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真実の瞳と、ごきげんよう殿下

第3話 第3話

第3話

第3話

地下牢の石床は、深紅の絹の重みを、容赦なく押し返した。 セレスティアは、膝をついた姿勢のまま、長く動かなかった。鎧の籠手に掴まれた腕の付け根が、鈍く軋む。十年磨いてきた爪のひとつが、籠手の縁に弾かれて、薄い欠けを残していた。 鉄格子の向こう、油皿の灯がひとつ。 壁際の藁の隙間に、誰かが残した銀片が、薄く光っていた。指環の欠けらしい。 ——薔薇水。 ふと、午前の鏡台が、まぶたの裏に蘇った。指先のインクを落とした、薔薇水の湯気。湯気の温度。鏡に映った銀髪。あれから、まだ半日も経っていない。 地下の冷気が、絹を貫いて、踝を這い上がってくる。広間の三千の蝋燭が、遠い。 扉の外で、鎧の音がした。 「公爵令嬢。裁判の支度を」 セレスティアは、立ち上がった。膝の関節が、固く鳴った。深紅の裾の縁に、藁屑がひと房、絹の縫い目に深く食い込んでいた。指で払おうとしたが、籠手に腕を取られ、できなかった。 回廊を、四歩。蝋燭は壁際に三つ。火の揺れが、絹に、波の影を描いた。 突き当たりに、樫の扉が一つ。扉の前で、衛兵がひとつ咳をした。咳の音が石壁に跳ね、奇妙に長く尾を引いた。

裁判は、その奥で始まった。

判官席は、三人だった。 中央に、宮廷裁判長アルベリク卿。左右に、財務卿と王宮儀典長。 セレスティアは、これまで三人の全員と、執務室で書類を交わしたことがあった。アルベリク卿には、領地の橋梁修繕の予算組みを助言したことがある。財務卿は、北部の関税協定の文面を、彼女の筆で整え直した相手だった。儀典長には、王太子の不作法の言い訳を、何度も書いてやった。 三人は、誰ひとり、彼女と目を合わせなかった。 アルベリク卿は、書面の余白を、小さな羽ペンの先で、几帳面に整えていた。インクの溜まりを、紙の繊維に押し戻すような、慎重な手つきだった。財務卿は、机の下で、足を組み替える音を、絹の擦れに紛れさせた。儀典長は、咳払いを一つだけ、した。それきり、唇は、結ばれた。三人とも、彼女が午前までに書類の隅へ書き入れてやった助言の文体を、よく知っているはずだった。それでも、視線は、ひとつも、上がらなかった。

「被告、セレスティア・ヴァン・ローゼンベルク」 アルベリク卿の声は、書類を読み上げるよりも、書類そのもののように平らだった。 「王太子フェルナンド殿下御在席の場にて、男爵令嬢ミレーヌ・ローゼリア毒殺未遂の罪状で告発された。証拠品、ローゼンベルク家紋章入り硝子瓶。証言者、ローゼンベルク邸侍女三名。以上の事実関係につき、被告は何か申し立てがあるか」

「……指紋を、お調べください」 セレスティアは、ようやく言った。声は、自分でも驚くほど、まだ平らだった。 「あの硝子瓶に、私の指紋があるか、ないか。それだけで、答えは出ますわ」

判官席の三人が、視線を交わした。視線だけで、十分だった。 「鑑定は、既に済んでおる」 財務卿が、書面に目を落としたまま言った。 「結果は——被告のものと思われる、と」 「思われる、と?」 「左様」

セレスティアは、唇の端を、わずかに、動かした。笑ったわけではない。ただ、唇の筋肉が、勝手に動いた。 鑑定書の文面を、見せろ、とは言わなかった。見せたところで、書き換えられている。書き換えた者の名は、想像がついた。 判官三人の背後、壁際に、書記官が一人立っていた。書記官の足元に、革の鞄が一つ。鞄の留め金が、油皿の光を、不自然に黒く吸っていた。蓋の隙間から、白く見覚えのある封蝋——ローゼリア家のすずらん——が、一片、覗いていた。 蝋の色が、まだ新しかった。割れの断面が、白く乾ききらず、わずかに艶を残している。指で押せば、まだ温い、と知れる類の新しさだった。今朝の、ごく直前に、誰かの手で運び込まれたばかりの封だった。 ああ、そう。 セレスティアは、深く、息を吐いた。

