第1話
第1話
指先が、温かい。
それに気づいたのは三十年ぶりだった。王城の厨房では、常に手首の骨まで冷えていた。真夏でも銀器の把手が冷たく、真冬には包丁の柄が鉄の味を思い出させた。
荷馬車の荷台で揺られ、北へ六日。護衛の近衛は昨夜の宿場で引き返し、最後の一里は徒歩だった。革袋に入っているのは先王から下賜された包丁三本と、王妃陛下の好まれた香草の種、それから引退を名目にした体のいい放逐状。霜降り谷領主任命——硬い紙に押された封蝋の、血のような赤だけが鮮明に目に残っている。
霜降り谷。地図で見れば北辺の爪先のような土地で、前任領主が半年前に急死してから、誰も引き取り手のなかった領地だった。
街道から逸れ、枯れ草の斜面を下る。崩れかけた石壁の向こうに、切妻屋根の小さな領主館が一軒。煙突は黒く煤け、窓には板が打ち付けてある。
息を吐く。白く凝った息が、ゆっくりと消えていく。
「——ようやくか」
声が、掠れていた。三十年、号令と返事ばかりに使ってきた喉が、ひとりごとを言うのに手こずる。セドリック、六十歳。宮廷調理長を拝命して十七年、見習いから数えれば三十年。その肩書を、たった今、背中の荷物と一緒に下ろしたところだった。
扉の閂は、錆びていた。体重を預けると軋みながら開く。
中は、思っていたより悪くない。土間に石造りの竈がひとつ、居間には小ぶりの薪ストーブ、隣に木の食卓と椅子が二脚。二階の梁は黒光りしていて、百年は使われてきた家だとわかる。埃の匂い、煤の匂い、それからうっすらと干し草の匂い。
竈の火口を覗き込む。灰はまだ乾いていた。前任の誰かが、律義に掃除をしてから去ったらしい。
「……さて」
袖をまくる。料理人の腕は、右の前腕に三本、左に一本、火傷の跡が走る。どれがどの鍋の記憶か、今ではもう思い出せない。ただ、手首の内側の一筋だけは覚えている。王妃陛下の誕生祝いの夜、助手の少年を庇って熱した鉄板に触れた夜の傷だ。あの少年はいま、厨房で自分の椅子に座っている。それで構わない。
裏手に回ると、井戸があった。靴の下で、朽ちかけた枯れ葉がぱりんと乾いた音を立てる。宮廷の石畳の上では、決して聞くことのできなかった音だった。釣瓶の綱は切れかけていたが、水は澄んでいた。桶に汲み上げて指を浸す。刃のような冷たさが、手のひらまで駆け上がる。
(生きている水だ)
宮廷の浄水器を通した湯とは違う、舌を刺す鋭さ。水面には朝の薄氷が一片、硝子の欠片のように漂っていた。鼻を近づければ、石の匂いと、谷の奥から吹き降ろす冷気の匂いがする。宮廷の水が、常に湯気と香辛料の匂いをまとっていたことを、今さら思い知らされた。水そのものに匂いがあるということを、三十年、誰に教わる機会もなかったのだ。
井戸端の石垣には、野草が縫い付くように生えていた。のびかけた野芹、岩に張り付く薄荷、それから冬を越したらしい枯れた茎の根元から、新しい芽が一本。膝をつき、指先でそっと撫でる。葉の裏の細かな毛が、指紋の溝にくすぐるように触れた。
「……芹、セージの近縁、それに——」
舌先で、ちいさく噛む。
苦い。
それだけは、わかった。
ここ半年、宮廷でスープを味見しても、塩か薄いかの見分けがつかなくなっていた。煮詰めすぎた糖蜜を舌に乗せて、ようやく甘いと感じる。そんな舌で王族の膳を整える恐怖は、剣を突きつけられるよりずっと重かった。だから、この放逐は天啓だった。
荷物から包丁を一本取り出す。三十年連れ添った牛刀。刃先が微かに欠けているのは、去年、凍った鹿の腿を無理に捌いたときの痕だ。研ぎ直す機会を逃したまま、ここまで持ってきてしまった。
芹の根元に刃を入れる。ぱちん、と青い音がした。
(音が、聞こえる)
厨房の喧騒の中では、とっくに失っていた音だった。刃が茎を断つ、その短い破裂の中に、雪解けの湿りと、土の奥の匂いと、まだ来ぬ春の気配までもが、ひとつに畳み込まれている気がした。セドリックは小さく息を呑む。——三十年、自分は、いったい何を切ってきたのだろう。切っては渡し、渡しては消え、自分の手の中に残ったものなど、ほとんど何もなかったのではないか。
