第1話
第1話
肩の古傷が、玉座の間の冷えた石床に膝をつくたびに鈍く軋んだ。
ロランは頭を垂れたまま、十年前に誓いを立てたのと同じ大理石の上で、王の声を聞いていた。
「ご苦労であった、勇者ロラン。魔王の首級、しかと受け取った」
玉座から降ってくる声は、平伏する家臣のひとりに向ける程度の温度しか持っていない。きのう、魔王の心臓に剣を突き立てたとき、自分の喉から漏れた獣じみた咆哮が、まだ耳の奥に残っている。あの声と、いまの王の声の間に、十年という年月がきれいに挟まっていた。
「ついては、しかしだ」
王の隣に立つ宰相が、扇を一度だけ鳴らした。
「魔王なきあと、王国にはもう、勇者という役職は要らぬ。聖剣は王家の宝物庫へ。称号は神殿に返納。退職金として、これを」
革袋がひとつ、足元に投げられた。石床に当たって、ちゃりん、と銅貨の擦れる音がする。重さで分かる。十枚あるかどうかだ。
ロランは黙って袋の口を開いた。底に銀貨が一枚混じっている。それで肩の包帯と、街道の宿三泊分くらいにはなる。
「もう用済みだ」
そう、はっきり言ったのは王ではなく宰相だった。王はもう、視線を別の書類に落としている。十年前、聖剣を授けた手で、ロランの肩を叩いてくれた人だ。あのときは確かに、目を見て笑ってくれた。
ロランはゆっくりと立ち上がった。膝の関節が、薪を割るような乾いた音を立てた。
「……承知いたしました」
それ以外の言葉は、もう体のどこにも残っていなかった。
謁見の間の重い扉を背中で押し戻したとき、回廊にはもう誰もいなかった。
きのうまでロランの後ろを歩いていた仲間たちの姿も、ない。聖騎士のアレクは早朝に貴族議会の招きで連れていかれたと聞いた。賢者のフィオは王立学院の教壇に上がるらしい。回復術士のマリエルは、神殿の奥で枢機卿の祝福を受けている最中だ。みんな、それぞれの場所を持っていた。十年前から、たぶん持っていた。
ロランだけが、剣以外に行く先のない男だった。
回廊を抜けて中庭に出ると、晩秋の風が首筋を撫でた。古い太刀傷の上を、布越しに針で刺すような痛みが走る。三年前、北の山岳で氷竜の尾に薙ぎ払われた跡だ。寒くなると毎年こうなる。フィオの治癒魔術でも、骨の奥の冷えだけは溶かしきれなかった。
中庭の端で、見習いの兵が目を伏せた。聖剣を腰に下げていない勇者を、どう挨拶していいか分からないらしい。ロランも、軽く頷くだけにした。
王城の裏手の通用門を抜ける。十年前、最初に旅立った日は正門だった。歓声があって、花が散って、王が手すりから身を乗り出していた。あのときの花弁の甘い匂いを、不思議と鼻の奥がまだ覚えている。
通用門の番兵は、革袋を提げただけのロランを軽く検めて、無言で通した。
王都の朝は、いつも通り動いていた。
パン屋の煙突から白い湯気が立ち、馬の蹄が石畳を打つ。果物屋の女がまだ青い林檎を山に積み上げている。誰もロランを見ない。当然だった。きのうの戦いの報せは、まだ街には届いていない。届いたところで、勝利の旗を上げるのは王と宰相の仕事で、ボロ布を巻いた男のものではなかった。
ロランは大通りの隅で立ち止まり、無造作に革袋を肩に掛け直した。背中の鞘が空であることを、改めて意識する。聖剣はもう手元にない。代わりに、安宿で買った鉄の短剣だけが腰にぶら下がっている。柄の革は汗で黒ずんでいて、握ると鉄錆と古い脂のにおいがした。
銅貨数枚と、傷だらけの体。
それが十年分の報酬だった。怒りはなかった。怒れるだけの体力が、もう残っていない。
通りの先に、地図屋の看板が出ている。ロランはそちらへ足を向けた。
「街道地図、いちばん安いのを」
店先に座っていた老人は、ロランの顔をろくに見もせずに、丸めた羊皮紙を一本差し出した。銅貨が二枚、無言で吸い込まれていく。
広げてみる。王都を中心に、街道が放射状に走っている地図だった。北は山岳、東は港、南は穀倉地帯。どれも知っている道だ。十年、何度も馬で駆けた道だった。
