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鑑定不能の補佐役

第1話 第1話

第1話

第1話

酒場の天井から吊られた銅鑼が、また一つ、勇者ガレンの名を打ち鳴らした。 「『黎明の剣』に乾杯!」 木のジョッキが鈍くぶつかり合う。泡が床に落ちる。迷宮都市カラドの祝勝会は、今夜で三日目に入っていた。 レイはその輪の外で、空樽の蓋を押さえていた。荷運びの仕事だ。剣を背負ったまま、ロープを片手で締め直す。 「おい補佐役、もう一樽だ」 給仕が空樽を寄越した。レイは黙って肩に担ぎ、裏口へ運ぶ。 酒場の壁にかけられた魔導灯が、火属性の光で揺れていた。芯が弱る気配がしたので、指先で触れる。炎が太く伸びた。レイ自身、自分が何をしたのかは考えない。十年、考えないようにしてきた。 迷宮三十二階を踏破した。Sランク指定だった。死人はゼロ。 「ガレン様の采配は神懸かりだ」 「四方から飛び出した骸骨兵を、剣一閃で薙ぎ払ったってよ」 「あの瞬間、北側の三体は氷漬けで止まってたらしいぜ。あれは聖女様の魔法か?」 「ミラ様は西側で回復してただろ」 「じゃ、誰が」 酒場の声はすぐに別の話題に流れていく。流れていい話題だ、と十年前にレイは決めていた。 レイは樽を置き、店の奥を見た。 ガレンが赤毛をかき上げ、女の肩に腕を回している。隣に銀髪の聖女ミラが座り、控えめに微笑んでいた。婚約者の顔だ。──レイの婚約者の、顔だった。 骸骨兵を斬ったのはガレンで間違いない。確かに斬った。 ただ、四方の三体が氷漬けで止まったその一瞬を、ガレンも、ミラも、覚えていない。 レイも、覚えていないことになっている。 たぶん、自分が放った。たぶん、というのは、レイの鑑定書には十年、こう書かれているからだ。 属性、無。ランク、E。役割、補佐。 酒場の入口で扉が開く。冷気が床を這ってくる。雪の匂いが混じっていた。故郷の村は、北だった。十二で家を出てから、一度も帰っていない。レイはその匂いだけ、妙に懐かしいと思った。

「補佐役、こっちにも樽だ!」 「ああ」 レイは次の空樽を担ぐ。背中に汗が滲んでいる。三日間ろくに眠っていない。十年こうだ。十年、樽を運んできた。 壁際の長椅子に、新人の剣士が一人、酔って沈んでいた。今回の踏破組だ。十六、七といったところか。レイは樽を置き、椅子の脚に当たった彼の足首を、軽く曲げてやった。 「うん……?」 「踏ん張れない姿勢で寝ると、明日歩けない」 「あ、ありがと、補佐役さん」 「水、机に置いておく」 「すんません……」 少年が目を閉じる。レイは水差しを脇に据え、毛布を肩までかけた。少年の額に汗が浮いている。指先で軽く拭ってやると、指先がほんの少し冷たくなった。熱が下がる前兆だ。明日の朝、迎え酒で誤魔化さなければ、この少年は無事に立ち上がれるだろう。 踏破前夜、この少年は罠の上に立っていた。床の魔石の継ぎ目が一つ、ずれていた。レイは「なんとなく」少年の肩を引いた。少年は気づいていない。ガレンも気づいていない。日報には「踏破ルート、罠なし」と書かれた。 それでよかった。それで十年やってきた。 朝になればガレンの剣帯のバックルを磨き、ミラの白衣の裾を繕い、新人の革鎧の縫い目を直す。誰にも知らせない。Eランクの分際で勝手に手を入れた、と怒られたくない。それも全部、十年やってきた。 酒場の中央、ガレンが立ち上がる。ジョッキを高く掲げた。 「俺の剣は、迷宮を切り拓くためにある!」 歓声。床がビールで湿る。 ミラが立ち上がり、ガレンの腕に手を添えた。聖女候補だ。来月、教会本部の正式認定が下りる。──そうしたらレイと結婚する、はずだった。 レイはミラの横顔を見た。 笑っている。だが、目が合わなかった。三日前から、目が合っていない。 三日前。迷宮二十八階の野営地で、レイがミラに「聖魔法の詠唱、半小節遅らせるといい。ガレンが踏み込む拍子と合う」と言った夜だ。ミラは笑って頷いた。次の日から、目を逸らすようになった。 扉の近く、見慣れぬ男が二人、入ってきた。フード。革鎧。冒険者ではない。レイは樽を担ぐ手を止めた。男たちはガレンに目礼し、ミラに目礼し、それから店の隅、レイのほうを見た。 見た、と分かるくらい、はっきり見た。フードの奥で、目が一拍、レイの首の高さで止まった。背丈を測られた、と直感した。値踏みではない。剣の届く距離を、確かめられた。 レイは樽を担ぎ直す。 (おかしい) 胸の奥で、何かが軋む音がした。錆びた歯車が、勝手に動こうとする音だ。十年、聞かないふりをしてきた音だった。 「補佐役!」 ガレンの声が酒場に響いた。 上機嫌の声だ。声の高さが、いつもよりひとつ高い。

