第2話
第2話
朝の鐘が七度鳴っても、レイドの体は石のように重かった。
宿舎の細い窓から差し込む光が、毛布を切り裂くように落ちていた。瞼を開けると、天井の木目がぼやけて見える。魔力の空になった体は泥のようで、舌の付け根に鉄の味が残っていた。三時間の精密作業で、奥歯を噛み締め続けた跡だ。
手探りで水差しを掴み、直接口をつけて飲む。冷たい水が食道を滑り落ちる感触だけが、かろうじて現実の手触りを返してくる。指先は今も小刻みに震えていた。
寝坊だ。
寝台から体を引き剥がし、皺だらけの外套を羽織る。朝の点呼には間に合わない。
詰所に着いた時、報告はすでに始まっていた。
「——記録係。遅刻だぞ」
副団長のカルロが書類から目を上げもせず言った。壁際に並んだ魔導士たちが、こちらを一瞥する。嘲りと無関心が半々に混じった視線だった。
「申し訳ありません」
レイドは壁の端に立ち、頭を下げた。
「昨夜は何をしていた」
「……書類の整理です」
「ほう。書類の整理で寝坊か。記録係の仕事は随分と重労働らしいな」
笑い声が上がる。背の高い魔導士が肘で隣を小突いた。
「どうせ酒でも飲んでたんだろ」
「おい記録係、今度は団長の酌もしてこい」
「ははは」
レイドは顔を上げなかった。床の石目の数を数えた。三十七、三十八、三十九。点呼が終わる頃には、百を超えていた。
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魔導士たちが各々の持ち場に散ると、レイドには雑務が回ってきた。書庫の目録整理、備品の在庫記録、先日の演習報告書の清書。記録係の仕事だ。
詰所の奥の小部屋に入り、机の前に座る。積まれた書類の山を前に、羽ペンを取った。
演習報告書。昨日、アルヴィスが主導したという訓練の記録だ。実績と賞賛ばかりが並んでいる。実際にはアルヴィスは途中で宮廷の会食に呼ばれて席を外し、演習を仕切ったのは副団長のカルロだった。後で呼ばれたレイドが、穴埋めの書類を作った。
今もまた、同じ構造の書類を清書している。
羽ペンの先が紙を擦る音だけが、小部屋に響く。壁に掛けた感知石がちらりと揺れた。第七層、外縁部。レイドは一瞬、顔を上げる。すぐに収まった。昨夜修復した箇所の余震だ。問題はない。
「記録係、これも頼む」
扉が開き、若い魔導士が書類を投げ入れて去っていった。昨夜の夜勤報告書の下書き。見出しには『アルヴィス・レーヴェン 直筆』と書かれている。中身は空白だった。
「……清書しろってことか」
誰もいない部屋で呟く。羽ペンの先を見つめた。インクが乾きかけて、先端にわずかな黒い塊ができている。それを布で拭い、新しいインク壺に浸した。手が、また震えていた。
昼過ぎ、伝令の少年が書類を一通持ってきた。
「レイド魔導士殿。人事課からの通達書です」
封蝋には魔導士団の紋章。封を切ると、一枚の紙が現れた。
『レイド・アルデン 昇進審査の件。本年度、審査対象より除外する。理由——勤務態度に関する複数の報告により、現時点での昇進は不適切と判断する。次回の再審査は三年後とする。宮廷魔導士団 人事評議会』
指が止まった。
記録係として配属されて、今年で三年目。本来なら昇進審査に上がる年だった。正規の魔導士枠——結界維持の責任者。ずっと目指してきた席だ。
三年延期。つまり、六年目まで待てということ。そのさらに先にまた審査があり、また凍結される未来が、目に見えている。
通達書を二度、三度と読み返す。『勤務態度に関する複数の報告』の文字が、灰色に滲んで見えた。報告を上げたのが誰かは、聞くまでもない。喉の奥で、乾いた笑いが一度だけ鳴った。声にはならなかった。窓の外で鳩が鳴いている。のどかな昼下がりの音が、かえって耳に障った。
ペンを置き、通達書を引き出しの奥にしまう。奥には、同じような通達書がもう二枚入っていた。一年前のもの、二年前のもの。文面はほとんど同じだった。三枚の紙の端がわずかに揃っていないのを、指先で直す。そんなことに意味はないと分かっていても、指が勝手に動いた。
呼吸を一度、整える。
それから、レイドは清書作業に戻った。羽ペンの先が紙に触れる音だけが、小部屋に続いていた。
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夕刻。レイドは禁書庫の扉の前にいた。
