第3話
第3話
掴んだ手首は、薪より細かった。
指の腹に、二度、三度と早い脈が走る。指先まで冷え切っている。脈の速さで、この子がどれだけ走り続けたかが分かった。手首の骨が、皮の下で直接当たるのが分かる。鎖で擦り切れたあとが、薄い瘡蓋になって俺の親指に当たっていた。瘡蓋の縁は不揃いに尖って、一周ぐるりと、何重にも重なった輪の痕を残していた。何日も、何週間も、外されては繋ぎ直されてきた手首だ、と直感した。
その瞬間、光の鎖が、しゅるり、と最後の一節を埋めた。
俺の右指と、銀の少女の手首が、淡い銀の輪で繋がる。
頭上で、鉄剣の風切り音が止まって見えた。止まったのではない。視界の上端で、刃の縁がぎらりと光ったまま、ほんの一指の幅しか動いていない。木漏れ日の粒も、禿頭の唾液の糸も、全部が水底に沈んだみたいに重い。耳の奥で、自分の心音だけが、どぷん、どぷん、と妙に遠く響いていた。空気が蜜のように粘って、肺の中にじわじわ流れ込んでくる。瞬きの一回が、半呼吸ぶんも引き延ばされている気がした。
ふっ、と、胸の奥に他人の温度が流れ込んできた。
(冷たい)
最初に届いたのは、足首の鉄輪の重さだった。
剥き出しの足の裏に食い込む小石。三日か四日、何も口にしていない胃の縮み方。喉の奥に張りついた泥水の苦み。鎖を引きちぎった時に切った内股の、まだ熱い切り傷。背中に貼りついた汗が、冷めて氷の膜になっている感触まで、一拍遅れて流れ込んでくる。誰かに触られることへの、ぴりっとした拒絶反応も、たぶん同じ流れに混じっていた。鼻の奥に残った、焼け焦げた木と樹脂の匂い。それが彼女の故郷の匂いだと、なぜか分かってしまう。
それから——
(怖い、怖い、怖い)
砕ける一歩手前の細い震えが、俺の心臓の真裏でぱたぱたと跳ね始めた。自分のとは別の鼓動が、胸郭の中で並走している。背骨を一段ずつ、冷たい指で誰かがなぞっていく。指先の感覚が、自分のものか彼女のものか、もう分からなくなりつつあった。
——フィリア。
呼んでもいない名前が、舌の根に置かれた。鎖を経由して、勝手に届いた本人の音だ。
(これが、絶対契約)
なるほど、と思う余裕はまだない。
なぜなら、今度は俺の側から、何かが流れ出ていた。
「——っ」
少女の喉から、初めてはっきりとした声が出た。背後で、息の止まる気配。
たぶん、彼女の側にも届いている。
雨に濡れた踏切のアスファルト。ビニール傘の骨が肩に食い込む感触。深夜二時の薄い壁の向こうの、笑い声だけ大きいバラエティ番組の音。「いってきます」と言っても返事のない朝。教室の窓際、前から四番目の席。九百二十三歩の、アパートまでの道。蛍光灯の白い廊下を、上履きの底だけが鳴らしていく音。給食のミルクを半分残す癖。誕生日に、自分でコンビニのショートケーキを買った時の、レジ袋の重さ。袋の持ち手が、指の付け根に赤い線を残していたこと。それを誰にも見せなかった、ということ。
——心の底から、誰かと繋がりたい。
口に出したことのない一行まで、たぶん、流れていった。
頬が、勝手に熱くなった。
恥ずかしい、と思うより先に、繋がっている手首の向こうで、フィリアの呼吸が一段だけ深くなったのが分かった。震えが止まったわけではない。ただ、震えながら、俺と同じ場所で揺れ始めた。彼女の薄い肩が、ほんの一ミリ、こちら側に傾いてくる気配があった。睫毛の先で、何かを必死に堪えるような小さな痙攣が走り、それから、すっと収まった。
二人ぶんの孤独が、銀の鎖の上で、一つの重さに合算される。
(——俺だけじゃ、なかったのか)
頭上で、鉄剣の重みが、急に再生速度を取り戻した。
「ふざけ——」
禿頭の声が割り込んでくる。木漏れ日が普通の速さで揺れ始める。
俺は、フィリアの手首を引き寄せた。
引き寄せた、というより、自分の左肩で彼女の頭を庇うように回り込んだ。鉄剣の刃が、ブレザーの肩口を斜めに走り抜ける。布が裂ける乾いた音。続いて、左の肩甲骨の上を、熱い線が一本、横切った。
痛い、と思う前に、フィリアが小さく悲鳴を上げた。
彼女のほうが先に痛がった。
(——伝わってる)
俺の痛みが、鎖を逆走している。
「貴方……っ、放して」
