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異世界食堂・まかないや

第3話 第3話

第3話

第3話

娘の喉から落ちたその音を、悠真は、耳というより胸のどこかで受け止めた。

 湯気が、二人のあいだで、ゆっくりと揺れていた。携帯コンロの青い炎は、風に撫でられるたびにほんの少し背を屈め、またすぐに真っ直ぐ立ち直す。その不器用な揺らぎを、悠真は自分の呼吸に合わせて眺めていた。沢のほうから、水の砕ける音が遠く届き、頭上では、色づいた一枚の葉が、梢から梢へと時間をかけて落ちていくのが見えた。

 娘は、置かれたシエラカップを、しばらく見つめていた。

 銀色の毛並みの、首の裏側にあたる部分が、息に合わせて細かく波打つ。鉄の歯に食い込まれた足首のあたりでは、乾きかけた血が、朝の光を鈍く吸っていた。金色の瞳は、時々ふっと湯気にぼやけ、またカップの縁に焦点を取り戻し、そして悠真の指先まで、ゆっくりと戻ってくる。

 悠真は、境界線のこちら側で、膝を揃えて座っていた。

 立ち上がりもせず、手を伸ばしもしない。両の掌は、コックコートの膝の上に、掌を上にしてそっと置いたままだった。客の前でデセールの最後の一匙を差し出すとき、いつも無意識にしている姿勢だった。こちらには何も握っていませんよ、という形。身体が、いちばん古い仕事の礼儀を、こんな森の真ん中で思い出している。

 やがて、娘の指が、土を離れた。

 爪の先に、湿った落葉の欠片がひとつ、ふたつ、張りついたまま、その細い手が、じりっ、と、シエラカップのほうへ伸ばされる。肩の毛が、気をつけるように、また少し逆立った。悠真の眼の隅では、彼女の耳が、ほんの小さな物音をも逃すまいと、ぴくり、ぴくりと前後している。

 カップの取っ手に、指がかかった。

 熱かったのだろう。娘は、びくりと手を引いた。金色の瞳が大きくなり、叱られたときの仔犬のような、ひどく素直な驚きの色が浮かぶ。悠真は、思わず小さく笑みを漏らしそうになって、口元をかろうじて引き締めた。

 その顔を見て、娘はもう一度、今度は両手で、カップの胴の部分を、そっと包むように持った。

 胴はまだ熱いが、取っ手の付け根ほどではない。掌の皮の厚みが、湯気と塩のにおいを抱き込んで、指の股にじんわりと染みていくのが、離れた場所からでも、悠真にはわかるような気がした。

 娘の鼻先が、湯気の中へ、ゆっくりと埋もれていく。

 銀色のまつ毛が、湯気にぬれて、つやりと光る。鼻腔がふたつ、大きくふくらみ、また細くすぼまる。冷えきっていた頬の、耳の付け根の下のあたりが、湯気に撫でられて、じわ、と色を取り戻していくのが見えた。

【ここまでが冒頭です、展開に続く】

 彼女は、シエラカップの縁に、唇をつけた。

 ほんの少しだけ。ちょっと舌先を浸すような、おそるおそる、という飲み方だった。金色の瞳が、湯気の向こうで、一瞬だけ、凍ったように動かなくなる。悠真の心臓が、勝手に、どくんとひとつ大きく打った。

 それから、娘は、もう一口。今度は、喉を鳴らすようにして、小さく飲んだ。

 こくり、という、その音だけが、窪地の空気をほんの小さく押した。

 次の瞬間、金色の瞳のふちが、ふっとゆるんだ。ゆるんで、そのふちから、透き通ったものが、ひとつ、ふたつ、こぼれ落ちた。銀色の頬を、涙は、湯気の暖かさをなぞるように、ゆっくりと筋を引いて落ちていった。顎のあたりで、雫がひとつ、震えて、とっ、と落葉のうえに吸い込まれていく。

