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霜降り谷の湯気ごはん

第2話 第2話

第2話

第2話

馬の歩みが、門前で止まった。

鎧の軋む音。蹄が石畳を叩く音。それから、金具を外す低い音が二度。馬の背から、鎧の人影が地に降り立った。雪混じりの枯れ草が、重みで一度ぱきんと鳴る。

セドリックは扉の内側で、三十年ぶりに自分の鼓動を数えていた。一、二、三。——王城の朝礼でも、これほど緊張したことはなかった気がする。ひとりきりの家の中で、ひとりきりの夕餉の湯気の前で、この鼓動だけは、誰に気を遣う必要もない音だった。

扉の向こうから、掠れた、けれど芯の通った声がした。

「——霜降り谷領主、セドリック殿か」

女の声だった。

(女……?)

戸の閂に手をかけた指が、一瞬だけ迷う。竜騎士団長といえば、王都では銅像のように名を聞かされてきた。戦場で竜を御す、鉄の将。そのうちの一人が、よもやこんな北辺まで、しかも女の声で——。

迷ったところで、相手は待ってはくれない。扉を開ける。

夕日を背負った鎧が、立っていた。

肩から胸までの稜線が、鍛えた山脈のように張り出している。それでいて、兜は脇に抱え、露わになった顔は、思っていたより若い。三十前後か。短く刈った銀の髪に、霜の夜の色をした瞳。頬には、古い刀傷が一本、鼻筋を斜めに避けて走っていた。鼻の頭が、寒さで赤い。

「竜騎士団長ヴィルヘルミナ・ロスヴァイセ。——視察に参った」

たったそれだけを言うのに、声の端がわずかに震えていた。疲れ、と呼んでいいのか、迷う震え方だった。

「……どうぞ、中へ」

自分の声のほうが、掠れていた。

彼女は一礼して入り、入り口の脇に兜を置いた。鎧の継ぎ目に、雪の粒が白く残っている。谷の奥を抜けてきたのだろう。馬は裏手に回した、と短く言う。竜は、と訊ねかけて、セドリックは口をつぐむ。地上には連れていない、ということだろう。空にいる竜の影を、夕暮れの谷は、ひょっとすると先刻から映していたのかもしれない。

竈の火が、ぱち、と爆ぜた。

「長旅であろう」

と、セドリックは鍋の蓋を取る。残っていた一碗分の湯に、慌てて——いや、慌てては駄目だ、と手を押さえる。宮廷では、王の御膳でも、焦って動いた手は必ず味を損ねた。

棚の奥から、朝のうちに置いたままだった根菜の束を下ろす。霜降り谷へ向かう途中、宿場の婆さまに分けてもらったものだった。小さな蕪が三つ、人参の先のちぎれたのが一本、それから皺の寄ったじゃがいもが二つ。どれも、冬を越した土の匂いがする。

「そのまま、お待ちいただけるか。——鍋を、仕立て直させてもらう」

振り向くと、ヴィルヘルミナは薪ストーブの前の椅子に座っていた。鎧のまま、背を丸めて、両手を火にかざしている。その肩の線が、ほんの少し、落ちていた。長く馬上にあった者の肩だ、とセドリックは思う。宮廷の廊下で、給仕の銀盆を担いだ少年たちが、夜更けに同じ落ち方をしていたのを、覚えている。

セドリックは、そこに目をとめたまま、包丁を握った。

蕪を輪切りに。厚さは、小指の関節ひとつ分。人参は乱切り。じゃがいもは皮ごと四つ割り。干し肉は、先ほど残った分をもう一度叩き直し、繊維の向きを揃える。

(落ち着け)

刃が蕪に入ると、みずみずしい音がした。茎と根の境目から、ふくふくと汁が滲む。宮廷では、こんな小さな蕪は使わなかった。大きく、形の揃った、産地の札の付いた蕪ばかりが、銀の籠に並んで運ばれてきた。けれど、この小さな蕪は、きっと誰かの畑の隅で、見つけた子どもが喜んで抜いたものなのだ。——そういう根菜の甘さを、自分はずっと知らぬふりをしてきた。

人参の肌は、土の匂いがする。皮を剥かず、泥だけを指の腹で落とす。宮廷の助手たちが見たら、怠慢だと騒いだだろう。けれど、皮の直下に、冬を越した甘みが一番濃く溜まっていることを、セドリックは知っていた。知っていながら、三十年、一度もそう振る舞えなかった。

鍋に水を足す。火を強める。根菜を順に落とす。じゃがいも、人参、最後に蕪。煮崩れの順を、指が覚えている。泡が立ち、灰汁が浮かぶ。木の匙で、丁寧に掬う。灰汁は、鍋の肩口にいったん寄せてから、一息に掬い取る。——給仕長に怒鳴られながら身体に刻まれた手順が、三十年経っても、指の関節に残っていた。

