第2話
第2話
雪原の地平から、八十騎の鈴の音が砦に届いた。
整列の鐘が打たれる。レオンは見張り塔を駆け降り、最後尾の端へ滑り込む。並ぶ背は四十七。自分の靴底だけが、まだ氷を踏み砕く音を立てていた。指先の感覚はとうにない。雪に照り返された朝の光は、白というより青に近かった。
七日のあいだ、駐屯地は珍しく静かだった。誰も雑用をレオンに命じなかった。命じる必要がなかった、と言うべきかもしれない。視察前に処分する。その一言で隊長の決意は固まり、副長は給金袋を奥にしまい、若い隊員たちは互いに目配せを交わすだけで意味が通じる顔をしていた。レオンは黙って薪を割り、夜番に上り、銀の糸を張った。何ひとつ変えなかった。変えるべきものを、思いつかなかった。
七日前の夜、レオンは外套の内側だけ、ひとつ縫い直した。銀片が落ちないように、糸目を二重に。掌のなかで、銀片の角が、いまも肉に押し当たっている。
門扉が押し開かれ、深紅の外套が雪を踏んだ。
第二王子オーランド、歳は二十六。銀糸の縫い取りが胸甲の縁に走り、髪は灰がかった金、頬の骨は薄く削いだように尖っている。馬を降りる動作に無駄はなかった。隊長が片膝を雪に突き、震える両手で隊員名簿を差し出す。
「殿下、北部辺境警備第七駐屯地、隊員四十八名、整列、滞りなく」
「鑑定書を」
声は、低くも高くもない。雪の上に置かれた刃物のように、ただ平らだった。
オーランドは巻物を受け取り、手袋越しにめくる。紙の擦れる音が、整列した隊員たちの呼吸の合間に、やけにはっきり響いた。
レオンは目を伏せていた。視線は雪に向け、外套の内側、銀片を握る指の関節だけに意識を集める。鼻先で凍る息が、まつ毛に触れて溶け、また凍る。
オーランドの足音が、近づいてくる。
革底の靴が雪を圧し、軋む音をひとつずつ刻む。隊員の前で立ち止まり、ページをめくり、また進む。立ち止まる。めくる。進む。その規則正しさは、屠殺場で家畜を選り分ける手つきに似ていた。
「火炎、第三階梯。良い」
「治癒、第二階梯。鍛錬を続けよ」
「土壁、第二階梯。良し」
「氷槍、第三階梯。北部向きだ。励め」
短い言葉が、頭の上を通過していく。隊長の頬は、ふいごのように膨らんでは凹んだ。誉められれば自分の手柄、貶されれば自分の責任、というふうに見える顔つきだった。
四十七人目までの判定が終わる。残るは一人。隊長の片膝はずっと雪についたままだった。膝当ての革が、雪の中で冷気を吸って黒く湿っている。それでも隊長は動かなかった。ここまでの判定がすべて穏やかに通過したことに、安堵と、わずかな苛立ちが入り混じった顔をしていた。
オーランドはレオンの前で足を止めた。
雪を踏む音が止む。視線が、頭頂部に降りてくる。
ページをめくる音。一拍。
「補助」
呟きは、独り言ですらなかった。事実を読み上げただけの、抑揚のない声。
「他には」
「……それのみにございます、殿下」
隊長は顔を上げる前から、もう答えていた。声に、わずかに弾むものが混じっている。
オーランドは鑑定書を二度、軽く打った。革手袋が、紙の上で乾いた音を立てる。
「補助、しか」
「は」
「攻撃なし。回復なし。剣は」
「並み以下にて」
「ふむ」
第二王子は雪のなかで一度息を吐き、顔を上げた。視線がレオンの頭頂部から胸までを撫でる。撫でる、というより、値踏みする手つきだった。物の値打ちが、自分の予想を上回ることも下回ることもない、と確認するだけの目だった。
「王国の恥だな」
その一言が、雪原に落ちた。
レオンの背後で、誰かが息を呑んだ。前列の若い隊員のひとりが、吹き出すような音を立て、慌てて咳に変える。隊長は片膝を立てたまま、何度も頷いていた。
「まこと、まこと、殿下のお見立てのとおりにございます。我ら一同、こやつの存在を長らく恥として——」
「黙れ」
オーランドは隊長を見もせず言った。隊長の口は、開いた形のまま固まる。
「お前たちが恥としていたのなら、なぜ六年も置いた」
「そ、それは」
「妹がSランクであったから、か」
隊長の額に、玉の汗が湧いていた。雪の冷気のなかで、それだけが熱を持って光る。返答を待たず、オーランドは続けた。
「妹の名で外聞を保ち、補助しか出せぬ男に夜番をさせ、自分たちは床で眠る。北部辺境隊の士気とは、その程度のものか」
