第3話
第3話
胸甲が落ちた音は、雪に吸われてすぐに消えた。
レオンは肩当ての留め具に指をかけた。革紐の端が氷で硬くなっている。爪を立てて結び目をほどくたび、指先の皮がわずかに割れた。血の珠は出ない。出るほどの体温が、もう指先には残っていなかった。
「早くしろ、無能」
副長が促す。声に苛立ちはなく、酒場の前で順番待ちをしている男のような、軽い舌打ちが混じっていた。吐く息が白く濁って、副長の口髭の縁で霜になりかけている。
レオンは肩当てを外し、雪の上に置く。続いて籠手。続いて脛当て。金具のひとつひとつが、雪に触れた瞬間に小さな水音を立て、すぐに凍りつく。剣帯の留め金は、指がうまく回らずに二度すべった。三度目で外れる。鞘ごと、副長の腕に渡した。鞘の革に染み込んだ、自分の汗と血の匂いが、最後にひとすじだけ鼻をかすめた。
「あと、靴も置いていくか?」
笑い声が、整列の中ほどから上がる。
「やめておけ、靴まで取ったら本気で死ぬぞ」
「死んでも構わんだろう、無能だ」
「そうでした、忘れてました」
くすくす、と粒のような笑い声が散る。隊長は腕を組んで一歩下がっていた。革手袋の指先で顎髭をなぞる仕草が、家畜の数を勘定する商人のそれによく似ていた。第二王子はもう背を向け、視察隊の天幕の方へ歩き出している。背中が、関心を完全に切ったことを示していた。マントの裾に縫い付けられた金糸が、雪明かりを跳ね返して、一度きりの閃きを残す。
レオンは靴を脱がなかった。誰も止めなかった。脱がせて雪山に放るほどの興味も、もうなかったのだ。
外套は置いていけ、と隊長は言った。代わりにと、誰かがボロ布を一枚、地面に放った。古い厨房雑巾を適当に縫い合わせて外套の形にしただけの代物だ。袖口は破け、襟元は油の染みで黒ずんでいる。雪の上に落ちた瞬間、布は軽い音もたてずに、ただ平たく潰れた。
レオンはそれを拾い、肩にかけた。
布越しに、銀片だけは——内側の縫い目から、本物の外套へ移し替える時間がなかった。掌のなかへ握り込み、ボロ布の懐へ落とす。銀片が懐の底に触れた音は、布の繊維にすぐ吸い込まれて、彼の耳にしか届かなかった。それで終わりだった。
「門を開けろ」
隊長の声が響く。鋲打ちの正門が、軋みながら半分だけ押された。蝶番の凍りついた油が、ひび割れるような甲高い音を立てる。
レオンは歩き出した。
雪は脛まで埋まった。一歩進むたびに、布の靴底から冷気が這い上がってくる。膝の裏の腱が、押し上げられる重みに微かに震えた。爪先の感覚は、もう自分のものではなかった。それでも歩幅は乱さなかった。乱せば転ぶ。転べば、塔の上から見ている誰かが、また酒の肴に語るのだろう。
門をくぐる。
門柱に貼られた古い警備札が、風で一度、乾いた音を立ててめくれた。潜り抜けた瞬間、背後で笑い声が爆ぜた。
「やっと一人、雑用が減ったぞ!」
「明日から夜番の当番、書き直しだな!」
「お前が割り振れよ。あいつの分の薪割り、どう分けるんだ?」
「割らねえ。割らずに済む量にすりゃいい。井戸の氷も、うん、まあ、なんとかなる」
「なるなる。あいつ一人で何時間もかかってたんだ、こっちは半刻で終わらせてやる」
笑いはしばらく続いた。レオンの足音が雪に飲まれて遠ざかるあいだ、断続的に、酒のない場での酒の笑いが、門の内側で湧いては消えた。声の輪郭は、雪が降り始めた空気のなかで、輪郭をもたぬ波紋のように広がっては掻き消された。
レオンは振り返らなかった。
振り返らない、というよりは、首が動かなかった。寒さで筋が固まっていた。襟の縁が頬の皮膚にぴったりと貼り付いて、首を回すたび、皮ごと引き剥がされそうな鈍い痛みが走る。それでも歩いた。一歩、二歩。雪原はうっすらと下り坂になっていて、駐屯地から街道までは半里ほどある。街道に出るころには、後ろの笑い声はもう聞こえないだろう。聞こえなくなるまで、歩けばいい。
雪片が、頬に触れて溶けた。一粒だけ、その水滴が顎を伝って、ボロ布の襟元に染みた。襟の油染みが、わずかに溶けた水を吸って、苦い匂いを立てた。獣脂の匂いだった。厨房の鍋底でずっと嗅いできた匂い。煮こごりの灰汁、焦げた骨の脂、誰のためでもない夜の煮炊きの残り香。レオンはふと笑いそうになり、口の端だけが動いた。割れた唇の端が、ほんの少しだけ裂けて、鉄錆びた味が舌先に滲んだ。
——別に構わない。
胸の奥で、昨夜と同じ声がした。
——むしろ、好都合だ。
歩く。歩く。布の下、銀片を握る。指の関節は冷えて軋んだが、銀片の角だけは、変わらず肉に押し当たっていた。掌の中央のいちばん柔らかい肉に、角の一点だけが、まるで小さな約束の杭のように刺さり続けていた。