「——旅は、長うございましたか」

背中越しに、小さく訊ねる。

「……六日」

と、短い答えが返った。「雪が、思うたより深くてな。集落は、この谷に、あと幾人残っておる」

セドリックは、灰汁を掬う手を止めた。

「——三十余人、とお聞きしております。ここから半里下った、南の斜面。今はまだ、顔も合わせておりませぬが」

「そうか」

彼女はそれきり黙った。火を見つめる横顔の、まぶたの下に、青い影が沈んでいる。竈の炎が、その影の縁をちろちろと舐める。瞬きの数が、人より少ない人だ、と気づく。見張りの多い場所で、長く眠らずに来た者の眼だった。

塩をひとつまみ。黒胡椒を、ふたつまみ。最後に、井戸端で摘んだ芹の葉を、手でちぎって落とす。蓋をする。

火を、弱める。鍋の底で、小さな泡がひとつ、ふたつと浮いては消えるようになる。沸騰の勢いで、味を殺してはいけない。——じっくりと、煮るというより、温度を預ける、というのが、根菜の出汁を引く肝だった。

湯気が、立つ。

匂いが、部屋をゆっくりと満たしていく。甘い蕪の香り、黒胡椒の刺、干し肉の燻し、そして芹の、青い匂い。セドリックは目を細める。——ほんの少しだけ、匂いの輪郭が、今朝よりもくっきりしている気がした。

鍋の底から、ことこと、と音がし始めた頃、ヴィルヘルミナは火の前で、背筋を伸ばし直した。

「——いい匂いだ」

それが、旅の問答を数えに入れなければ、二言目だった。

セドリックは木の碗に汁を注ぎ、蕪と人参を大きめに一切れずつ乗せ、最後に芹の葉を散らす。宮廷なら、ここで銀の匙を添える。今夜は、木の匙。彼女の前に、両手で碗を置いた。

鎧の籠手は、籠手のままだった。

それを一度見下ろし、ヴィルヘルミナは、左の籠手の留め具を、右手で外した。続いて右も。金属が、床板の上にごとりと重い音を落とす。露わになった手は、思いのほか細長く、指の節が目立ち、甲の筋が張っていた。左手の親指の付け根に、真新しい擦り傷があった。竜を御す者は、手綱のかわりに鞍の前縁を握り込むのだ、と王城の兵隊長が誰かに話していたのを、ふと思い出す。

両手で、碗を包む。

「——いただこう」

木の匙を、そっと汁に沈める。啜る音は、立たなかった。

一口。

彼女の喉が、一度だけ、ゆっくり動いた。

二口目を匙に掬おうとして、その手が、止まった。

セドリックは、向かいに座らなかった。台所の側で、木の匙を鍋の縁に置いたまま、立っていた。三十年、王の食卓を眺め続けてきた立ち位置だった。自分は食べる側ではない。食べる人の、すぐ後ろに立つ影だった。——それが、今はなぜか、ほんの少しだけ、窮屈に感じた。

ヴィルヘルミナは、碗を置いた。

置くのに、ずいぶん長い時間がかかった。

それから、右手の甲で、目元を押さえた。鎧の胸元が、一度、深く、膨らんで、沈んだ。

「——すまぬ」

声が、鎧の内側でくぐもっていた。

「任地に赴くたび、兵糧か、干し麦を齧るばかりでな。温かいものを、頂いたのは……幾年ぶりか、思い出せぬ」

セドリックは、答えなかった。

答える代わりに、鍋の蓋をそっと戻した。湯気が逃げぬように。彼女が、次の一口を啜るまでの時間を、急かさぬように。

火が、ぱち、と鳴る。

外で、夜の風が、戸板を撫でていく。

やがて、ヴィルヘルミナは、匙を取り直した。

今度は、啜る音が、ちいさく、けれどはっきりと、家の中に満ちた。蕪を噛む、やわらかな音。干し肉の繊維を、奥歯で咀嚼する低い音。その音の合間に、鎧が、小さく、ひとつだけ、軋んだ。

セドリックは、目を伏せて、鍋の縁の灰汁をもう一度掬った。

碗の底まで空になる頃、外はもう暗くなっていた。

ヴィルヘルミナは籠手を拾い上げ、留め具を締め直し、立ち上がった。立ち上がる動作の中に、先刻までの疲れが、すっかりは消えていない。けれど、鎧の肩の線は、部屋に入ったときよりも、ほんの少しだけ、軽くなっていた。

「セドリック殿」

「はい」

「——また明日、視察に参る」

兜を、脇に抱え直す。

「鍋を、煮ておいてくれ」

返事をする前に、彼女は扉を出ていた。馬の蹄が、斜面を登っていく。規則正しい、鎧を着た者の歩調が、次第に遠のいていく。

セドリックは、扉の桟に手をかけたまま、しばらく立っていた。

(……視察、と言ったな)

視察なら、一度で済むはずだった。

鍋を、煮ておく。——それは、領主としての仕事では、ない。

鍋の底で、最後の灰汁が、ゆっくりと渦を描いている。湯気は、まだ、天井へ、細く立ち昇っていた。

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