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観測者の烙印 〜Eランクと誤認された俺は静かに歩き出す〜

第3話 第3話

第3話

第3話

大聖堂の石段を下りるとき、リオンの掌にはまだ水晶の冷たさが残っていた。

外気は乾いていて、日差しが雪面に跳ね返り、視界の縁が白く滲む。鼻の奥に乳香の残り香がしばらく粘ったあと、街の匂い——煮炊きの煙、馬糞、湿った藁——が一気になだれ込んできた。リオンは石段の途中で一度立ち止まり、息を吸い直した。

(……結果は、書状で)

老神官の言葉が、耳の奥でもう一度響いた。声は震えていなかったが、最後の母音の伸びが、普段より長かった。あれは、何かを言わずに済ませた人間の声の伸び方だった。三年間、罠の解除のたびに仲間の表情を読んで生きてきた身には、あの一拍の余韻がただの礼儀ではないと、骨の方でわかってしまう。

石段の下、屋台の湯気の向こうにガイたちが見えた。三人とも杯を手にして、何かを声高に話している。ガイの声がよく通る。リオンの位置からは単語までは聞き取れない。だが、笑いの種類はわかる。

──いつものやつだ。

獲物を仕留めたあとの、肩を組み合うときの、あの種類の笑い。喉の奥を振動させて、相手の腹に届かせるための笑い。

リオンは石段を下り切り、石畳の上に靴底を置いた。雪解け水が靴の縁を濡らした。掌の冷たさは、水晶のものか外気のものか、もう区別がつかなくなっていた。

ガイが先に気づいた。杯を持った手で、大袈裟に振ってみせる。

「おーい、Eランク様!」

ミラとセインが振り返る。ミラは口角だけで笑い、セインはちらりとリオンの目を見て、すぐ杯に視線を落とした。リオンは三歩ぶん、距離を縮めた。靴底に貼り付いた雪が、一歩ごとに薄く剝がれて落ちていく。

(まだ、何も話していないのに)

そう思った瞬間、ガイが杯を屋台の縁に叩きつけて立ち上がった。赤ワインが石畳に飛び散る。雪と混ざって、薄い桃色の染みになった。

「待て、リオン」

ガイの声は、いつもより一段低かった。腹の底に溜めた声だ。地下迷宮で号令をかけるときの、あの声に近い。

「結果なんか、聞かなくてもわかるからよ」

ガイは大股でリオンの前に立った。背丈はリオンより頭半分高い。日陰になる。革鎧の継ぎ目から、昨夜の汗と鉄錆の匂いが立ちのぼった。

「俺たちさ、考えてたんだよ。お前のこと」

ガイの口から酒の匂いが直に来る。朝六時から空きっ腹に流し込んだ赤ワインの、酸の立った匂い。リオンは無意識に半歩下がりかけて、足を止めた。下がれば、また昨夜のように肩を突かれる。下がれば、それは認めたことになる。

「考えるって、何を、ですか」 「決まってんだろ」

ガイは右手の親指を立て、自分の喉のあたりで横に切る仕草をした。爪の縁に、昨夜の血の黒ずみがまだ残っていた。

「今日でクビだ」

屋台の店主が、湯を沸かす手を一度止めた。湯気だけが律儀に立ち上り続ける。隣の卓で芋を齧っていた老人が、ちらりとこちらを見て、すぐ目を伏せた。

リオンの背中に、汗が一筋伝うのがわかった。冬の朝の汗だった。冷たくて、襟の内側で布に吸われていく。心臓は、不思議と速くなかった。むしろ、いつもより遅く打っている気さえした。

「……理由を、聞いても」 「理由ぅ?」

ガイは大袈裟に笑った。笑い声は乾いた石畳に跳ねて、屋台の屋根まで届いて、戻ってこなかった。誰も笑い返さなかった。

「お前、自分で気づいてねえのか? Eランクの荷物持ちが第三層まで毎度ついてくるのは贅沢なんだよ。荷運び専門の小僧雇った方が、半分の銀貨で済む」 「……」 「ミラ、セイン。お前らもそうだよな」

ガイは振り返らずに、後ろの二人に同意を求めた。同意が前提の問いかけだった。打ち合わせ済みの台本を、ただ声に出している。それがリオンにもわかった。

ミラは杯を持ったまま、屋台の湯気を見ていた。視線がそこから動かない。やっと口を開いたが、声は喉に絡んだ。

「……まあ、そうね」

そう言ったあとで、ミラは唇を一度、内側に巻き込んだ。それは、嘘をついたあと、唇の乾きを誤魔化すときの仕草だった。

セインは何も言わなかった。代わりに、革手袋の縫い目を指でなぞっている。縫い目を三度、左から右へ。気を逸らすときの、いつもの癖だった。あの縫い目を直したのは、半年前の自分だった、とリオンはふいに思い出した。

(──ああ)

リオンの胸の奥で、昨夜と同じ違和感が、ことりと一段沈む音をたてた。膨らみは破裂しなかった。代わりに、形を変えて、底の方に静かに沈んだ。沈んだあとの水面は、不気味なほど凪いでいた。

罠を解除したのは。麻痺粉を投げたのは。砂袋を撒いたのは。三年間、毎朝薬を煎じたのは。ガイの古傷に膏薬を貼り直したのは。ミラの剣の刃こぼれを、宿の隅で夜な夜な研いだのは。セインの咳が止まらない夜に、生姜湯を煮出したのは。

(──言わない)

