第3話
第3話
夜明け前の寒さで、目が覚めた。
ストーブの火は、とうに落ちていた。寝台代わりの長椅子から身を起こすと、骨のあちこちが、北の夜を一晩受け止めた軋みを返してくる。窓の外は、まだ薄墨の色だった。霜降り谷、と名付けられた所以のとおり、戸板の隙間からは、冷たく湿った気配が這い込んでくる。
昨夜の鍋に、指を触れてみる。指の腹に、まだわずかな温みが残っていた。蓋を取ると、出汁の匂いが一度立ち昇って、ゆっくりと冷気に溶けていく。その匂いのなかに、干し肉の塩と、根菜の甘みと、芹のほろ苦さが、薄く層をなして沈んでいた。王城の朝厨房で、炊き立ての白米の湯気を嗅いで一日が始まった三十年を、この谷の朝は、冷えた出汁の輪郭ひとつで、静かに置き換えようとしている。
外套を羽織り、閂を外す。戸を引くと、蝶番が白い息を吐くように軋んだ。
足元に、雪が薄く積もっていた。
昨夜にはなかった雪だった。深くはない。靴の甲が沈む程度。けれど、その白の上に、点々と、何かの足跡が散っている。セドリックは膝をつき、吐息で指先を温めてから、その跡に触れた。雪の縁が、指の体温で一瞬だけ溶け、すぐにまた冷たく締まっていく。
肉球が中央にひとつ、前に四つ。爪の跡が、鋭く、前方へ伸びている。
(——狼か)
足跡は、井戸端まで一直線に続いていた。そこで一度止まり、裏手へ回り、家の壁沿いを一周して、街道の方角へ消えている。昨夜、鍋の湯気を匂いに近づいてきたのだろう。扉を閉じて音を立てなかったことに、礼を言うべきかもしれない。
立ち上がる。息の白が、朝の薄闇に長く残った。王城の厨房では、獣の足跡など、肉屋の帳面の数字でしか見たことがなかった。ここでは、足跡そのものが、明日の献立を左右する。
東の稜線が、わずかに藍色に染まり始めていた。
鶏の鳴き声のかわりに、遠くで蹄の音がした。
規則正しい、鎧を着た者の歩調。——昨夜と、同じ歩調だった。
斜面を登ってくる馬の影は、ひとつ。胸鎧が朝の薄明かりに低く光り、肩には、何かを担いでいる。手綱を引くでもなく、馬任せに下ってくるさまも、昨夕と変わらない。
門前で、馬の歩みが止まった。
ヴィルヘルミナ・ロスヴァイセは、兜を脇に抱え、馬の背から降り立つ。鎧の軋む音が、谷の静寂を一度だけ揺らし、それから、またすっと静けさが戻った。肩に担いでいたのは、柄の長い斧だった。刃の部分を麻布で包んである。刃物を扱う者の、作法のある持ち方だった。
「——おはようございます、団長」
セドリックの声は、自分で思ったよりも、穏やかに出た。
ヴィルヘルミナは、頷いた。
それだけだった。
彼女は馬を裏手に回すと、戻ってきて、家の脇にうずたかく積まれた薪の前に立った。斧の麻布を外す。刃先が、夜明けの光に一度だけ鈍く反射した。
「——団長、それは」
「薪だ」
「は」
「昨夜、焚くのが少なかった」
そう言って、彼女は、いちばん太い丸太を台の上に据えた。斧を振り上げる。肩の筋が、鎧の内側で動く音がする。——ぱん、と乾いた音が、谷の向こうまで転がっていった。
割れた薪が、二つ、雪の上に落ちる。
セドリックは、扉の桟に手をかけたまま、しばらく言葉を失っていた。
竜騎士団長が。薪を。
王都の広場に立つ銅像の面影とは、あまりにも違った。けれど、斧を振る背中は、料理人の目には、奇妙なほど手馴れて映る。肩ではなく、腰から斧を落としている。一撃で割れる場所を、目で見るのではなく、木目の流れで探っている。——誰かに、習ったのだろう。それも、ずいぶん若い頃に。刃を引き上げる仕草に、ためらいがない。振り下ろしたあと、次の一振りに移るまでの間合いが、鍋の火加減を見るときの、自分の呼吸とよく似ていた。何十年も同じ手仕事を繰り返した人間だけが身につける、からだの記憶の匂いがした。
二本目の薪が割れる頃、ヴィルヘルミナは、ふと手を止めた。
雪の上の、狼の足跡に、目を落としている。
