第3話
第3話
薪の爆ぜる音で、レオンは指先の感覚を取り戻した。
正確には、感覚が戻ったのは右手の親指の腹だった。次に人差し指、それから掌全体。順番に、皮膚の下で針を刺すような痺れが走り、毛細血管に血液が押し戻されていく。痺れは生きている証拠だ、と頭のどこかが冷静に告げる。指を曲げようとして、爪が掌に食い込む手前で止まった。皮膚がまだ乾いていない。誰かが湯で濡らした布で手を拭ってくれたのだ。
天井は低かった。剥き出しの梁に、薬草の束が逆さに吊るされている。乾いたヨモギ、丁子、それから鼻の奥に苦味の残る、名の知れない何か。床は土間で、中央に小さな囲炉裏が切られていた。鉄の鉤に黒い鍋が下がり、湯気が天井の梁を撫でて上っていく。
レオンは藁布団の上に横たわっていた。毛布は獣の皮で、顎の下まで引き上げられている。その重みが、自分の輪郭を雪から取り戻したことを教えてくれた。
(……生きている)
声に出さなかった言葉が、口の中で泡のように消えた。
囲炉裏の向こう側に、老人が座っていた。
昨夜——あれが昨夜だったのかさえ、レオンには確信がなかった——雪の中で見た、あの白髭の影。今は外套を脱ぎ、灰色の作務衣のような上下を身につけている。痩せた肩、節くれ立った指。だが、鍋の中身を木匙でゆっくり掻き回す動きには、無駄が一つもなかった。
老人は顔を上げず、口を開いた。
「目が動いた音がしたな」
声は乾いていて、低かった。
「三日眠った。指が動くようになるまで、もう一日かかる」
「……三日」
レオンの喉は、まだ自分のものではないようだった。掠れた声が、自分の耳に他人のもののように届く。三日。その三文字が頭の中でゆっくりと反響し、街道に倒れたあの瞬間と、今この囲炉裏の前との間に、空白の橋が架けられていく。その橋の下を、何が流れたのか、自分には分からない。
「凍傷で指を二本失う覚悟をしておった。だが、お前の魔力が勝手に修復しよった。儂は、湯と薬を流し込んでやっただけだ」
老人は鍋から木匙ですくった褐色の液を、土の椀に注いだ。湯気が、苦い香草の匂いを連れて立ち上る。立ち上がり、囲炉裏を回ってこちらに来る老人の足取りには、夜の街道で見せた重力の不在の名残が、微かに残っていた。
「飲め。冷ますな。冷ましたら効かん」
レオンは肘を立て、椀を受け取った。指先がまだ震える。それでも、椀を取り落とすことはなかった。一口含むと、舌の奥で苦味が炸裂し、続けて鼻の奥に蜂蜜のような甘みが抜けた。喉から胃の腑へ、温かい糸が一本、まっすぐに降りていく。
「……ありがとう、ございます」
「礼は後だ。先に名乗っておく。儂は、ザイードという」
椀を持つ指が、止まった。
(ザイード——)
その名を、レオンは知っていた。冒険者ギルドの新人講習で、誰もが一度は耳にする名だった。三十年前、王国宮廷魔術師団の頂点に立ち、魔王前線の防衛戦線を五年支え、ある日忽然と王宮を辞して山に消えた、伝説の魔術師。教本の挿絵では、白髭の老人として描かれていた。
「……まさか」
「儂を知っておるか。ならば話が早い」
ザイードは囲炉裏の縁に腰を下ろし、レオンの顔を真正面から見た。瞳の奥に、青白い光の名残のようなものが、ほんの一瞬だけ揺れた気がした。それは囲炉裏の炎の照り返しではなかった。炎は橙色で、揺れの周期も違う。あの青は、肉体の外から差した光ではなく、内側から漏れ出た光だった。
「お前の魔力経路を、昨夜から眺めておった。雪の中で死にかけているお前を運びながら、肩を貸す代わりに体の内側を見ておった。儂の趣味と思ってくれて構わん」
「……魔力、経路」
「魔力には流れがある。川と同じだ。本流があり、支流があり、堰がある。お前の本流は——」
ザイードは、自分の喉を木匙の柄で軽く叩いた。
「——堰で、九割方、塞がれておる」
レオンは、椀の中の液面が揺れる音を、自分の手の震えで知った。
「……塞がれて、いる?」
「鑑定の儀でEランクと出ただろう。サポーター・Eランクだ。違うか」
「……はい」
「茶番だ」
ザイードはもう一度、その言葉を使った。雪の中で初めて聞いたときと、同じ平坦な口調で。