目録整理の続き、という名目を立てていた。昨日、棚の奥で見つけたあの羊皮紙が、気にかかっている。見たことのない文字体系。だが、どこかで見覚えがあった。頭の奥の、もっと深い場所で。
扉の錠前に手をかざし、認証術式を通す。記録係の権限では本来、禁書庫への出入りは限定されている。だが目録整理の業務中だけは、臨時の許可が下りていた。今日はその最終日だった。
扉を押し開ける。埃と古紙の匂いが一気に押し寄せた。魔導書の表紙に塗られた獣皮の油の、微かな獣臭も混じる。窓のない書庫は、魔石灯の青白い光だけに照らされていた。
足音を殺して、奥の棚へ向かった。
あった。
三段目の棚の奥、他の書物の影になった場所に、あの羊皮紙は残っていた。拾い上げて、灯りの下に運ぶ。
縁が焼け焦げている。元は何かの書物の一部だったのだろう。記されている文字は、現代魔導文字ではない。古代の楔形でもなく、東方の象形でもない。見たことのない体系だった。
だが——
指先で、羊皮紙の表面をなぞる。乾いた羊皮の感触の奥に、かすかな熱のようなものが残っているように思えた。気のせいかもしれない。けれど指先の震えが、一瞬だけ止まった。
一番上の記号。三本の縦線が交差する紋様。これを、知っている。
瞼の裏に、断片が流れた。
焼け落ちる集落。夜なのに真昼のように明るい炎。誰かの腕が自分を抱え、走っていた。その腕の持ち主の顔は見えない。ただ、胸の温かさと、汗の匂いだけが記憶に残っている。
視界の端に、光の柱が立っていた。天まで届く白い柱。その柱の根元に、この記号と同じ紋様が描かれていた。
「……何だ、これは」
呟きが唇から漏れた。
禁域で保護された時、レイドは五歳だった。それ以前の記憶は、ほとんどない。断片的な光景が、時折夢に出てくるだけだ。だが今、この羊皮紙の記号を見ていると、夢の輪郭がはっきりしてくる。自分はこの文字を、知っている。どこかで、確かに。
羊皮紙を灯りに近づける。他の記号も、よく見れば何かを指している気がした。右端の二文字。あれは——
「——そこで何をしている」
声が背後から降ってきた。
レイドは振り返った。書庫の入口に、アルヴィスが立っていた。金の長髪が青白い魔石灯の下で冷たく光っている。いつもの薄い笑みはない。表情は、ただ静かだった。
「目録整理を」
「許可は切れているはずだ」
「今日までのはずですが」
「期限は昨日までだ。人事課から通達が行かなかったか」
レイドは手の中の羊皮紙に視線を落とした。通達書。あの昇進凍結と一緒に届いた、もう一枚の書類。確か、読まずにしまい込んだ——。
「……確認不足でした」
「何を見ていた」
アルヴィスがゆっくり歩み寄ってくる。足音は立てない。だが、気配だけが重かった。書棚の隙間を通る空気までが、わずかに張り詰めているように感じた。
レイドは羊皮紙を棚に戻そうとした。
「それを置け」
アルヴィスの指が、レイドの手首を掴んだ。爪が食い込むほどの力だった。羊皮紙がアルヴィスの手に移り、懐にしまわれる。
「記録係が、触るな」
その声は、低かった。いつもの傲慢ではなく、別の感情が滲んでいた。
——恐れ、のようにも聞こえた。
「出ろ」
レイドは頭を下げ、書庫を出た。背後で扉が閉まる音が、石の廊下に重く響いた。掴まれた手首に、爪の跡が赤く残っていた。
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宿舎に戻ったのは、日がすっかり落ちた後だった。
自室の窓を閉め、机に向かう。引き出しから研究ノートを取り出し、羊皮紙で見た記号を、記憶のままに書き写した。三本の縦線が交差する紋様。右端の二文字。細部は曖昧だが、形は覚えている。
ペンを走らせながら、レイドは考えた。
アルヴィスは、あの羊皮紙を知っていた。禁書庫に出入りする団長が、存在に気づいていないはずがない。だが放置していた。それが今日、レイドが触れた瞬間に取り上げられた。
何を、隠している。
あの時のアルヴィスの声を思い出す。——記録係が、触るな。あの声に滲んでいたのは、軽蔑ではなかった。
ノートを閉じ、窓の外を見た。
王都の夜は静かだった。結界は安定している。二十万の市民は眠り、レイドが直した術式の下で安らかに夢を見ている。
何事も、変わらない夜のはずだった。
その夜、禁書庫で何が起きていたのか、レイドが知ることになるのは翌朝である。古代の禁術書が一冊、跡形もなく消えていた。そして王宮の捜索令の矛先は、まっすぐレイドに向けられることになる。