街道の手前で、ふと、足が止まりかけた。
止めたのは、足ではない。意志だった。背後を振り返ろうとした、ほんの一瞬の意志を、レオンは喉の奥で噛んだ。喉仏が震え、奥歯のあいだに、鉄と雪の混ざった味が広がった。
振り返れば、見えてしまうものがある。塔の上、銀の糸を張ってきた場所。誰にも知られず、骨の奥で鳴らしてきた振動の輪郭。あれを目で追えば、まだ届く距離だった。糸を張り直すこともできる。離れるまでに、もう一度だけ、夜番の儀式を済ますこともできた。指先を一度握り直すだけで、北の斜面の張りを、東の崖の捻りを、南の沢の結びを、ひとつずつ、まだ確かめにいける。
レオンは、噛んだ。
唇ではなく、もっと内側の、舌の奥のあたりを。
噛んで、前を向いた。
——もう、いい。
それは、決意ですらなかった。
ただ、置いていく、というだけの判断だった。手放したというより、ずっと前から手のなかになかった、と認めるだけの動作だった。
塔の上では、銀の糸が、解けていた。
誰の手によるものでもない。レオン自身が解いたのでもなかった。ただ、張る者が遠ざかったために、糸は六年ぶりに、自然に弛んでいったのだった。
北の斜面から張られた一本目が、ふっと、雪の風に紛れて消える。続いて東の崖を回した二本目、南の沢で結ばれた三本目。骨の奥で鳴っていた細い振動の網が、ひと節ずつ、夜空の鳴き止む虫のように、静かに途切れていく。
音はしなかった。
するはずもなかった。糸の存在を知る者は、駐屯地に一人もいなかったのである。
駐屯地中央では、第二王子の天幕に火鉢が運ばれていた。炭の爆ぜる小さな音、煙抜きの隙間から立ちのぼる橙色の光。隊長は副長を呼びつけ、葡萄酒の樽を蔵から出させていた。
「祝いだ。視察を恙無く済ませた、祝いだ」
「は。早速」
「明日からは雑務の割り振りを直せ。あの男の分の夜番は、外周担当を二人増やすので埋めればよかろう」
「外周の担当を、二人」
「夜番手当を一人分浮かせて、二人で頭割りにすればよい。割が良いと言えば、若い連中が喜ぶ」
副長は笑い声混じりに頷いた。樽の口を切る音が、革靴の踵で雪を踏む音と混ざる。栓を抜いた瞬間に立った、甘く重い葡萄の香りが、火鉢の煙とからみ合って天幕の外まで漂った。
「殿下も上機嫌でいらっしゃる。妙な顔ぶれを残しておかなかったのが、よろしゅうございました」
「うむ。あの妹の話さえ出さねば、何の問題もない。出ても、こちらに非はない。鑑定書のとおり処分しただけだ」
二人の声は、駐屯地の壁に挟まれた中庭で、不必要なほどよく響いた。
その響きの外側、北の森の奥では——
一頭の灰色狼が、歩を止めた。
夜のあいだ、いつもなら東へ逸れる獣道を、ふと、まっすぐに踏みかけて、立ち止まった。鼻先を上げる。風の匂いを嗅ぐ。耳の縁が、説明のつかない違和感に、ぴくりと一度だけ跳ねた。骨の奥に「向こう側の方が歩きやすい」という錯覚を、いつも植えてくれていた、あの薄い気配が——ない。
狼は雪を一度、前足で掻いた。それから、もう一歩、駐屯地の方角へ踏み出した。
足跡は、すぐには深くならなかった。踏み出した狼は、まだ自分でも理解していないようだった。ただ、いままでなぜか避けていた方角が、今夜から、避けなくてもよいらしい——その気配だけが、雪原の上を、音もなく広がりはじめていた。森の奥のほうで、別の二つ三つの影が、同じ気配に呼ばれて頭をもたげる、その低い唸りが、聞こえぬ音域でこだましていた。
塔の見張りは交替したばかりで、新任の若い隊員が、寒さで赤くなった鼻先を擦りながら、火鉢の火を強くするための薪を積み上げていた。指がかじかんで、薪の一本が手の甲を打ち、彼は小さく舌打ちをした。それだけで、夜は何事もなく流れていく、と彼は信じていた。
街道に出るころには、雪は本格的に降り始めていた。
レオンの足跡は、半里のあいだに薄く埋もれかけていた。ボロ布の襟が風で持ち上がり、油染みの匂いが鼻先に立つたび、彼は無意識に銀片の角を、もう一度握り直した。掌の中央の同じ点が、もう熱を持ち始めているのか、それとも凍て始めているのか、自分でも判別がつかなかった。
街道は南西へ、緩やかに下っていた。次の宿場まで、徒歩で二日。途中に集落はない。あるのは、雪に埋もれた廃馬車の残骸と、Aランクの氷狼が群れで棲むという噂の松林だけだった。
レオンは知っていた。
知っていて、踏み出した。
冷えきった指先で、ボロ布の襟をかき寄せる。布の下、銀片の角が、肉の同じ場所をまた押した。
——歩けるところまで、歩こう。
雪片が、また一粒、頬で溶けた。
風の向きが、北から、わずかに、変わった。