第3話
第3話
湯気がひとすじ、まっすぐに空へのぼっていく。その尾を、悠真は口を半分あけたまま、ぼんやりと見送っていた。
リオンの手のひらに乗せた果実の半分が、橙色の断面を上に向けて、ふた呼吸ぶんほど、そのままになっている。湯のしずくが、果実の縁にひとつ落ち、皮の上をすべって、男の指の付け根にとまった。リオンは、それを払うわけでもなく、舐めるわけでもなく、ただ、ふしぎそうに眺めていた。竜の姿から人のかたちに移ったあと、自分の爪を確かめていたさっきの動作と、よく似ていた。
「……あの」
声が、思った以上に、枯れて出た。さっきまで巨大な銀色と話していたぶんの緊張が、いまごろになって喉のあたりに残っているらしい。
「無理、と言ったのは、ほんとうに、続かないからで」
「分かっている」
「でも、今日のぶんくらいなら、もうすこし、なんとかなるかもしれません」
リオンは、視線をすこしだけ持ち上げた。湯壺の縁に脱ぎ捨てたコック帽。火の脇に転がる、銀留めの欠けた牛刀。それから、果実がいくつか落ちていた、斜面のあたり。湯気の向こうから、それらを順に撫でるような目つきだった。
「足りるか、それで」
「足りないと思います」
「ならば、行こう」
立ち上がる動作に、迷いがなかった。膝の苔を払う、くらいのことすら、しなかった。手のなかにあった果実の、もう片方の半分は、いつのまにか、悠真の手のひらに置き直されていた。返された、というより、預けられた、という感触の置き方だった。
「行く、って、どこに」
「森のなかだ」
「俺、あなたの背中に乗るんですか」
口に出してから、悠真は、自分でも妙なことを言ったと思った。竜王、と頭のなかでは置き換えていたその男に向かって、まるで馬車のようなことを口走っている。けれどもリオンは、ほんの少しだけ、眉を寄せただけだった。考えこんでいる、というより、確かめている、という横顔だった。
「乗せても、いいが」
「いえ、いいです」
「言葉が足りなかった。歩くほうが、お前には、はやい。匂いを覚えるには、地の上のほうが、向いている」
匂いを、と言われて、悠真は無意識に鼻先を動かした。湯壺のうすい硫黄。焼けた果実の、まだ消えていない煙。それから、奥のほうから、苔と樹皮の混ざった、湿った青い匂いがひとすじ。それぞれの境目が、いまだけは、すこしはっきりと見えた気がした。
牛刀は、腰のうしろに差した。鞘がないので、コック帽の布をほどいて、刃を巻きつけ、コックパンツのベルトのところに括った。職場ではぜったいに叱られる、危ない持ち方だった。誰にも怒鳴られない持ち方、ともいえた。湯壺に向かって、無言で頭を下げた。湯気のほうも、ほんの少しだけ、揺れて応えてくれた気がした。
森のなかは、外から見ていたよりも、ずっと明るかった。
枝のあいだから差しこむ光が、地面のうえに、銀貨のような円をいくつも落としている。リオンは悠真のすこし前を、ゆっくりと歩いた。歩幅は、明らかに、悠真に合わせて狭めてあった。それが、はじめのうちは、ほんの少しくすぐったかった。客に料理を運ぶときの、皿に合わせて急に短くなる自分の歩幅を、なぜか思い出した。
「これは、食えるか」
立ち止まって、リオンが指さしたのは、根もとに細い葉を扇のようにひろげた、見覚えのない草だった。葉の縁が、ほんのり紫がかっている。悠真は片膝をついて、葉先を一枚だけ折り、その断面を鼻に近づけた。土と、紫蘇の裏葉のような、すこし苦い香りが、鼻の奥のほうへ届いた。
「……たぶん、香草です。生で齧ると、苦い。煮ると、出汁の上にのせて、香りを足すやつ」
「煮る」
「火を通す、ということです」
「分かった。これは、何枚いる」
「いまは、両手にひとつかみで、足ります」
リオンは、すぐに葉を折りはじめた。爪の先で、根を傷めないように、葉柄のところだけを、正確に断っていく。料理人の指の動きに、すこし、似ていた。気づくと、悠真は、声に出していた。
「うまいですね、その採り方」
「そうか」
「誰かに、習ったみたいに、見えました」
「お前を、見ていた」
リオンは、当たり前のことのように言った。集めた葉のかたまりを、肩から下げた革のような上布の内側に、ぽいと放りこむ。布の内側には、もう何かが入っているらしく、ぬるい湯気のような匂いが、ふわっと立った。
すこし進んだところで、リオンは、岩の根もとをしずかに覗きこんだ。水の音がした。さっきまでは聞こえなかった、ちいさな沢の音だった。岩の隙間を、子どもの指ほどの細い流れが、ゆっくりと走っている。流れの底に、銀色の影が、二つ、三つ、揺れた。
「魚が、いる」
「俺、とれますかね」
「俺がやる。お前は、上から、見ていてくれ」
しゃがんだリオンの手のひらが、水のなかへ、しずかに沈んでいった。指がはいった瞬間、銀色の影は、すこし身じろぎしただけで、逃げなかった。逃げない理由が、悠真には、なんとなく分かった。たぶん、いま、水のなかには、銀色の鱗の気配がまだ残っている。本能のほうが、自分より上の存在がいると判断している。リオンは、指を二度動かしたあと、やわらかい手つきで、二尾の魚を、岸辺の苔のうえに置いた。すぐに首の根のあたりへ爪先を一度走らせる。あとは、跳ねなかった。手際が、よすぎた。
