第3話
第3話
林檎の表面の水気が、掌でゆっくり乾いていく。
赤い髪の女は、こちらに歩いてくる気配を見せたまま、五歩手前で足を止めた。腰の長剣の革鞘が、太股の革ズボンに当たって乾いた音を立てる。間近で見ると、その人物の身長は俺よりわずかに高かった。革のジャケットの下に、薄い金属板を縫い込んだ胴当てが見えた。観察者の眼が、レベル欄の空白を埋めようとして、何度かログを書き直し、結局「鑑定不能」とだけ刻んで諦めた。
「面貸せ、って言ったが」
女は、林檎の代わりに少女の方へ顎をしゃくった。
「先に、その子を家まで送れ。話はそれからだ」
少女──さっきから俺の制服の裾を握ったままの少女が、はじかれたように顔を上げた。
「リアナ、さん」
「知ってるのか」
「市場の、警備の人」
少女の声は、まだ少し震えていた。それでも、首を回して女の顔を確かめると、握っていた俺の裾を、ゆっくり離した。指の力が抜けると、制服の布の皺が、一拍遅れて元に戻った。少女は籠を抱え直す。割れていない林檎一個と、割れたまま戻された一個。残りは、俺のブレザーのポケットの中で、果汁が下着の腰回りに滲み始めていた。
「家、近いのか」
「三本、向こう。井戸のある通り」
「行こう」
俺は、ほとんど考えずに踏み出した。レベル6の男を退けたばかりの足が、林檎を拾うのと同じ歩幅で動いた。背後で、リアナと呼ばれた女が、短く鼻で笑う気配がした。馬鹿にしたのではない。何か、もっと品定めに近い笑い方だった。観察者の眼が、彼女の瞳孔の動きを記録していく。視線の軌跡は、俺の足元と、俺の制服の袖と、俺の背中側に揺れる少女の歩幅を、順番になぞっていた。
(……値踏みされてるな、明確に。)
それで構わなかった。今この場で値踏みできる相手が、少なくとも敵意を持っていない、ということが分かれば、観察者の眼は仕事をしてくれている。
少女──ミィナ、と歩きながら名乗った──の家は、本当にすぐだった。
井戸のある通りに出ると、空気の匂いが変わった。香辛料ではなく、薪の煙と湯気の匂い。誰かの家から、麦を煮る匂いが漂っている。ミィナは、井戸から二軒目の、漆喰の壁に蔦がへばりついた小さな家の前で、足を止めた。
「ここ」
家の中から、女の声が漏れていた。咳き込みながら、子供の名前を呼んでいる。母親、らしい。ミィナは、ポケットから小さな布袋を取り出して、籠の縁に乗せ直した。中で硬貨らしきものが触れ合う音が、控えめに鳴った。
「お母さん、病気で」
「そうか」
「林檎、今日の、薬の代わりなの。──助けてもらわなかったら」
ミィナの琥珀色の目が、俺の顔の高さで止まった。涙ぐむわけでも、笑うわけでもない、ただ、初めて見たものを記憶に焼き付けるような目だった。観察者の眼が、勝手にタグを書き換える。【敵対意図:なし】の隣に、書きかけの行がちらついた。【信頼度:──】。表示は、すぐに消えた。MPの数字が、また1だけ削られていた。
「家、中で待っててもらえる?」
ミィナがそう言ったのは、俺ではなく、後ろのリアナにだった。
「いや、ここでいい」
リアナは、家の壁に背中を預けて、長剣を腰から外して、抱えるように胸の前で持ち替えた。
「変な剣士見せても、母親の回復には逆効果だ」
ミィナは、一度だけ頷いて、ドアを押し開けた。蝶番の軋む音と、中から漏れた湯気の白さが、朝の路地に短く溶けた。ドアが閉まる。子供と母親の声が、漆喰の壁越しに、くぐもって続いた。
俺は、リアナの隣の壁にもたれた。革靴の踵が、漆喰の表面で軽く滑る。ポケットの林檎を、一度だけ握り直した。
「で」
リアナが、口を開いた。
「お前、何者だ」
(来たな。)
観察者の眼が、彼女の声色のログを取った。詰問の温度ではない。けれど、雑談の温度でもない。ちょうど、刃物を研ぐ前に、刃の角度を確かめるような、平らで重い声だった。
「……佐久間透」
「サクマ・トオル」
「異界人だ。──たぶん」
「だろうな。その服、この大陸のどの仕立屋でも見たことがない。それと」
リアナは、林檎で俺の足元の石畳を指した。
「二人がかりの剣と棍棒を、一歩も動かずに砕いた。──お前が攻撃したのか?」
「いや」
「だろうな」
リアナの口角が、半分だけ上がった。
「攻撃なら、刃が砕ける前に、相手の体が砕けてる。お前のは、違う。境界が立った」
「……分かるのか」
「赤い線を見た」
リアナは、自分の片目を、林檎の先で軽く差した。
「私の眼にも、少しだけ写真が映る。お前ほどじゃないが」