ストーブに薪を入れ、小枝で火を起こす。煙突が一度咳き込むように唸ってから、ふう、と素直に吸い込み始めた。鍋をかけ、井戸水を注ぎ、芹の根を刻んで落とす。
荷の中にあったのは、宿場で分けてもらった干し肉ひと握りと、岩塩の塊、王妃から餞別にいただいた黒胡椒が小瓶に一杯。たったそれだけ。
干し肉を三切れ、刃の腹で叩いて繊維をほぐす。沸く前の水に泳がせ、泡が立つより先に灰汁を掬う。銀の匙は使わない。木の匙の方が、湯を傷つけない。——そんなこと、王城の誰に話しても鼻で笑われる類の信念だった。
湯気が、立つ。
薪の爆ぜる音が、時折ぱちんと跳ね、火の粉がひとつふたつ、暗い天井へ昇っては消えていく。鍋の底で湯が静かな旋律を奏で始め、浮かぶ泡のひとつひとつが、やがて来る沸騰の予告をささやくように揺れた。野草の青臭さが湯気に乗って、ふわりと顔に触れる。目を閉じる。鼻腔の奥で、ぼんやりと——ほんの少しだけ、香りの輪郭が戻ってくる。
(戻っている、のか)
塩を、指先でひとつまみ。落とす。
塩の粒が湯面に触れた瞬間、ちいさな、ほんとうに微かな音がした気がした。宮廷の厨房では、銀鍋がぶつかり合う騒音に紛れて、決して拾えなかった音だ。
木の匙で一度だけ掻き混ぜ、蓋をする。
ストーブのそばの椅子に腰を下ろす。背もたれが軋む。窓の外では、西日が谷の斜面を赤く染め始めていた。遠くで鴉が一羽、鳴いた。
三十年。
王の食卓を支えた両手は、毒見役が命を賭ける舌の相手をし続けた。給仕長の号令、見習いの怒鳴り声、銀器が磨かれる音、オーブンの扉が閉まる鈍い音。その中にいると、自分の心臓の音すら聞こえなかった。
ここには、薪が爆ぜる音しかない。
蓋を開ける。
湯気が、天井まで立ち昇る。
碗を一つだけ取り出し、匙で注ぐ。木の碗は、宿場で買い足したものだった。白磁ではない。縁が少しざらつき、口をつけるとぬくもりが唇より先に伝わってくる。
一口、啜る。
——あ、と声が出そうになった。
碗の縁に唇が触れた瞬間、まず湯気が鼻の奥をくすぐり、続いて汁の熱が、舌の先を、そろりと撫でた。旨い、とまでは、まだ言えない。けれど、塩の輪郭がわかる。芹の苦みが、ひとつ遅れて舌の奥に届く。干し肉の脂が、ほんの薄く喉を撫でていく。
三十年ぶりに、自分のためだけに引いた出汁だった。
碗を両手で包む。
指先が、温かい。
手のひらから腕へ、腕から胸のあたりまで、熱がゆっくりと染み通っていく。三十年、料理の熱は、常に自分の手前で止まっていた。王のために、王妃のために、毒見役のために——自分のためだけに温もりを確かめる夜は、ただの一度もなかったのだ。
それが、今日いちばんの発見だった。
「——ここで、いいか」
呟きは、小さく、けれど確かに自分の耳に届いた。
宮廷には、戻らない。
放逐されたのではなく、帰ってきたのだ。そう言い換えるだけで、荷物の重さが半分になった気がした。
碗を空にして、竈の火を細める。
窓辺に立ち、暮れていく谷を眺めた。崩れた畑の畝が、雪の下にわずかに残っているのが見える。明日は井戸の綱を替えて、それから畝の数を数えよう。種はある。手もある。時間も、今度こそ、ある。
——そのときだった。
街道の方角から、低く、地を踏む音が聞こえてきた。
馬の蹄ではない。もっと重い、もっと規則正しい、鎧を着た何者かの歩調。
セドリックは薪ストーブの扉をそっと閉じる。窓から見下ろすと、枯れ草の斜面を一頭の大きな馬が下ってくる。背に、磨かれた胸鎧が夕日を跳ね返す。胸鎧の面には沈みかけた陽がちろちろと躍り、継ぎ目の一本一本までが血のように赤く染まって見えた。騎手は手綱を引くでもなく、ただ馬の歩みに身を任せ、ゆっくりと斜面を下ってくる。その無造作さが、かえって剣呑だった。鎧の肩口には、竜の紋章。
(竜騎士団、か)
こんな辺境に、何の用だろうか。胸の奥で、ひとつだけ火花が散った気がした。放逐状には決して書かれていなかったはずの何かが、今、この谷まで追いかけてきている——そんな予感が、喉の奥に、先刻噛んだ野草の苦みと共に、じわりと戻ってくる。
木の匙を、鍋の縁にそっと置いた。鍋の中には、まだ、一碗分の湯が残っている。
湯気が、ゆっくりと立ち昇っていた。