「補佐役! こっちに来い!」 レイは樽を下ろし、酒場の中央に進む。木屑が革靴の底でこすれる。視線が集まる感触は、戦場のそれとは違う。剣で振り払えない。 ガレンの前に立った。背丈はガレンのほうが拳一つ高い。レイは剣を背負ったまま、まっすぐ立った。 「呼んだか」 「いやあ、補佐役」ガレンは笑った。「お前、十年だぞ。十年!」 「ああ」 「俺がEランクのお前を拾ってやって、十年だ。よく続いた」 店の中が、わずかに静まる。冒険者たちの目が、テーブルから上がった。レイは黙ってガレンを見た。 「で、相談なんだがな」 ガレンはジョッキをテーブルに置き、レイの肩に手を回した。重い手だ。剣を振る手だ。だが、どこを掴めば人が痛むかを、この男は知らない。指の腹が肩甲骨の上をぐっと押す。痛くはない。ただ、押された場所だけが、奇妙にじんわりと熱を持った。十年、この手のひらの重さを、レイは仲間の証だと信じていた。今夜は、押さえつけの重さに似て感じた。 「明日の昼、ギルド本部で会議がある。お前も来い」 「会議?」 「ああ。聖女様の正式加入式だ。お前にも、聞いてもらいたい話があってな」 ガレンは笑った。歯が見える。歯がきれいすぎる。 「補佐役、これからも頼むぞ。十年やってきたんだ、これからも、な」 そう言いながらガレンの目は、レイを見ていない。テーブル下の紙束を見ている。歓声と杯のなかで、紙束だけが、静かに、こちらを向いていた。 ミラがゆっくりと振り向いた。レイのほうを見た。三日ぶりに、目が合う。 「あの──」 ミラの唇が動きかけた。が、ガレンの腕がさりげなくミラの肩に置かれ、声は喉の奥に戻った。ミラは目を伏せ、指輪をしていた左手で、髪を耳にかけた。 指輪は、なかった。 レイは黙って、ミラの左手を見た。三日前まで、薄い銀の指輪があったはずの薬指。いま、跡だけが白く残っている。指輪のあった場所だけが、まわりよりわずかに白い。三日では、こんなふうに日焼けの跡は戻らない。もっと前から、ミラは外したり嵌めたりを繰り返していたのだ、と気づいた瞬間、酒場の喧騒が一段遠のいた。耳の奥で、自分の鼓動だけが、やけにはっきり聞こえる。 婚約の日、ミラはこの指輪を「重い」と笑った。十年も削れていない、軽い銀の輪を、笑った。冗談に決まっている、とレイは思った。三年前のことだ。三年、そう思い込んできた。重い、という言葉の意味を、レイは三年、銀の重さで考えていた。ミラが言っていたのは銀の重さではなかったのかもしれない、と、いま、ようやく思った。指に嵌めるたびに、誰かに見られたくない、と思っていたのかもしれない。そう考えた途端、口の中の麦の味が、ふっと鉄の味に変わった。 胸の奥の歯車が、もう一段、深く噛み合った。 ガレンが続ける。 「明日、いいよな? 来るよな?」 「ああ」 「いい返事だ! さすが俺の補佐役だ! おい、誰かこいつにも酒を!」 歓声が戻る。誰かがレイにジョッキを押し付けた。レイはそれを受け取り、ひと口だけ含んだ。麦の味より先に、雪の匂いがした。 フードの男二人は、いつのまにかいなくなっていた。テーブルの脇に、ギルド資格の解除書類らしき紙束が、わずかに角を覗かせている。レイは見ないふりをした。十年やってきた、見ないふりだ。 レイはジョッキを下ろす。 肩のあたり、十年つけていた何かが、わずかに緩んだ気がした。

外に出ると、雪が降り始めていた。 カラドの石畳に、白いものが滲む。レイは酒場の裏壁にもたれ、息を吐いた。白い息がすぐに溶ける。 胸の奥の歯車が、まだ静かに鳴っていた。 「明日、昼か」 口の中で繰り返す。会議の場所も、ガレンの口調も、ミラの指輪が消えたタイミングも、テーブルの紙束も、十年付き合ってきたレイには、もう全部、繋がっていた。 分かっていて、それでも、レイは明日、行くつもりだった。 ここで逃げたら、十年が嘘になる。逃げないで、ちゃんと聞いて、ちゃんと終わらせる。それが、十年積み上げてきた男の、最後の補佐の仕事だ。 雪の向こう、酒場の窓からガレンの笑い声が聞こえる。ミラの聖魔法の気配が、ほんの少し、震えていた。 レイは目を閉じた。 明日、十年が終わる。 そう思った瞬間、肩のあたりで、抑えていた何かが、もう一度、ほんの小さく脈打った。

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