フィリアが、ようやくこちらに向けて声を発した。鎖の繋がる手首を、引き戻そうとする。爪の先が、ほんの少しだけ俺の手の甲を引っ掻いた。痛みではなく、拒絶の形だけが残る。
「悪い。放し方が分からない」
肩から血が滲む感覚を背中で受けながら、俺はできるだけ平らな声で答えた。声が震えなかったのが、自分でも不思議だった。喉の奥は乾ききっているのに、舌だけが妙に落ち着いていた。
「それと、今放したら、たぶん、二人とも死ぬ」
フィリアの灰色の瞳が、揺れた。俺の顔、肩の傷、禿頭の鉄剣を順に見て、最後に、自分の手首に絡まった銀の鎖を、初めてまっすぐ見下ろした。瞳の中に、鎖の銀色がちらりと反射して、すぐに消えた。
「これ、貴方の力なの」
「らしい」
「私を、縛るための?」
「——たぶん、二人で立つための、足場だ」
口を出てから、自分でも驚いた。柄にもない言葉が、ローファーの底からするりと這い上がってきた。教室の隅で、誰にも届かないまま飲み込んできた言葉の在庫が、こんな場所で勝手に棚卸しされている気がした。十六年ぶんの、宛先のなかった言葉たちだ。
フィリアが、息を呑んだ。喉仏のない細い首が、こくり、と一度だけ動いた。
*
禿頭の鉄剣が、二度目を振りかぶる。後ろの二人も、にやけながら距離を詰めてくる。革靴が落ち葉を踏みにじる音が、左右からじわりと近づいてきた。
「長耳、その鎖、外れてんじゃねえか」
禿頭の唾が飛ぶ。
「ま、ガキの首と一緒に、もう一度繋いでやるよ」
その瞬間、フィリアの手首から、薄い緑色の光が、ふわっ、と立ち上がった。
「……魔力、が」
掠れた呟き。本人がいちばん驚いている顔だった。
光は、銀の鎖の輪に沿って、二人の腕の間を行き来し始めた。緑の粒が、俺の指の隙間で増え、フィリアの掌の上で渦を巻く。鎖の一節ごとに、輪の縁がほんの少し太く、明るくなっていく。粒の一つひとつが、夏の終わりの蛍火に似た、湿った発光をしていた。粒は呼吸に合わせて明滅し、吸い込むたびに俺の方へ、吐き出すたびに彼女の方へと、互いの肺を行き来した。
(増幅、されてる)
頭の中で、勝手に言葉が出た。フィリアの魔力残量が、鎖を経由して俺の側にも見える。三日歩き通しで底をついていたはずのそれが、二人ぶんの呼吸で薄く混ざって、また一杯になっていく。あふれた分が、彼女の細い指先で、緑の刃の輪郭を描き始める。指先の関節が、緑の光に透けて、内側の骨の影まで一瞬だけ見えた。
「フィリア」
初めて、口に出した。
彼女が、はっと俺を見た。名前を呼ばれた、という事実に、灰色の瞳が一瞬、子どもみたいに丸くなる。睫毛が、上下に二度、ぱちぱちと震えた。誰かに名を呼ばれることに、慣れていない眼の動きだった。
「右の奴」
俺は、傷の浅い右肩で、禿頭を顎で示した。
「やれるか」
「——できる」
返事は、思ったよりずっと短かった。短いのに、奥のほうに固い芯が一本、すっと通っていた。
「契約、ありがとう。人間」
フィリアが、空いている方の手を、すっと前に伸ばした。
緑の渦が、彼女の掌で一点に絞られる。三日ぶんの飢えと、足首に残った鉄輪の重さと、それから——たぶん、里を焼かれた日の何かまで——全部が、その一点に押し込まれていく。
「《精霊よ、薙げ》」
短い詠唱だった。
次の瞬間、緑の光が、横一線に走った。
*
風が、横倒しになった。
禿頭の太い体が、布袋みたいに後ろへ吹き飛ぶ。鉄剣が宙で半回転して、近くの幹にざくりと突き立つ。男は、五メートル後ろの倒木にぶつかって、白目を剥いたまま動かなくなった。
残り二人の革靴が、ぴたりと止まった。腰の縄を握る指が、目に見えて白くなっていく。
「……は?」
「あの長耳、こんな魔力——」
俺の指先で、銀の鎖が、もう一度ぴん、と張った。胸の奥の糸に、まだ余熱がある。一本、また一本と、輪の数を増やす準備を始めている気配があった。
フィリアが、俺を、初めてまっすぐ見上げた。
睫毛の先に、緑の光の名残と、それから別の透明なものが、ひと粒だけ揺れていた。
「——貴方、名前は」
掠れた声だった。
「高峰湊。湊で、いい」
「ミナト」
舌足らずな発音だった。
その音が、胸の奥の糸を、もう一度、ぐ、と短く引いた。
足元で、千切れた鉄輪が、土の上に小さく音を立てた。