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辺境薬草園と片羽の精霊

第1話 第1話

第1話

第1話

馬車の荷台から蹴り出されたとき、舌先にまず土埃の味が広がった。

 リィンは擦り切れた薬研を両腕で抱き直し、膝をついたまま顔を上げる。踵に小石がめり込んで、じわりと鈍い痛みが走った。頬に張り付いた髪は、三日間水浴びもしていないせいで塩を噴いていて、指でほどくと頭皮が軽く引きつれる。

「ここから先は歩け。辺境までは、そっちの細道だ」

 御者は地図すら渡さなかった。硬貨を数える手つきで手綱を引き、馬車は来た道をゆっくり引き返していく。車輪が立てた砂煙が、リィンの肩に落ちたまま薄く膜になった。

 胸の中に抱き込んだ薬研の縁が、あばら骨の一番下に当たって固い。その下に押し付けた母の調合書——角が擦れて丸くなった革表紙の、『エヴァ・マローウィン』と刻まれた名前の溝を、指の腹で一度だけなぞった。王宮の薬師塔で「第七階梯」と呼ばれる筆頭の肩書きを失ったのは、三日前の朝のことだ。

 ——筆頭薬師リィンは、王太后陛下への調薬において毒性の均衡を誤った。

 宣告を読み上げた副長官の声が、今も耳の奥で砂のように鳴っている。誤っていないことは、証拠を突き合わせれば一刻で明らかになるはずだった。けれど、上司の指が台帳をそっと閉じた瞬間、リィンは理解してしまった。均衡なんて、最初から問題ではなかった。

「……もう、考えるな」

 口に出して、自分に言い聞かせる。考えるほど、心臓のあたりが薄く焼ける感じがする。

 立ち上がろうとして、スカートの膝に古い泥がべったり付いているのが見えた。王都を発つときはまだ清潔だった亜麻布が、移送の三日で見知らぬ色に染まっている。指先で払っても、乾いた土は布目の奥にしぶとく入り込んで、薄い模様のようにして残った。

 目の前の道は二股に分かれていた。片方は馬車が戻っていく広い街道。もう片方は、馬一頭が通れるかも怪しい、雑草まみれの細道。辺境——と呼ばれる廃村は、その細道の先にあるのだという。

 リィンは息を吸い込んだ。空気は、塔の薬蔵では一度も嗅いだことのない種類の、青い匂いがした。土と、濡れた葉と、どこか遠くで枯れた草を燃やす煙の微粒子。鼻の奥が、ほんの少しだけ、ほどけた。

 細道は、膝まで雑草が伸びていた。

 葉先に朝露の名残が残っていて、スカートの裾がすぐに重くなる。リィンは踏み分けながら、ふと目についた茂みで足を止めた。葉裏の筋の入り方、茎の節の間隔——野生のスミレガヤだ。王都の市場では、同じ株が銀貨二枚で取引される。薬師団の倉庫に仕舞われていた乾燥品より、葉に走る緑がずっと濃い。

「……こんな場所に」

 摘むかどうか、少し迷って、手は動かさなかった。摘む道具も、陰干しする軒も、今の自分には何ひとつない。薬研の重みが腕を引く。それだけで、足はまた前に進んだ。

 門というほどでもない竹の柵が、倒れたまま通り道の半分を塞いでいた。リィンは裾をつまんで跨ぎ越す。柵の脇で背の高い草むらが揺れ、その根元にもまた、緑の濃い薬草の葉が見えた。ヨモギに似た形だが、裏側が白銀色をしている。王都ではついぞ見たことのない種だ。歩きながら、指先が勝手に葉の輪郭をなぞってしまう。

「……見ないふり、は難しい」

 小さく笑った気がした。笑ったつもりが、口の端が軽く引きつっただけかもしれなかった。

 道の奥で、朽ちた小屋の屋根が見えてきた。茅葺きは半分崩れ、煙突は苔に覆われて黒く湿っている。柱に寄りかかっていたらしい物干し竿が、地面に斜めに倒れて腐っていた。扉は蝶番が片方外れていて、リィンが肩で押すとぎしり、と粉のような木屑をこぼしながら内側に傾いた。

 中は一間きりだった。土間と、板敷きの奥に囲炉裏の跡。隅に転がった木の椀には、鼠の爪痕らしい溝が幾本も走っている。奥の壊れかけた棚には、前の住人のものらしい陶器のかけらと、蓋のない小瓶が数個。中身はとうに乾いて、底に薄い緑の痕だけが残っていた。リィンは小瓶のひとつを取り上げ、鼻先まで運んだ。ごくわずかに、草の匂いがした。誰かが、この場所でかつて薬を練っていたのだ。

 空気は乾いていて、藁と古い煤の匂いがした。塔の薬蔵で嗅ぎ慣れた、何十種類もの精油が混ざり合う重たい香りとは、似ても似つかない。

 リィンは息を吐いて、薬研を囲炉裏の縁にそっと置いた。石の鉢の底が、乾いた灰に軽く沈む。

 ——この薬研で、最後に何を練ったのだったか。

 思い出そうとして、思い出せなかった。ここ半年、筆頭の執務は処方の承認印を押すことばかりで、実際に鉢を握ったのは遥か前のことだ。指先に残っている感覚は、ペンだこと、書類の紙端で切った薄い傷の記憶ばかり。親指の腹を、反対の手で軽く撫でる。小さな鉢の縁を握り続けていたはずの場所が、いつの間にか紙に擦れて平らになっていた。