「他に、申し立てがあるか」 アルベリク卿が、もう一度、言った。彼の指は、書面の次の頁を、もう、めくっていた。判決文の頁である。

「ございません」 セレスティアは、答えた。 判官三人は、揃って頷いた。頷くために集まった三人だった。

「主文。被告セレスティア・ヴァン・ローゼンベルクを、毒殺未遂の罪により——」 書面を読む声が、遠い。 「——明朝、王宮西広場にて、斬首に処す」

判決の余韻は、地下の石壁に吸い込まれて、ひとつも残らなかった。 裁判は、四半刻で終わった。

朝が来た。

広場の石畳は、夜露で濡れていた。深紅のドレスは、地下牢の藁屑を縫い目に挟んだまま、朝の光の下で、夜会の華やかさをほとんど失っていた。 木の処刑台が、広場の中央に組まれていた。木目の新しい台。柱の根元に、削り屑が、まだ散っている。一晩で、急いで組まれた台だった。 台の足元、首を載せる窪みが、黒く、湿っていた。先に流れた誰かの血の名残ではない。雨水だ、と、セレスティアは自分に言い聞かせた。

衛兵に促されて、台の前まで歩いた。 広場には、群衆が集まっていた。 セレスティアは、面を上げた。 群衆の中に、見知った顔が、いくつもあった。 北部の橋梁修繕で家を守った村の長老。三年前の飢饉で、彼女が私財から麦を回した東部の小作の娘。先月、王太子の名で減免された南部の青年商人。 彼らの顔を、彼女は覚えていた。彼らもまた、彼女の顔を、覚えているはずだった。

しかし、誰も、面を上げなかった。 村の長老は、磨り減った帽子の縁を、両手で握りしめていた。小作の娘は、母らしき女の背に、顔を埋めていた。青年商人は、群衆の最後列で、視線を石畳の継ぎ目の方へ、釘で打つように落としていた。

——そう。 胸の奥で、もう一片、何かが、灰になった。 責める気には、ならなかった。彼らは、これからも、この王都で生きていかねばならない。公爵令嬢ひとりのために、王太子に楯突けるはずがなかった。 それは、わかっていた。十八年、彼女が彼らのために整えてきた書類の余白に、最初から書かれていた条文だった。

ただ、首の後ろの冷たさが、一段、深くなった。

群衆の前列、貴族用の桟敷席。 フェルナンドが、座っていた。 隣に、ミレーヌ。 すずらんの髪飾りが、朝の光に、わずかに白く浮いている。

セレスティアは、見た。 フェルナンドの腕が、ミレーヌの肩に、回されていた。ミレーヌの白い指が、王太子の胸元の刺繍を、ゆっくりと、撫でている。八歳の頃から、その胸元の刺繍を縫い直してきたのは、セレスティアだった。 フェルナンドが、ミレーヌの耳元に、顔を寄せた。 唇が、動いた。 広場の朝の風が、その囁きを、思いがけず、こちらまで運んでしまった。

「……ようやく、自由になれる」

ミレーヌが、白い喉を反らして、笑った。声を立てない笑い方だった。彼女の指が、王太子の胸元を、もう一度、撫でた。

セレスティアは、桟敷席から、視線を外した。 不思議と、心は、波立たなかった。 広間で何かが灰になり、地下で何かが灰になり、今もまた、何かが灰になっていく。灰だけでできた人間が、台の前に、立っていた。

「上がれ」 衛兵が、低く言った。 処刑台の階段は、三段。 一段目。深紅の絹が、新しい木の段に、藁屑をひと房、落とした。 二段目。広場の風が、絹の裾を、わずかに、持ち上げた。 三段目。

台の上で、彼女は跪かされた。木の窪みに、首を、置いた。 頬の右側に、台の木目が触れた。新しい木は、まだ生きていた頃の、樹脂の匂いを、わずかに、残していた。 両手は、後ろで縛られていた。縄は、思ったほど、痛くはなかった。 首の後ろに、朝の光が、当たる。

衛兵長の声が、広場に、響いた。 「これより、刑を執行する」

斬首人が、台の横に立った。両手で、刃の柄を握った。 広場の群衆が、一斉に、息を呑んだ。 その音は、三千の蝋燭の囁きとは違って、もっと、生身の音だった。

セレスティアは、横目で、桟敷席を、見た。 フェルナンドが、ミレーヌの肩を、抱き寄せていた。ミレーヌが、王太子の胸に、頬を、寄せていた。

刃が、ゆっくりと、振り上げられていく。 朝の光が、刃の縁を、白く、滑った。

——ああ、首の後ろが。 昨日の朝から、ずっと冷たかった理由を、首の後ろが、ようやく、思い出しかけた。

刃が、頂点に達した。 セレスティアは、目を、閉じなかった。 広場の石畳の継ぎ目に、雀が一羽、降りた。

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