第1話
第1話
斧が薪に食い込む鈍い音が、雪に埋もれた駐屯地の裏庭に響いた。
レオン・グレイは息を吐く。白い呼気が散る前に、もう次の薪を据える。今朝から百三十二本目。今日の割り当ては二百本。日が落ちる前に終わらせなければ、夕食は抜かれる。
「おい、無能。井戸の氷も砕いとけよ」
すれ違いざまに副長が言い捨てる。返事は要らないと知っている。レオンは斧を振り下ろす。乾いた繊維が裂ける音がひとつ、ふたつ。掌の皮はとうに硬くなり、柄を握る指の関節は、十二月の冷気で軋んでいた。
ヴァスティル王国北東辺境警備第七駐屯地。標高千二百メートル、年の半分が雪に閉ざされる山中の砦だ。所属隊員は四十八名。そのうち、最も多くの雑用を背負っているのが、補助魔法しか持たぬ二十二歳の青年だった。
鑑定スキル【補助】。
たったそれだけ。
攻撃魔法は持たない。回復魔法もない。剣の腕は並み以下。十六で入隊して六年、彼に与えられた仕事は薪割り、井戸の氷砕き、夜番、厨房の油落とし——誰もやりたがらない雑務ばかりである。
それでも駐屯地の被害報告は、六年間ずっとゼロのままだった。
隊員たちはその数字を、自分たちの腕によるものだと信じていた。
「またあいつか」
食堂の隅、レオンが冷えたパンを齧る背後で、若い隊員たちの笑い声が上がる。
「補助しか出せねえくせに、よく飯にありつけるよな」
「隊長が温情で置いてやってんだろ。妹がSランク冒険者だってんで、外聞もあるんだよ」
「妹に養ってもらえばいいのに」
誰かが薄笑いを浮かべて、硬くなったパンの皮を投げる。レオンの足元に転がってきたそれを、彼は拾うことも蹴り返すこともしなかった。靴底の下、雪解けの泥が鈍い音を立てる。
「なあ、補助。お前さあ、自分が何のためにここに居座ってるかわかってんのかよ」
笑い声。返事を期待していない問いだ。返事をすれば、それを肴にまた一杯笑われるだけのことだった。
レオンはパンの最後の一片を口に押し込み、立ち上がる。窓の外、雪は降り続いている。
妹のリリア。十六で家を出て、王都へ向かった。今はSランク冒険者として名を馳せていると、半年前の手紙にあった。会えていない。会いたい、とも、表向きには思わない。
ただ、夜番の合間にだけ、外套の内側に縫い込んだ小さな銀片を握ることがある。リリアが家を出る朝、兄に押し付けていった護符の欠片だった。
「お兄様も、いつか必ず」
そう言って笑った妹の顔は、もう霞がかっている。
夜番の刻限が来た。
レオンは外套を羽織り、駐屯地最北端の見張り塔へ向かう。階段は凍っていた。一段ずつ、靴底で氷を砕きながら上る。塔の上、寒風に頬を裂かれながら、彼は両手を広げた。
誰にも見られないこの時間にだけ、彼は自分の魔法を「使う」。
【補助・拡張】
唇が呟く。指先から薄い銀の糸のようなものが伸び、駐屯地の外周を撫でていく。誰の目にも映らない仕事。それでも糸は確かに張られていく。北の森から這い出してきた獣の気配が糸に触れ、別の方向へ逸れていく。今夜は三頭。先週は五頭。雪が深い夜ほど、外周を越えようとする数は増えるのだ。
銀の糸は風の音に紛れて鳴る。耳ではなく、骨の奥で聴こえるような、細く澄んだ振動。レオンはその振動を頼りに、糸の張りを微かに調整する。北の斜面、東の崖、南の沢——獣道の交わる三点を結び、網のたわみを外側へと押し返す。力ずくではない。ただ、向こう側の方が歩きやすいと、獣に錯覚させるだけのことだ。
血を流させるわけではない。誰かを傷つけるわけでもない。ただ、夜のあいだだけ、駐屯地の周囲に薄い膜が張られている。それだけのことだった。
寒風が頬の皮膚を裂き、まつ毛に氷の粒が結ぶ。指先の感覚はとうに失せている。それでもレオンは両手を下ろさなかった。下ろしてしまえば糸は切れる。切れた糸を結び直すには、また半刻を要するのだった。
レオン本人にも、この補助が「結界」として機能しているという自覚はない。彼にとってこれはただの夜番の習慣だった。隊員たちが安らかに眠れるようにと、入隊一年目に思いつきで始めた、些細な気休め。
ただ、それを止めた夜は、まだ一度もない。
明け方、雪原を裂いて早馬の音が近づいた。
鈴と蹄。一頭、二頭、三頭。レオンは塔の上から目を細める。深紅の外套、白銀の鞘——王都の伝令だ。