 前世でも、同じだった。

 小さな診療所の棚に並べた薬袋を、最後まで自分の手で詰めたかった。けれど、納品の締め切りに追われて、いつの間にか封だけ確認するようになり、やがて中身を見ることもなくなった。倒れたのは、夜更けに自販機の前で小銭を落としたときだった。固いアスファルトに膝を打ち付けた、あの感触。冷たい缶コーヒーが指の間から抜け落ちて、胸の中がひどく空っぽになった、あの夜。

 ——また、同じことを、やっていた。

 異世界でも、肩書だけが歩いていた。調薬の配合を最後に自分の手で決めたのが、いつだったか、もう覚えていない。

 リィンは土間の縁にゆっくりと腰を下ろした。床板が鈍く軋み、膝の裏に冷えた空気が当たる。背中を壁に預けると、板の節が肩胛骨のあたりに硬く触れた。

 窓枠の欄間から、西日が一筋差し込んでいた。

 光は土間を斜めに横切って、倒れた椀の欠けの内側を淡く染めている。塵が光の帯の中でゆっくり渦を巻き、時おり気まぐれに揺れた。薬蔵の硝子窓から漏れてくる陽は、いつも薬瓶の液面に屈折して冷たく光るばかりだった。こんなふうに、ただ木と土を温めるだけの光を、最後にいつ見ただろう。

 膝の上に、母の調合書を広げる。

 何度も捲ったせいで、紙の繊維がほつれている頁。幼い自分の指で書き足した、拙い文字。『傷には蜜と葉を練って』『熱には水を多く』——母が病床で、震える手で書き付けた最後の数行を、リィンは指先で一度なぞった。紙の繊維に、かすかに薬草の油が染みている。鼻を近づけると、二十年前の、薄荷と蜂蜜の残り香が、ふわりと指に移った。

 喉の奥が、ゆっくりと温かくなる。

 母は、誰かに使われるために調合書を遺したわけではなかった。毎朝の祈りのように、傷ついた誰かの手を握るための一冊だった。それを、塔の筆頭室で書類の重しにしていた半年間。羊皮紙の束が、革表紙にくっきりと押し跡を残している。

 涙は出なかった。代わりに、頬の内側を軽く噛んで、舌先に鉄の味を呼び込む。塔の奥で研いだ処方のどれよりも、いま舌の上にあるこの味の方が、ずっと自分の形に近い気がした。

 ——もう、誰にも使われない。

 口には出さなかった。声にするほどの大きな決意でもない。明日の朝、薪を拾いに出る。それから、崩れた竈の煉瓦を一つ一つ積み直す。雑草の中からスミレガヤを一本だけ摘んで、朝露を絞って、手の擦り傷にそっと塗ってみる。たったそれだけが、今は暮らしの全てになる。それで、いい。

 自分の手を眺める。爪の間に残った墨の粉を、反対の手の指先でこすり落とした。筆頭室の机で書類に署名するときに付いた黒だ。綺麗には落ちないけれど、この村には、それを咎める人もいなかった。

 リィンはゆっくりと髪紐を解いた。

 三年、塔の規則で頭の上に結い上げ続けていた髪が、肩に落ちる。根元が、じん、と痺れるように痛んだ。痛みは、存外、心地よかった。ほつれた毛先を撫でつけて、調合書を胸に抱き直す。革は、長く塔の書棚に眠っていたはずなのに、今はほんのりと温い。抱いた胸の熱を、ゆっくり吸って返してくるようだった。

 土間の板に頭を預けると、木の節がこめかみに固く当たった。

 夕陽が、閉じた瞼の裏で橙に揺れていた。

 風が、小屋の反対側の壁を細く鳴らしていた。雑草の擦れる音。遠くで、名前を知らない鳥が一度だけ低く鳴いた。音のどれにも、塔の鐘も、副長官の咳払いも、混ざっていない。

 薪の山も、鍋も、塩ひとつぶもない。それでも、朝が来るのを待てる気がした。生まれて初めて、なのかもしれない。

 どれほど浅く眠ったのか、わからない。

 まどろみの中で、窓の外の空気が、ほんの少しだけ、動いた気がした。

 ——葉擦れでは、なかった。

 もっと淡い、光の擦れるような、微かな気配。

 リィンはうっすらと瞼を開けた。小屋の裏の茂みのあたり、地面から掌ひとつ分ほどの高さで、淡い青緑色の光がひとつ、ゆっくりと揺れている。蛍にしては冷たく、鬼火にしては小さい。光は静かに沈み、また浮き上がり、やがて草の影に紛れて消えた。

 目の錯覚、でも構わなかった。旅の疲れが、土と光のあわいに、何か柔らかいものを幻視させただけでも。

 ——明日、見に行こう。

 それだけを決めて、リィンは目を閉じる。胸の上に置いた調合書の革が、先ほどよりも、わずかに温かかった。

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