「殿下! 滅相もない、我らは——」
「言い訳は要らぬ」
刃物のような声が、隊長の言葉を断ち切る。レオンは、自分の靴先を見つめたまま動かなかった。掌の中、銀片の角が肉に食い込んでいる。
——隊長を擁護する声はひとつも出なかった。当然だ。明日からは、雑用と夜番を、四十七人で割り振らなければならない。誰の口にも、まだ唾液が湧いている時間ではなかった。
第二王子は鑑定書を雪に投げた。
紙が落ちる。風で一度めくれ、レオン・グレイの名が、白い地に黒く晒される。
「即日、隊籍剥奪」
声は、依然として刃物のように平らだった。
「装備一式、没収。給金、清算せず。本日中に駐屯地より退去させよ」
「は——はっ! ありがたき仰せ!」
隊長の声が裏返る。雪に額を押し付けんばかりの勢いだ。隊員たちのあいだに、ちりちりと、抑え損ねた笑いの粒が散った。レオンは、頭の上を通過していく言葉を、夜番の銀の糸で受け止めるように、ただ受け止めた。
「無能」
第二王子が、ようやくレオンに直接、声をかけた。
「異存はあるか」
レオンは顔を上げた。
第二王子の瞳は、青みがかった灰色だった。雪の朝を二枚重ねた色である。そこに敵意はなく、ただ無関心だけが透いていた。憎しみよりも、それは深く沁みた。怒りで切り捨てる男は、いつかその怒りを覚えている。無関心で切り捨てる男は、振り返ることすらない。
「ございません」
短く、はっきりと答えた。
声が震えなかったのは、自分でも意外だった。喉が開いている。指の関節は冷えて軋んでいたが、唇は動いた。
「……承知いたしました、殿下」
レオンは、もう一度繰り返した。
そして、立ち上がった。
身体ごと、ではない。最後尾の隊列の中、彼は最初から立っていた。けれど、いま立ち上がったのは、もうひとつ別のものだった。六年のあいだ、屈めて畳まれていたもの。隊員たちの笑い声の下に押し込み、夜番の銀の糸の張りに紛らせ、自分でも忘れたつもりでいたもの。
それが、雪の朝の光のなかで、ゆっくりと膝を伸ばした。
——別に構わない。むしろ、好都合だ。
胸の奥で、その声は妙にはっきり聞こえた。誰の声でもない、自分の声だった。六年、聞いたことのなかった声。雑用と夜番の隙間で、押し殺してきた声。
レオンは、首から認識票を外した。
革紐ごと、雪の上へ落とす。軽い音。鑑定書の名と並び、白い地に黒く、自分の名が二重に晒された。指先は感覚を失っていたが、手順は身体が覚えている。六年のあいだ、毎晩外しては掛け直してきた、ただの留め具である。
副長が走り寄ってきて、認識票を腕に抱えた。給金袋を持つ手は、もう震えていない。代わりに、口の端が、わずかに上がっている。
「胸甲も。肩当ても。剣も。順番にだ」
副長が囁く。命令というより、楽しみの声だった。
「外套は——置いていけ」
その一言だけ、声が大きかった。隊長の方へ届けるための声だ。隊長は満足げに頷いた。
レオンは自分の胸に手をかけた。胸甲の留め具は四箇所。冷えた金具を、ひとつずつ外していく。手順は知っている。隊員のひとりが、すでに手を伸ばし始めていた。剥ぎ取るためではなく、受け取るために。だがその指の動きは、剥ぎ取る者のそれだった。
風が、塔の方から吹いた。
その風に乗って、骨の奥でかすかな振動が、ひとつ、揺れた。北の斜面から伸び、東の崖を経て、南の沢へと結ばれた、薄い銀の網。レオンが意識を別の場所に向けた瞬間、その糸の張りが——わずかに、たわむ。
切れたわけではない。
ただ、張りを保つ意志を、いま彼は、ほんの少しだけ手放した。
気休めだったはずだ。誰にも頼まれず、誰にも見られず、ただ夜番の合間に張ってきた糸。隊員たちの寝息を守ってきたつもりは、いまさら言える義理ではない。だが、糸はまだそこにあった。掌の体温と同じくらい、そっと。
雪原の彼方、北の森の奥で、何かが立ち止まり、夜のあいだに錯覚させていた獣道の方角を、もう一度、嗅ぎ直した。風はすぐに止んだ。誰もそれに気づかない。第二王子も、隊長も、副長も、整列した四十七人の隊員も。
ただレオンの胸の奥にだけ、糸の音が、半音、低くなったのが響いていた。
胸甲が、雪に落ちる。
雪は、まだ降りやまない。