 娘の背中が、短く震えた。

 声は、しばらく出なかった。彼女は、両手でカップを抱え込んだまま、ただ、ぽろぽろと涙を流していた。牙を剥いていた口は、いまは、ちいさく半分だけ開かれていて、そのあいだから、白い息と、湯気と、声にならない、けれどたしかに何かを訴えている音が、混ざって漏れ出てきていた。

 悠真は、動けなかった。

 思わず立ち上がりかけた自分の膝に、もう一度掌をあてて、押し戻した。いまは、近づかない方がいい。近づけば、この空気の形が、崩れてしまう。厨房で、客がそっと目元をおさえながら一皿を食べきるとき、下げにいく足を止めて、遠くからそっと別のテーブルに視線を移す、あの呼吸に、自然と戻っていた。

 やがて、娘の唇が、ゆっくりと、動いた。

「……あ、たた、かい」

 掠れていて、舌ったらずな音の連なりだった。日本語ではない、はずだった。それでも、悠真の耳には、不思議なほどにその形が、まっすぐに届いた。長く凍えた口の奥で、ひとつひとつの音が、湯気に溶かされて、ほどけていくような響きだった。

「ごはん……はじめて」

 娘は、カップを抱きしめるようにして、頬を寄せた。熱い縁が、銀色の頬を押して、赤みを薄くのせる。金色の瞳は、涙でいっぱいのまま、湯気の立つ水面を、ただ、まばたきもせずに見つめていた。

 その背中のあたりで、銀色の尻尾が、ひと揺れ、ふた揺れ、と、土の上を打ちはじめた。

 最初は、戸惑いながら。やがて、堪えきれなくなったように、ぱた、ぱた、ぱた、と、どんどんはやく、どんどん大きく。千切れてしまうのではないか、と心配になるほどに、その尻尾は、落葉を跳ねあげ、枯れ枝を撥ね飛ばして、振れていた。尻尾が地面を叩くたびに、土埃がうっすらと立ち、湯気の白にまぎれていく。

 悠真は、その尻尾を、ただ、見ていた。

 胸の奥の、ずっと昔に鍵をかけたはずの場所で、何かが、小さな、けれどたしかな音を立てて燃え始めた。

 火種の名前は、わからない。

 ただ、厨房で朝六時に玉ねぎを飴色にしていたときの、炒め鍋の底の匂いに近いものだった。あるいは、炊きたての飯の立てる湯気に、祖母が黙って箸を添えてくれた、あの遠い日の光景に、少しだけ似ていた。それらが一緒くたになって、静かに、胸の中で熱を持った。自分がこれまで、誰のために、なんのために、毎日二十時間ちかく厨房に立ってきたのか。その答えが、ようやく、一番わかりやすい形で、目の前に置かれた気がした。本社会議用の売上グラフにも、エリアマネージャーの薄笑いにも、ひとつも答えてもらえなかった問いだった。

 悠真は、コックコートの袖口で、こっそり、自分の目尻を拭った。

【展開ここまで、転機へ】

 それからしばらく、娘は、ゆっくり、ゆっくりと、スープを飲んだ。

 一口ごとに、頬の色が、少しずつ戻っていく。硬くこわばっていた肩の線が、湯気に撫でられてほどけていく。干し肉の薄片を、小さな犬歯で丁寧に噛みしめるたびに、金色の瞳の奥に、幼い驚きが、ふっ、ふっ、と灯っては消えた。

 悠真は、頃合いを見て、膝でにじり寄った。

 境界線の、あと一歩ぶんだけ。娘の耳が、びくりと動く。けれど、もう、牙は見えなかった。悠真は、手のひらを見せたまま、指先で、鉄の歯の付け根のほうを、そっと示した。

「……これ、外そう」

 声を低く、ゆっくりと。娘は、金色の瞳で悠真の顔をしばらく見つめ、それから、こくり、と一度だけ、小さく頷いた。言葉ではなく、湯気と塩と肉の匂いを介した、それは、ちいさな契約だった。

 仕掛けの鉄の歯は、粗い造りのわりに、構造は単純だった。枝のしなりで牙を閉じる、古い型の罠だ。悠真は包丁ケースから、筋引きをゆっくりと抜いた。刃は使わない。柄の丸い峰のほうを、留め金の下に差し込み、梃子の要領で、ぐっと体重をかけた。