舌の上で組み立てかけた言葉を、リオンは飲み込んだ。喉仏が一度、ゆっくりと上下した。言えば、それは反論になる。反論すれば、ガイは殴る理由を得る。今日でクビだと宣告した男に、最後に殴る口実を渡す必要はない。

リオンは口を結び、ガイの肩越しに、空を一度見た。雪雲は南へ流れていた。雲の縁が、薄い金色に縁取られている。

「わかりました」

それだけ言って、リオンは頭を下げた。下げたまま、二秒待ち、ゆっくり戻した。頭の中で、二、と数えた。罠の起爆を待つときと同じ数え方だった。

「……ふん」

ガイは肩透かしを食ったように、鼻を鳴らした。

「物わかりがいいじゃねえか」

ガイは振り返り、ミラとセインに顎をしゃくった。

「行くぞ。次の依頼、組み直さねえと」

ミラは杯を屋台の縁に置いた。口を開きかけて、閉じた。リオンの方を一度も見ずに、ガイの背を追って歩き出した。歩き出す瞬間、ミラの肩が一度だけ、震えたように見えた。寒さのせいかもしれなかった。

セインは最後だった。革手袋の縫い目から指を離し、リオンの靴の先に視線を落とした。何か言いかけたように見えた。喉仏が一度、上下した。だが、結局口は開かず、彼もまた背を向けた。背中の革帯が、歩くたびに小さく軋んだ。

三人の足音が、雪解け水の上で湿った音をたてながら遠ざかっていった。屋台の店主は、湯気の向こうから一度だけリオンを見て、すぐに鍋に向き直った。誰も声をかけなかった。隣の老人も、芋の皮を剝く手を再開していた。

リオンは、石畳の上に立ったまま動けなかった。

足の裏は冷たい。掌の冷たさは、もう感じない。

(……三年)

朝の調合の指の感覚、地下迷宮の硫黄の匂い、ガイの革鎧が肩を突く重み、ミラの剣の腹から飛んだ赤い飛沫が靴に落ちた瞬間、セインの炎弾が霧に食われたあの一瞬の沈黙——。

それらが、頭の中で順番にではなく、同時に、平らに並んだ。

並んで、それから、すっと薄くなった。記憶ではなく、もう過去になった、という手触りだった。剝がれ落ちる瘡蓋の、最後の一枚が剝がれる感覚に似ていた。

リオンは右手を持ち上げ、自分の掌を見た。

水晶に翳した、あの掌だった。表皮の冷たさはとうに消えている。だが、皮膚のもう一段下、骨に近いあたりに、まだ何かが残っている気がした。脈動の余韻のような、押し返してきた何かの記憶。指先を一度、握って開いた。関節が、思ったより素直に動いた。

(……結果は、書状で)

老神官の言葉が、もう一度甦った。

リオンは懐に手を入れた。朝、神官長の通達を抜き取った内ポケットには、今、何も入っていない。書状はまだ届いていない。届くのは、たぶん夕方か、早くて昼過ぎだろう。それまで自分は宿に戻り、薬の在庫を整理し、依頼板を眺めて、明日からの一人の生活の組み立て方を考えるのだろう。

それは、できる。

罠を解除する手順と似ている。半歩先だけを読む。先を見すぎない。呼吸を浅く、長く。指先の震えを、息で抑える。

リオンは靴を一歩、前に出した。雪解け水を踏んだ。歩こう、と思った。歩き出せば、たぶん、戻れる。三年前にEランクと言われた朝に戻ったときと、同じやり方で。

──そのとき。

背後で、誰かが石段を駆け下りる音が鳴った。

リオンの足が止まった。

足音は不規則だった。一段飛ばしと二段飛ばしが入り混じり、途中で短く滑った気配があった。そのあと、慌てて踏みしめ直す音が続いた。

「……お、お待ちを!」

声は若かった。喉が裏返って、最後の音だけがひっくり返った。雪解けの空気の中で、その裏返りだけが、やけに鮮明に響いた。

リオンは振り返った。

大聖堂の白い尖塔を背に、若い神官がひとり、石段の上から駆けてきていた。長衣の裾を片手でたくし上げている。ブーツの裏が雪解け水を散らし、滑りそうになって、手すりを掴み、また走り出した。長衣の胸元には、見習いを示す銀の小さな徽章が揺れていた。

息を切らして、リオンの三歩前で止まる。白い息が、雲のように顔の前で膨らんだ。膨らんで、それからほどけるまで、神官は次の言葉を発せられなかった。

「リオン、殿……」

殿、と呼ばれたのは、いつ以来だろうか、とリオンはぼんやり思った。少なくとも、ガイのパーティに加わってからは、一度もなかった。

神官は懐から、二つ折りの羊皮紙を抜いた。蝋封がかかっている。封の蝋はまだ艶があって、押された紋章が陽に光った。──大聖堂の正式封蝋。書状で、と老神官は言ったはずだった。届くのは夕方、早くて昼過ぎ。それを、若い神官は今、手に握っている。

その手が、震えていた。

指の関節が白くなるほど羊皮紙を握りしめているのに、手首から先が小刻みに揺れて、封蝋の紋章が陽の角度を細かく変える。神官の目は、リオンの目の高さに合わせられていない。胸のあたり、いや、もう少し下——リオンの掌の位置で、止まっていた。視線は、そこから逃げる場所を探すように、二度ほど揺れて、また同じ位置に戻った。

「……これを」

神官は、両手で羊皮紙を差し出した。差し出したまま、肩で息をして、顔を上げられなかった。差し出す指の先から、湿った息が、羊皮紙の縁にかかって、すぐに乾いた。

リオンは右の掌を伸ばした。

水晶に翳したのと、同じ掌だった。

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