(同類、ってわけじゃないが。観察者の眼の、親戚みたいな何かを持ってる、ってことか。)
頭の隅で整理する。観察者の眼は、こちらの絶対守護のリングを描き加えてくれている。リアナが「赤い線」と呼んだのは、別の見え方をする同種の現象なのだろう。鑑定不能のレベル欄が、それで腑に落ちた。
「異界人で、攻撃手段なし、防御特化。レベルは──」
リアナが、こちらの全身を一度だけ視線で撫でた。
「1か、2だな」
「1だ」
「正直で結構」
リアナは、林檎の皮を親指の爪で削り始めた。果汁が、彼女の指の節を伝って、革ジャケットの袖に落ちる前に、舌で受け止められた。
「──それで」
赤い髪の毛先が、彼女の肩で揺れた。
「お前、これからどうするんだ。所持金、たぶんゼロ。身分証もない。今の街路では、明日の宿も飯も保証できない。違うか」
「違わない」
「自分の能力の名前を、街の人間に知られたら、面倒なことになる。違うか」
「……それも、違わない」
「だろうな」
リアナは、林檎を一口齧った。果肉の音が、思いのほか大きく路地に響いた。咀嚼しながら、彼女は俺の顔を、初めて正面から見た。瞳の色は、髪より少し暗い、酸化した銅の色だった。
「冒険者ギルドに来い」
「は」
「登録すれば、身分証になる。寝る場所と、最低限の飯にもありつける。お前の能力を変な目で見ない場所も、あの組合くらいだ」
「……でも、俺は」
「攻撃手段がない、だろ?」
リアナは、林檎の芯を、路地の隅へ放った。芯が、漆喰の壁の角に当たって、跳ねて、地面の溝に落ちた。彼女の腕が、こちらに伸びてきた。
林檎の汁で湿った手が、俺の左の二の腕を掴んだ。
「私が組んでやる」
「は?」
「専属パートナー指名で、私の名前で登録する。お前が攻撃手段なしで単独ランクアップできなくても、私が組めば、隊として動ける。──盾、足りてないんだ。うちの隊」
掴まれた腕の握力は、思ったより強かった。観察者の眼が、彼女の腕の筋肉量を一瞬で測る。MPは18から動かない。敵対意図ではない、ということだ。むしろ逆方向の力。雇用と呼ぶには性急で、勧誘と呼ぶにはほとんど拉致に近い、その中間のどこかにある力だった。
「待ってくれ。俺はまだ、この街の名前すら」
「歩きながら教える」
「……今すぐか」
「今すぐじゃないと、お前は今夜、どこかの軒下で凍えるか、また三人組に絡まれる。後者なら、今度はうちの隊員が間に合うとは限らない」
リアナの腕は、引かなかった。引きはしないが、押すような力でもなかった。彼女は、俺の腕を掴んだまま、ただ視線だけで、こちらの判断を待っていた。
ドアが、軋んで開いた。
ミィナが、顔を半分だけ覗かせた。
「あの、……お母さん、お礼を、って」
「悪いな、ミィナ」
リアナが、先に答えた。
「こいつ、これからギルドだ。礼は、また今度貰いに来る」
ミィナの目が、俺とリアナの腕を、順番に見比べた。それから、少しだけ眉を寄せて、頷いた。
「お名前、また教えてもらえますか」
「佐久間透」
「トオル、さん」
ミィナの口の中で、俺の名前が、初めてこの世界の発音で響いた。サの音が、少しだけ柔らかかった。
「林檎、また売りに行くから」
俺は、頷いた。それしかできなかった。
リアナが、俺の腕を引いた。
井戸のある通りを抜けると、街の中心の方角から、低い鐘の音が一つ鳴った。
正午でも、開門でもない、何かの合図の鐘だった。鐘の余韻に乗って、人波の密度が一段、濃くなった。麻袋を担いだ獣人、両腕に巻物を抱えた長身のエルフ、肩に手乗りサイズの飛竜を乗せた少年。観察者の眼が、視界に入った全員のレベルを勝手にタグ付けして、視界の縁が文字の列でちらついた。意識を絞ると、タグは半透明に薄れて、奥に下がる。
「ギルドは、あの広場の反対側だ」
リアナが、林檎で道の先を示した。広場の中央には石造りの噴水があって、水面に朝日が割れていた。噴水の向こう側、一際大きな三階建ての正面に、剣と盾が交差した紋章が掲げられていた。観察者の眼のログが、初めて自分から、その建物に焦点を合わせた。
【施設:冒険者ギルド・中央支部】 【内部脅威度:不明・鑑定対象多数】
俺の腕は、まだ掴まれたままだった。
革靴の底が、石畳から、少しだけ硬い、敷き詰められた板石の上に乗り換わった。
(……どうやら、俺の異世界二日目は、この赤い髪と一緒に始まるらしい。)
奥歯を、一度だけ噛んだ。
それから、リアナの歩幅に、自分の歩幅を合わせ始めた。