 枝の軋む音がして、鉄の歯が、きしりと、口をひらいた。

 悠真は、娘の足首の下に、もう片方の手のひらをそっと添えた。肉に食い込んでいた歯が、ずず、と離れていく。傷口から、新しい血が、ひとすじ細く滲んだ。娘は、歯を食いしばって、声を上げなかった。ただ、こめかみの毛並みの下で、一本、太い血管が、どくりと脈打っていた。

 沢で汲んでおいた水を、油紙で受けて、傷口をそっと洗った。

 タイムの折れ枝に残っていた葉を、指の腹で軽く揉んで、小さな湿布のかわりに傷口へ置く。コックコートの裾から、左袖口の薄い白布を切り取って、細長い帯に裂いた。十年のあいだ毎朝鏡の前で結んできた、そのコックコートの袖が、初めて店の外で人の手当てに使われた。手首の下で、結び目を二度、固く締める。

「……きつく、ないか」

 聞き返しながら、悠真は、娘の顔を見た。

 娘は、自分の足首に巻かれた白い布を、長いこと見つめていた。指先で、そっと、表面をなぞる。そのとき、金色の瞳が、また、ゆるんだ。

 そして、ちいさな声で、言った。

「……ゆき」

「え?」

「なまえ、ゆき」

 悠真は、一瞬、息を止めた。

 雪。あるいは、氷の結晶の、あの冷たくもあたたかい響き。娘が自分の喉から絞り出したその二文字は、湯気のなかで、ほんの少しだけ、ぎこちない形をしていた。

「……悠真」

 名乗ってから、自分の声が、どこかくすぐったいことに、悠真は気づいた。店で、新しいバイトに名を告げるときにはもう、動かない部分の声だった。

「ゆうま」

 ユキは、一度、拙く繰り返した。それから、もう一度、「ゆうま」と、確かめるように呟いた。

 その拍子に、ユキの、包帯を巻かれていないほうの手が、土から離れた。

 すうっと、迷いなく、悠真の右手の、人差し指のあたりに伸びる。小さな、けれど驚くほど力のある指が、悠真の指を、きゅう、と握りしめた。爪の先の冷たさと、掌のまんなかの温かさが、同時に伝わってきて、悠真の喉の奥が、勝手に詰まった。

「……ついてく」

 ユキは、悠真の顔を、まっすぐに見上げて言った。金色の瞳の奥で、涙のあとが、まだほんの少し光っていた。

「ゆうまの、ごはんの、そば」

【転機ここまで、引き】

 悠真は、すぐには答えられなかった。

 答える言葉を、いくつか探して、どれもしっくりこなくて、結局、握られた指を、握り返すのが精一杯だった。ユキの小さな指の骨が、悠真の掌のなかで、硬く、細く、鳴るように感じられた。

 森の奥から、風がひと吹き、梢を撫でて下りてきた。

 針葉樹の青い匂いと、携帯コンロの最後の湯気と、ユキの銀色の毛並みのあいだを、その風はゆっくりと通り抜けていった。悠真は、つないだ手のぬくもりを、左手の包丁ケースのストラップと、ちょうど同じ重さで、胸の奥に受け止めた。

 日本には、たぶん、戻れない。

 沢の辺りで口に出した言葉が、いまはもう、ずいぶん昔のことに思えた。戻れなくていい、と、今度ははっきり、胸の内で言い直せた。戻る場所ではなく、辿り着く場所のほうを、これから探せばいい。この小さな手が、その最初のしるべになってくれるのなら、それは、自分にはもったいないくらいの、巡り合わせだった。

 ユキが、ふと、首をかしげた。鼻先を、風の来たほうへ、ひくり、ひくり、と向ける。

「……ひと、いる」

 銀色の耳が、森の奥の一点を向いて、ぴんと立った。

 悠真は、まだ見ぬその方角の梢を、ユキの指先の温かさを握ったまま、ゆっくりと見上げた。

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