「総員、整列!」
鐘が鳴る。隊員たちが慌てて武装を整え、駐屯地中央に並ぶ。レオンも端の端、最後尾に滑り込む。
伝令官が馬を降り、隊長の前に巻物を差し出した。
「七日後、第二王子オーランド殿下、北部視察のため当駐屯地に御来訪」
ざわめき。隊長の頬がはっきりと引きつる。歓喜なのか恐怖なのか、レオンには判別がつかない。
「殿下は北部辺境隊の人員見直しを目的とされております。鑑定書の写しを至急、王都へ」
伝令官の声が一段、低くなる。隊長は無言で頷いた。
その夜、レオンは厨房の油落としを命じられた。鍋の底から焦げを削り落としながら、彼は隔壁越しに副長と隊長の声を聞く。
厨房の竈はとうに火が落ち、土間の冷気が足首から這い上がってきていた。獣脂のすえた匂いと焦げの苦さが鼻の奥で混ざり、息を吸うたびに喉の奥がざらつく。隔壁の漆喰には細かな亀裂が走っていて、向こう側の声はその裂け目を伝わるように、妙に近く、妙にはっきりと聞こえた。
「殿下のお目に……あの補助の男は」
「下げる」
隊長の声に迷いはなかった。
「鑑定書に『補助』としか記されておらぬ者が、王国の精鋭隊にいると殿下に知れたら、面目が立たぬ。視察前に処分する」
「処分、と申しますと」
「無論、隊籍剥奪だ。装備は没収、給金もくれてやらん。雪山に放り出せば、勝手に死ぬだろう」
笑い声。短く湿った笑い声が、二つ。
「妹がSランクと聞きますが」
「だから何だ。家督から外された男が王都に転がり込んだとて、Sランクの妹が拾うとは限らん。拾われたところで、こちらに何の関わりがある」
副長がわずかに声を落とす。「……万が一、後から騒ぎ立てられた場合は」
「鑑定書のとおりだと言えばよい。『補助』しか持たぬ者が雪山で行き倒れたところで、誰が不審に思う。むしろ、よくぞ六年も置いてやった、と褒められこそすれな」
ふたたび乾いた笑い。笑いはすぐに止んだが、その湿り気だけが、火の落ちた竈のあたりに澱のように残っているように思えた。鍋の底に深く沈んだ焦げの斑紋を、レオンは指の腹で静かになぞっていた。へらの先が鉄に当たり、軽い音を立てる。
レオンの手の中で、油まみれのへらがぴたりと止まる。
胸の内側で、何かが静かに沈んでいく。怒りでも悲しみでもない。
ただ——納得だった。
ああ、そうか、と思う。六年。割り当てられた雑用と、誰にも気づかれない夜番と、銀片の感触と。それらが急に遠ざかり、ひとつの結末へ収斂していく。
なるほど、自分はずっと、この日のために置かれていたのかもしれない。隊員たちの腕でも温情でもなく、ただ「いつでも切り落とせる尾」として残されていた。視察の影が来れば、真っ先に削ぎ落とされる尾。
不思議と腹は立たなかった。腹を立てるためには、期待していなければならない。期待を捨てるのは、六年もあれば十分だった。
へらを握る指は冷えきっていて、それでいて妙に熱を帯びている気もする。鍋肌に残った油が灯火の影をぬらりと反射し、そこに映った自分の顔は、想像していたよりも穏やかだった。
ただ——妹のことだけが、ほんの少し引っかかった。リリアが「お兄様も、いつか必ず」と言ったあの朝、自分は何にうなずいたのだったろう。何にうなずいたのか、いまはもう思い出せない。けれど、うなずいた指の感触だけは、油の冷たさの底から、奇妙にくっきりと甦ってきていた。
レオンはへらを置き、油の浮いた水で手を洗う。袖口がじっとりと濡れる。爪の間に黒い焦げが残っている。
窓の外、雪はやまない。
七日後の朝、雪原の地平が震えた。
銀の鎧、深紅の旗、馬蹄が雪を蹴り上げる音。第二王子オーランドを擁する視察隊は、八十騎の編成で駐屯地へ近づきつつあった。鈴の連なりが冷えた空気を細く縫い、旗の縁が風にはためくたび、深紅の布地が雪の白さに血のような筋をひいた。
レオンは見張り塔の最上段で、整列の指示を待っていた。指先が冷えている。けれど、不思議と震えてはいない。
外套の内側、銀片を握る。
「お兄様も、いつか必ず」
妹の声が、ふと耳の奥で蘇る。
レオンは小さく笑った。誰にも見られないように、息より小さく。
塔の階段に足をかけた瞬間、駐屯地の外周を撫でていた銀の糸が——彼の意識の外で、わずかに、揺らいだ。