「お前のサポート魔法は、本来の出力の一割しか出ておらん。残り九割は、誰かが意図して堰を打ち込んでおる。儂が見たかぎり、堰の細工は丁寧だ。十年以上前の仕事だ。鑑定の儀で水晶玉に手を置いた、あの瞬間ではない」
「十年以上前——」
「——お前が、まだ言葉も覚えぬ赤子だった頃の仕事だ」
レオンの手から、椀が滑り落ちかけた。ザイードが指先で素早く支えた。指の動きは、夜の街道で見せた力業ではなく、職人が薄い陶器を扱う繊細さだった。爪の先が椀の縁を撫でただけで、傾きが止まる。風で舞った木の葉を、地面に触れる前に止めるような動きだった。
「飲み終えてからにせい。話が長くなる」
レオンは無言で、残りの薬湯を一気に喉へ流し込んだ。喉を焼く感覚が、今度は頭の芯まで届いた。
「……俺は、誰かに、魔力を……封じられたんですか」
「封じた、ではない。絞られた、と言うのが正しい」
ザイードは、土間の灰の上に、木匙の柄で簡単な図を描いた。三本の線が中心の点に集まり、点から細い一本の線だけが外へ伸びている。
「お前の魔力の規格は、三本だ。サポート、結界、祝福。三系統が一人の体に同居する例は、儂の知るかぎり、過去三百年で七人しかおらん。そのうち五人は、王家の名簿に名が残っておる。残り二人は——」
ザイードは灰の上の図を、自分の指で消した。
「——名が残らんよう、消された」
レオンは、息を吸うことを忘れた。
「鑑定の儀には欠陥がある。あれは、最も出力の高い一系統だけを読む。お前のように三系統を持つ者の場合、堰で他二つを絞り、残った一つの出力をさらに絞れば、外見上は『Eランクのサポーター』として完成する。儂の若い頃、宮廷で何度か、そういう細工を見た」
「……どうして、俺に」
「分からん。今は、分からん」
ザイードはレオンの顔を、もう一度見た。今度は、その瞳の奥の光が、はっきりと青白く脈打って見えた。脈は、レオンの心拍より一拍だけ遅く、けれども確実な律動で、老人の眼球の奥を内側から照らしていた。それは魔力経路を読む者の眼だ、と本能で分かった。
「だが、儂は、お前の本当の規格を見た。サポートは国家級。結界は儂より上だ。そして——祝福。お前の本流は、サポートではない」
老人は、低く、ゆっくり、宣告するように言った。
「——お前は、祝福術士だ」
その一言が、レオンの胸の中で、何かを音もなく崩した。
三年間、自分に言い聞かせてきた言葉。「俺はEランクのサポーターだ。だから雑用係でも仕方ない。だから、彼らの足元で這うのが当然だ」。その言葉の土台が、囲炉裏の灰のように、内側から崩れていく。崩れた後に何が残るのか、レオンにはまだ分からなかった。ただ、崩れる音だけが、耳の奥で続いていた。
ガレスの「足手まといだ」という声。クレアが机に置いた銀の鎖の音。ミラの、開きかけて閉じた唇。雪の中の、誰のものか分からぬ鉄鎧の破片。
それらすべてが、たった今、別の意味を持ち始めた。
レオンは藁布団の上で、ゆっくりと拳を握った。指先の血が、今度は痛みを伴って、確かに通った。
「……ザイード様」
「様、はいらん」
「……俺は、本当に、無能じゃ、なかったんですか」
ザイードは答えなかった。ただ、もう一度、髭の奥で笑った。それが答えだった。
囲炉裏の薪が、一本、音を立てて崩れた。火の粉が梁の薬草の束のすぐ下まで舞い上がり、また落ちた。ザイードはそれを目で追ってから、ゆっくりと立ち上がった。
「明日の朝、儂はお前の魔力経路の堰を、一段だけ解く」
「……一段?」
「九層の堰だ。一気に解けば、お前の体は今度こそ保たぬ。一段ずつだ。一段解くごとに、お前は今までの自分が、どれだけ低い天井の下で生きてきたかを知る」
ザイードは杖を取り、土間の隅に立てかけた。先端の水晶が、薄く青く光った。
「眠れ。明日の朝までに、お前の体の中で、何かが目を覚ます。それを儂は、外から手伝ってやるだけだ」
レオンは藁布団の上で、もう一度、自分の指を見た。震えは、もう止まっていた。
——明日の朝、自分の中で、何が目を覚ますのか。
外では、雪はもう、降っていなかった。