「……竜なのに、釣り堀の親父みたいですね」
「釣り堀」
「すいません、あとで説明します」
魚は、銀の腹に、薄い緑がかった背をしていた。鰓のうえに、見たこともない黒い斑が、三つだけ並んでいる。ヤマメの遠い親戚、というくらいの心積もりで、悠真は手のひらに受けとった。指のなかで、まだ、ほんのり温かかった。
戻るころには、湯壺の上の湯気が、午後の色を含んで、すこし黄ばんで見えた。
火を、もう一度起こし直す。乾いた枝を、井桁に組む。職場で、まかないを最後の一人ぶんだけ作るときの、あの組み方だった。誰にも見られていないのに、手だけが律儀に手順を踏む。リオンは、岩のうえに腰をおろし、両手を膝のうえに置いて、悠真の手元を、まっすぐに見ていた。
魚の腹に、刃を入れる。
人差し指を背に添え、刃の先で、薄い銀の腹をひと撫でする。職場では一日に何十尾とこなしていたはずの動きが、ふしぎなほどゆっくりと、自分の手のなかに戻ってきた。臓物を取り、指先で血合いを擦り落とし、沢の水で軽く流す。冷たい流れに、指の関節が、きゅっと縮んだ。痛いというより、生きている、という感触に近かった。
平たい石を、火のうえに据え直す。石が温まりきるまでのあいだ、薬草の葉を、刃の腹で軽く叩いて香りを立てた。葉のあいだから、青い匂いが立ちのぼり、湯気と煙の柱に、しずかに混ざっていく。
「塩は、ない、んですよね」
「いる、なら、岩から出す」
「岩から」
「南のほうの、白い岩のあるところ。明日、行く」
そう言ってから、リオンは、自分の上布の内側を探って、なにかを取り出した。親指の先ほどの、灰色がかった結晶だった。湯気の照り返しを受けて、表面が、わずかに光った。
「これで、足りるか」
「……これ、塩じゃないですか」
「岩のかけらだ。割れたぶんを、しまっていた」
悠真は、結晶を受けとり、刃の柄で軽く砕いた。指でつまんで舐めると、たしかに、塩だった。海ではなく、ずっと長いあいだ岩のなかにいた、すこし丸い味だった。
魚の表面に、その粉を、ほんの少しだけ、ふった。石のうえへ、皮目から先に乗せる。じゅう、と低い音がたった。香草のかたまりを、魚の脇に置く。煙が、ゆっくりと立ちのぼり、湯気とまじって、空へ流れていく。
「……ユウマ」
リオンが、火を見つめたまま、低く名を呼んだ。
「はい」
「足りない材料が、まだ、ある、と言ったな」
「あります。たくさん、あります」
「言ってくれれば、いい」
膝のうえに置かれた手が、ゆっくりとひらかれた。指のあいだに、火の橙色が、ちらりと走った。
「お前のためなら、森ごと、差し出す」
声に、誇張がなかった。比喩でもなかった。湯気のなかで、いま、しずかに、契約の文を読みあげているような、そういう真顔だった。
悠真は、しばらく、刃の手を止めていた。それから、ふっ、と、口の端から息がもれた。
噴き出したのだと、すこし遅れて気がついた。
笑いのほうが、自分でも、ずいぶん久しぶりだった。職場の冷蔵庫の前で、後輩のミスを舌打ちで流すときの、あの薄い笑いではなかった。腹の底から、湯気と一緒に、ゆっくりと押し上げられてきた、まるい笑いだった。
「いや、そんな、森ごとは、置く場所がないです」
「置く場所」
「……すいません、いま、料理にもどります」
リオンは、笑った悠真の顔を、しばらく不思議そうに眺めていた。気を悪くしたふうでもなく、むしろ、はじめて見る食材の断面でも覗きこむような目つきだった。
魚は、皮目に薄く焦げ目がつき、香草の青い匂いが、湯気とひとつになっていた。刃の腹で、二尾を半分ずつに分ける。リオンの手のひらに、半分を、そっと乗せた。
ふたくち目で、銀色の瞳が、すこしだけ、細められた。
「うまい」
「よかったです」
「ユウマ」
「はい」
「明日も、これを、食わせてくれるか」
「材料が、続けば」
「続かせる」
その言い方が、また、あまりに真顔だったので、悠真はもう一度、こんどは肩を揺らさずに、口の端だけで笑った。
火が、すこし、弱くなりはじめていた。
食べ終わるころには、空のいちばん高いところが、薄い藤色をふくみはじめていた。湯気が、夕方の光を吸って、銀色から、すこし金色のほうへ寄っていく。悠真は、湯壺の縁に座り、腹のあたりに溜まった温度を、しずかに数えていた。三十二時間連勤の日々が、まだ皮膚の下のどこかに残っているのに、そこへ、別の温度が、上から重なってきていた。
「ユウマ」
岩のうえで膝をたたんだリオンが、湯壺の向こう、夕日の影に沈みはじめた一角を、顎の先で示した。
「あれは、何だ」
悠真は、目を細めた。湯気の向こう、苔と蔓に半分のまれた、灰色の屋根のようなものが、夕焼けの縁にひっそりと浮かんでいた。誰かが、ずっとむかしに、ここで湯を浴びていた、その名残のかたちだった。
「……家、ですかね」
「住んでいた、誰かの」
「もう、いないみたいですけど」
リオンは、しばらく、その屋根のかたちを見つめていた。それから、悠真のほうへ、ゆっくりと首をかたむけた。
「明日、見にいくか」
その声に、悠真は、火のなかへ落とした最後の枝が、ぱち、と小さくはじけるのを聞いた。湯気は、まだ、まっすぐに、暮れはじめた空のほうへ、のぼりつづけていた。