彼女は斧を置き、家の壁沿いを歩き始めた。足跡のひとつひとつに、靴の裏を重ね、ゆっくりと踏み消していく。急がず、音も立てず、ただ丁寧に。井戸端まで来ると、一度しゃがみ込み、指で雪をならした。指先の動きは、書きかけの文字を消すときの、あの静かな迷いのなさに似ていた。
(……消している)
足跡を、消している。
狼が、この家の周りを嗅いだ痕跡を、丸ごと、なかったことにしている。
セドリックの喉の奥で、昨夜啜った出汁の塩の輪郭が、ふたたびそっと立ち戻った。
獣の通い道を見られて困るのは、獣ではない。困るのは、獣がここに用があったと気取られたくない、人間の側だ。——王城の厨房で、毒見役の背中を何百と見送ってきた男には、その理屈が、指先の冷たさよりも先に染みてきた。誰が、何を、嗅ぎ取りに来ていたのか。そして、それを消したがっているのは、誰の目か。問いは、雪の下に埋もれる足跡のように、形のないまま胸の底へ沈んでいった。
「——団長」
声をかけたが、彼女は顔を上げなかった。壁沿いの最後の足跡まで踏み消すと、ようやく立ち上がり、斧のところへ戻っていく。何事もなかったように、また丸太を台に据える。
「鍋を、煮ておいてくれ、と言ったであろう」
背を向けたまま、彼女は言った。
「——はい」
「煮ておいたか」
「……昨夜の残りは、ございますが。朝の分は、まだ、これから」
「ならば、二人分にしてくれぬか」
ぱん、と、また斧が落ちた。
セドリックは、しばらく、その背中を見ていた。
それから、扉を閉め、竈の前に立った。
(二人分)
三十年、王の食卓のために献立を組んできた手が、たった今、ひとりの騎士のために、鍋を仕立て直そうとしている。それは、どこか不思議な手応えだった。王の膳は、常に秤と規則で量られる仕事だった。けれど、今この手は、誰の規則でもなく、ただ、向こうで薪を割っているひとりの人間の、朝の腹のために動こうとしている。
棚から根菜を下ろす。蕪は、あと二つ。人参は、先のちぎれたのが、もう一本。じゃがいもは、小ぶりを三つ。昨夜の鍋に継ぎ足す形にするか、仕立て直すか、一瞬迷い、継ぎ足すほうを選んだ。昨夜の汁は、一晩の眠りのあいだに、根菜の甘みを深く吸っている。棄てるには、惜しい。
水を足し、火を熾す。薪ストーブの扉を開けると、先刻ヴィルヘルミナが割った、まだ新しい断面の薪が、手元に数本、立てかけられていた。——いつの間に、運び入れたのだろう。断面の木肌は、冬の樫の、赤みを帯びた白さをしていた。
指先で、その木肌に触れる。
朝の冷気に、まだ馴染んでいない。切られたばかりの木は、触れるとわずかに湿っている。その湿りは、この木が昨日まで生きていた証左のようなものだった。
薪を一本、くべる。
鍋の底で、昨夜の汁が、またことことと音を立て始めた。
干し肉を、ひと切れ、叩き直して落とす。芹は、朝露のまだ乗った葉を——井戸端は、団長が踏み固めたばかりだ——裏の石垣から、つまんでくる。
碗を、二つ、棚から下ろした。
並べると、木の目の色が、ひとつは少し赤く、ひとつは少し淡い。兄弟のような、親子のような、揃わない二つだった。王城ならば、すぐに揃えさせた。ここでは、揃わないほうが、この家の卓に似合う気がした。
外で、斧の音が、まだ続いていた。
湯気が、立つ頃、薪を割る音が、ひとつ、ふと途絶えた。
セドリックは、扉を開けた。
ヴィルヘルミナは、斧の刃を、雪で拭っていた。鎧の肩に、薄く汗がにじんでいる。息が、白く、規則正しく、朝の光の中に立ち昇っていた。
「——朝の分、できました」
彼女は顔を上げ、短く頷いた。
「井戸は、のちほど、見せてくれぬか」
「井戸、でございますか」
「昨夜、水が、少し濁っておった」
セドリックは、手にしていた木の匙を、鍋の縁に、そっと置いた。
井戸の水。昨日までは、冴え冴えと澄んでいたはずの、あの水。
前任領主が、半年前に急死したと、放逐状を届けた早馬が、口の端に残しただけの情報だった。——それが、今、朝の湯気の向こうで、ゆっくりと輪郭を取り戻そうとしている。
湯気は、天井まで、細く、長く、立ち昇り続けていた。