第3話
第3話
朝の鐘が六度鳴った時、宿舎の廊下が騒がしかった。
レイドは寝台の上で目を開けた。昨夜の禁書庫のやり取りが、まだ手首に残っている。爪の跡が赤く浮いていた。窓の外はまだ薄暗い。いつもの朝より、鐘の回数が一度早い。
「——全員起きろ。緊急招集だ」
廊下を駆ける足音。扉が次々に叩かれる音。レイドは寝台から降り、外套を羽織った。
扉を開けると、副団長のカルロが顔を突き出した。
「記録係も来い。詰所だ」
「何が——」
「動け」
答えはなかった。カルロの表情は硬い。いつもの嘲りの色がなかった。何かが、起きている。
詰所に集まった魔導士は三十人を超えていた。全員が青ざめた顔をしている。壁際に、アルヴィスが立っていた。金の長髪は梳かれておらず、外套の襟も整っていない。昨夜のままの服装だった。
国王の側近、伯爵レーデンが前に立っていた。
「——昨夜、禁書庫から古代禁術書が一冊、消失した。書名は『黎明の刻印』。魔導文明期の遺品であり、国家の秘宝に等しい」
息を呑む音が、部屋のあちこちで上がった。
レイドは壁際に立ち、それを聞いていた。『黎明の刻印』。聞いたことのない書名だ。だが昨夜、棚の奥にあった羊皮紙。焼け焦げた縁。三本の縦線が交差する紋様。——関係があるのか。指先が冷えていく感覚があった。詰所の空気は、外気よりもなお冷たい。松明の火が揺れるたび、壁に映る魔導士たちの影が震えて見えた。誰もが隣を見て、すぐに目を伏せる。疑いが、室内に漂い始めていた。
「犯人は内部の者の可能性が高い」
レーデンが続けた。
「禁書庫の錠前は外部からは破れぬ。認証術式の記録を、今、照合している。全員、事情聴取に応じてもらう」
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カルロが名簿を読み上げ始めた。呼ばれた順に、別室で聴取を受ける。レイドの名は、一番最後に呼ばれた。
待たされている間、壁際の床の冷たさが靴底を通って膝まで上がってきた。先に聴取を終えた者たちが、部屋に戻らず別の廊下へと連れて行かれていくのが見えた。通常の手続きではない。何かが最初から、動き始めている。
聴取室に入ると、長机の向こうにアルヴィスとレーデン、それから人事評議会の老臣が座っていた。
机の上には羊皮紙の束と、黒い封蝋のついた書状が一通。老臣の手元の羽根ペンは、既にインクを含んでいた。まだ何も聞かれる前から、書き取られる準備だけが整っている。
「名前」
「レイド・アルデン。記録係」
「昨夜の動向を話せ」
レイドは事実を述べた。夕刻、禁書庫で目録整理を行った。許可期限の確認不足で入ってしまった。アルヴィス団長に見つかり、退去を命じられた。その後は宿舎の自室で研究ノートをまとめ、就寝した——。
「——団長に、見つかった」
レーデンの眉が動いた。視線がアルヴィスに向く。
「アルヴィス殿、確かか」
「ええ。記録係が許可なく禁書庫に侵入していたのを、私が退去させました。その後の行動は、私には分かりかねます」
アルヴィスが静かに言った。声に揺れはなく、抑揚は普段の鍛錬指示の時と同じだった。レイドは顔を上げた。
——許可なく。
昨日までは許可があった。期限は今日までのはずだった。だがアルヴィスは昨夜、「昨日までだ」と言った。通達書には——確認していない。読まずにしまい込んだ。あの時、棚の奥から羊皮紙を取り上げるアルヴィスの手が、わずかに震えていた。あれは恐れだと、昨夜の自分は確かにそう読んだ。だが今、机の向こうに座る男の指は、微動だにしていない。
「通達書には、期限は今日までと」
レイドは静かに反論した。
「その通達書は、確認したのか」
レーデンの声が鋭くなった。レイドは唇を結んだ。口の中がわずかに乾いていた。
「……していません」
「では、許可なく侵入したと認めるのだな」
「——認めます。しかし、禁術書には触れていません」
「触れていない、と言い切れるか」
アルヴィスが口を開いた。
「私が退去させた後、貴殿がどこで何をしていたか。証人はいるのですか」
レイドは沈黙した。宿舎の自室に戻り、ノートを書いた。それだけだ。廊下ですれ違った者もいない。鐘が鳴るまで、誰の声も聞いていない。証人はいない。
「——いません」
聴取室の空気が、重く沈んだ。老臣が書類に何かを書き付けている。羽根ペンの先が羊皮紙を擦る音だけが、しばらく続いた。レーデンがアルヴィスに耳打ちした。その囁きは聞き取れない。だが、言葉の尻にわずかに疑問の抑揚があった。アルヴィスは頷き、副官を呼び寄せた。
「記録係の私室を、今すぐ捜索しろ」