ロランの指は、地図の左下、ほとんど縁に隠れた小さな点で止まった。
「ハーゼル」
かすれた文字で、村の名前だけが書かれていた。街道からも逸れていて、最後の三日分は徒歩道らしい。
「爺さん、この村、知ってるか」
「ハーゼル……ああ、辺境の薬草村だな。湿った土で、何にもないところだ。何しに行く」
「眠りに」
老人は怪訝そうに眉を上げてから、すぐに興味を失った様子で煙管をくわえ直した。
王都の南門を抜けると、空が一段広くなった。
石畳が砂利道に変わり、靴の下で乾いた音が立つ。十月の終わり、街道沿いの楓は半分以上が赤く色づいて、ところどころで落ち葉が風に追われていた。
しばらく歩いてから、ロランは一度だけ後ろを振り返った。
王都の城壁が、朝靄のなかで輪郭をぼんやり溶かしていた。十年前、最初にあの門をくぐったとき、自分はまだ十六だった。村の鍛冶屋の倅で、徴兵の代わりに勇者候補に選ばれた。剣を握れば人並み以上に振れた、ただそれだけの理由で。
家族はもういない。村も、十年のあいだの戦乱で焼けて、地名すら地図から消えた。だから帰る場所は、あの城壁のなかだと、長いあいだそう思ってきた。
——いまは、思わない。
ロランは前を向き直し、また歩き出した。古傷の痛みは肩から腰へと流れ落ちてきていた。そういえば、二年前に魔将と斬り結んだとき、左の脇腹に深い傷を負った。あれもフィオの治癒で塞いだが、笑うと未だに引きつる。最近、笑った覚えはほとんどない。
街道の両脇には、刈り取りの終わった麦畑が広がっていた。藁の山が点々と並び、土の匂いが鼻に届く。湿った麦藁と、踏み潰されたきのこの、青臭い匂い。城のなかでは、こんな匂いを嗅ぐことはなかった。
ふと、ロランは口の端をわずかにゆるめた。久しぶりだった。
歩きながら、地図をもう一度広げる。ハーゼル村まで、徒歩でおよそ三日。途中の宿場が二つ。銅貨の残りで足りるかどうか、頭の中でそろばんを弾く。藁の上で寝るなら、宿代は浮く。携行食は、街道沿いの林で野草を摘めば一日くらいは伸ばせる。十年、戦地の野営でやってきたことだ。
足を引きずるように坂を登り、丘の上に出た。
そこではじめて、遠くにそれが見えた。
南西の地平に、いくつもの低い山並みが折り重なっている。地図ではほとんど省略されていた山地だ。あの向こう側の谷あいに、ハーゼルがある。
ロランは荷の紐を肩に食い込ませ直した。革の縁が、肩の古傷の上を擦った。鈍い痛みが背中の奥まで響く。けれど、不思議と歯を食いしばるほどではなかった。
——もう、誰も殺さなくていい。
地の底に向かって、長い息を吐いた。秋の空気が体の奥まで降りていって、十年溜め込んだ何かを、ほんの少しだけ薄めてくれた気がした。
街道の脇に湧き水があった。ロランは膝をついて、両手で水を掬った。冷たい水が指の関節の隙間に染みて、それから舌の奥に届く。鉄の味がした。長く戦場で水筒の水ばかり飲んできた、自分の口のほうの匂いかもしれない。
水筒を満たし、立ち上がる。
剣はもう振らない。誰のためにも振らない。畑の隅にでも腰を下ろして、土の匂いのなかで、ただ眠れる場所を探すのだ。それで十分だった。
陽が傾きはじめた頃、街道は森に入った。
楓の赤が両側から覆いかぶさり、足元の落ち葉が一歩ごとに乾いた音を立てる。やがて木々の隙間から、細い煙が一筋、空に上っているのが見えた。最初の宿場の方角ではない。それより、もっと南西。
「……あれは」
ロランは目を細めた。
地図の上で指を辿る。煙の方向と、ハーゼル村の方角は、ほぼ一致していた。三日の道のりが、二日半に縮まるかもしれない。
ロランは足を踏み出した。古傷が肩で軋み、腰のあたりで息が切れかけた。それでも、立ち止まる気にはならなかった。煙が、誰かが薪を焚いて夕餉の支度をしている、ごく当たり前の合図に見えたからだ。
落ち葉を踏みしめる音だけが、晩秋の森のなかに、しばらく続いた。