOW)』。神官は小さく舌打ちして「無能」と書類に走り書きし、宰相は俺を見ずに署名した。賢者ノエルが横から覗き込み、得意げに笑った。 「測定不能、なんて表示初めて見たわ。要するに、システムが計算するに値しないって判定よ」 当時の俺は反論しなかった。彼女は王立学院の魔導論文で頭角を現した秀才で、説明には筋が通っていた。聞いた誰もが頷ける程度には。
——ただ、一点だけ、引っ掛かっていた。
俺は歩きながら、自分の手を見た。 凍えた手の甲に、青い線が走っている。冷たさで浮き出た静脈ではない。明らかに発光している。指の関節を曲げると、線は皮膚の下を這うように形を変えた。触れてみても熱はない。むしろ皮膚の表面はいつもより冷たく、その下だけが、夏の夜の蛍の光に似た青で、ゆっくりと脈打っている。脈拍と同じ周期だ。心臓が一度打つたびに、線の先端が指先に向かってわずかに伸びる。注意深く観察しなければ気付かない、けれど一度気付けば二度と見逃せない種類の発光だった。
測定の途中、水晶玉から青い光が一瞬だけ俺の手に流れ込んだ。あの瞬間、神官は誰よりも先に水晶を覆い隠した。布の動きは早すぎた。あれは「壊した」あとの後始末ではなく、「気付かれる前」の隠蔽だ。指先まで訓練された手付きだった。日常的に隠してきた者の手だ。 偶然、水晶玉が壊れた。誰もがそう処理して、俺の追放を宰相印で確定させた。 だが俺は覚えている。光は壊れたんじゃない。流れ込んできたんだ。 「……気のせい、で済ませたい連中は多そうだ」 独白がまた霧になる。
街道は王都を北東に外れて辺境へ続いている。村まで歩けば二日。野盗の縄張りが三つ。装備、ボロ布。 リナの指先を思い出す。蛍を逃がした夏、笑って俺の小指に触れたあの指先が、今朝はずっと自分の胸元の十字を握っていた。神に祈っていたんじゃない。神を見ていなかった。 俺を見ないために、神を演じていただけだ。 気付いてしまえば、腹立たしいよりも先に、肋骨の裏側がしんと冷える。十二歳の庭の光が、彼女の中で何年前に消えていたのかは、もうわからない。少なくとも、今朝のあの咳ばらいよりはずっと前だ。蛍を逃がした夜の翌朝、彼女が一度だけ俺の方を見ずに笑った瞬間まで遡れる気もする。記憶は、思い返すたびに少しずつ別の輪郭を見せてくる。
「……ふざけんなよ、ほんとに」 怒りは、きちんと言語化すれば一旦冷える。冷えたあとに残るのは計算だ。 歩を止めた。 そのとき、風がやんだ。
雪原全体が、誰かに息を止めるよう命じられたみたいに、ぴたりと静止した。降っていた粉雪が空中で一瞬だけ留まる。耳の奥で、遠い鈴のような音が鳴った気がした。世界そのものが、俺一人のために頁を一枚めくるような、奇妙な緊張だった。
雪原のど真ん中、視界の端に、半透明の窓が浮かんだ。 ゲームのUIに似ている。それが何かを認識するより先に、文字列が流れた。
『──隠匿スキル《全成長加速》解放条件達成』 『──条件: 神域システムからの社会的切断、および本人の戦意維持』 『──措置: ステータス可視化機構を当該個体に恒久解除』 『──注意: 本機構は神域システムの監査対象外領域にあります』
息を吐いた。霧は風に流れた。 「……なるほどな」 口の端が勝手にゆるんだ。怒りでも歓喜でもなく、ただの納得。賢者ノエルの台詞は半分当たっていた。『システムが計算するに値しない』——そのとおり。 ただし、低すぎて、ではない。 高すぎて、計算機の桁が足りなかった、ということらしい。
『──現在ステータス簡易表示』 『天野ハルト Lv.1』 『HP: ──/── (表示上限を超過)』 『MP: ──/── (表示上限を超過)』 『スキル: 《全成長加速》《観察眼:Lv.3》《物理耐性:Lv.2》』
スキル欄を凝視する。 《全成長加速》——おそらくは、運用次第で他のスキルが規格外の速度で育つ、という意味だ。 《観察眼》——他人の機微や戦況を読み取る、地味だが厄介な感知系。リナが胸の十字を握り直した瞬間も、ノエルの瞳孔が水晶を見て一瞬広がったあの動きも、俺がやけに鮮明に覚えていた理由は、これか。 《物理耐性》——なぜ最初から二段階上にあるのかは知らないが、ありがたい。革靴の縫い目で抉られた肋骨が、もう痛まない理由はそれか。
追放のあいだ、痛覚を最小限に抑え、雪の中で意識を保たせてくれた何かは、最初から俺の側に立っていた。あの場の誰一人、それに気付かなかっただけだ。
俺はゆっくり拳を握った。 握っただけで、青い線が皮膚の下で脈打った。指の関節がきしみ、そのきしみがすぐに消えていく。育っている。たった今、握る動作だけで、なにかが伸びている。骨の内側で、誰かが小さな鋸の歯を一枚ずつ研いでいるような、不快ではない違和感。痛みと呼ぶには甘く、快感と呼ぶには鋭い。 「……こいつは、ひでぇな」 独白は、笑いを含んでいた。 追放された俺の手の中で、王城が捨てたものが、たった今起動した。
俺は雪の街道を見渡した。北東、辺境の方角。風はまだ冷たい。 野盗の縄張りが三つ。村まで二日。装備はボロ布一枚。 ステータス窓の右下に、小さく追加項目が灯った。
『推奨初期目標: 自衛能力の確立』 『近接戦闘経験を一件以上積むと、《全成長加速》が剣術系統に展開可能』
「経験、ね」 舌で奥歯の欠けた場所をなぞる。鉄の味は、もうしない。 膝を伸ばし、靴底に固まった雪を蹴り落とす。代わりに、俺の中で、ゆっくり別のものが起動した。 復讐——とは、まだ呼ばない。 ただ、リナが俺ではなくタイルを見たあの一瞬を、もう一度だけ、向き合わせるために。 追放された無能の足で、最初の一歩を雪に刻んだ。 その先で、女の悲鳴が、北東の風に乗って届いた。 鋭く、短く、途中で押し殺されたような叫び。距離は遠くない。せいぜい数百歩。 俺は道端の枯れ枝を一本、拾い直した。