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捜索は、十分で終わった。
副官が戻ってきた時、その手には布に包まれた何かがあった。長机の上に広げられる。布が剥がされる、かすかな擦れの音。
古びた本。革表紙。背表紙に刻まれた古代文字。
——『黎明の刻印』。
レイドは立ち上がりかけた。膝が机に当たった。木の音が、石壁に跳ね返って戻ってきた。
「違う」
声が喉で潰れた。あの本は、昨夜、自分の部屋にはなかった。断じて。机の引き出しを確認したのは就寝前だ。研究ノートを入れる時に、引き出しの中を見ている。こんな大きな書物があれば、気づかないはずがない。寝台の下も、朝に外套を取る時に足が触れていたはずだ。革の重みがあれば、蹴った足に必ず返ってくる。そうした違和感は、何一つなかった。
「レイド・アルデン」
レーデンの声が、氷のように降りてきた。
「お前の寝台の下から発見された」
「違う、私は——」
「昨夜、禁書庫で目録整理中に退去を命じられた。その後、自室に戻った。朝、寝台の下から禁術書が発見された。——十分だ」
「お待ちください、それは——」
言葉が、続かなかった。誰が、いつ。考える間もなかった。自分が眠っている間に、誰かが扉の錠を開け、寝台の下に本を差し入れ、また錠をかけて去った。そんな真似ができる者は、この団でも限られる。
視線が、アルヴィスに向いた。
金の長髪の下、その顔には表情がない。薄い笑みすら、浮かんでいなかった。ただ静かに、こちらを見ていた。昨夜、禁書庫で見せた「恐れ」の色は、もうどこにもなかった。あの震えは演技だった。震えて見せれば、下位の者は「団長も人の子だ」と錯覚する。そうして警戒を解く。古典的な手だ。自分はそれに、綺麗に乗った。
——嵌められた。
理解が、遅れて腹の底に落ちた。冷たい石を飲み込んだような重さがあった。
昨夜、禁書庫で羊皮紙を取り上げたのも。通達書を確認させぬまま追い返したのも。全て、今日のこの場面に繋げるための布石だった。許可切れの侵入という事実と、自室から発見される禁術書。構図は完璧に整っている。呼吸が浅くなる。指先の感覚が遠くなる。頭の奥で、昨夜のアルヴィスの声が反響していた。——「昨日までだ」。あの一言が、この地下への扉を開ける最初の鍵だった。
「弁明は」
レーデンが問うた。
口を開こうとした。だが、何を言えばいい。証人はいない。禁書庫に入った事実は認めた。自室に物があった事実も否定できない。誰が運び込んだかを証明する手段はない。
レイドは、長机の上の本を見つめた。
革表紙の光沢。背表紙の古代文字。その文字の一部に、昨夜の羊皮紙と同じ紋様があった。三本の縦線が交差する記号。——この本は、あの羊皮紙と同じ系統の遺物だ。
そして今、この本が自分の罪の証拠として置かれている。
「……弁明は、ありません」
レイドは言った。
しても届かぬと分かっていた。この場の空気が、既に判決を下している。老臣の書類には、有罪と書かれているだろう。レーデンはその署名を待っているだけだ。
アルヴィスが、ようやく口を開いた。
「——禁域出身の男を、最初から警戒すべきでした。出自の知れぬ者に、国家の秘宝を扱わせるべきではなかったのです」
その声に、もう「恐れ」はなかった。代わりに、わずかな満足の響きがあった。一段、低く、滑らかな声だった。
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レイドは手枷を嵌められ、聴取室を出た。
廊下を歩かされる。すれ違う魔導士たちは、目を逸らすか、侮蔑の視線を投げてきた。昨日までの嘲りとは違う。軽蔑が、ひとつ層を増していた。禁術書を盗んだ大罪人への視線に。中には、昨日まで挨拶を交わしていた下級魔導士の顔もあった。その目が、今朝は他の者と同じ色をしていた。
石の廊下の冷たさが、足裏から這い上がる。
地下房の扉が開いた。狭い石室。寝台すらない。床の隅に水差しが一つ。格子の向こうで扉が閉じられ、鍵の音が響いた。鉄が鉄に噛み合う、重い音だった。
レイドは壁に背を預け、床に座り込んだ。
手首に、昨夜の爪の跡がまだ赤い。そこに今、手枷の鉄が冷たく当たっていた。二重の拘束が、同じ場所に重なっている。
三日後に審問が開かれる、と告げられていた。
形だけの審問だろう。判決は、既に出ている。
その時、レイドはまだ知らなかった。審問の場に並べられる「証言」が、どれほど徹底的に自分を嵌めるものであるかを。そしてその審問の後、王都の結界に走る、最初の亀裂のことを。