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結界の記録係は追放された

第1話 第1話

第1話

第1話

王都ラグナリアの結界が、震えた。

真夜中。宮廷魔導士団の宿舎で、レイドの意識が一瞬で覚醒する。枕元に置いた感知石が赤く明滅していた。結界の第七層——基底術式に異常。

寝台を蹴って廊下に出る。他の部屋はどこも静かだった。石壁の向こうから微かな寝息が漏れている。感知石を支給されているのは正規の魔導士だけで、記録係のレイドが持っているのは自作の品だ。当然、誰にも通知は届かない。

「……また俺だけか」

呟きは独り言にもならなかった。外套を羽織り、宿舎の裏口から夜の王都へ駆け出す。

月明かりに照らされた石畳を走りながら、術式の状態を探る。夜気が肺を刺した。春とはいえ深夜の王都は冷える。吐く息が白く、外套の裾が石畳を叩く音だけが通りに響いていた。第七層の紋様回路に歪みが生じている。放置すれば三時間で第六層に波及し、夜明けまでに結界全体が機能不全を起こす。王都の人口は二十万。結界が落ちれば、外周の森から魔獣が雪崩れ込む。

結界の制御核がある中央塔に着いたのは、異常検知から八分後だった。

守衛は居眠りしていた。レイドは音を立てずに脇を通り過ぎ、螺旋階段を駆け上がる。制御室の扉に手をかざすと、錠前の認証術式が反応した。記録係の権限では本来入れない。だがこの錠前の術式を組んだのもレイドだ。保守用の経路は最初から仕込んである。

制御核の前に立つ。巨大な魔石の表面に、蜘蛛の巣のような亀裂が走る術式紋様が浮かんでいた。部屋全体が低い唸りを上げている。魔石から漏れ出す光が壁面の影を不規則に揺らし、空気そのものが軋んでいるような圧迫感があった。

「第七層の南西区画。接合部の劣化じゃない、これは——共振崩壊の初期段階だ」

指先から魔力を伸ばし、損傷箇所を正確に特定していく。レイドの目には、術式の構造が立体的な図面として映る。宮廷魔導士団の誰よりも、この結界の全容を把握しているのは記録係の自分だという事実に、もう苦笑いすら出ない。

修復に取りかかる。歪んだ紋様回路を一本ずつ解き、再接合する。繊細な作業だった。力任せにやれば回路そのものが焼き切れる。指先に集中させた魔力の糸を、髪の毛ほどの精度で紋様の溝に通していく。回路の一本が繋がるたびに、微かな光が走り、魔石の表面で波紋のように広がった。だが同時に、隣接する回路が共振で震え始める。一箇所を直せば別の箇所に負荷がかかる。まるで絡まった糸を解くように、全体の均衡を読みながら進めるしかなかった。レイドは額に汗を浮かべながら、三時間かけて第七層の全紋様を再構築した。

窓の外が白み始めた頃、最後の接合部が安定した。感知石の明滅が止まり、静かな青に戻る。

レイドは制御室の床に座り込み、荒い息をついた。背を石壁に預けると、冷たさが汗ばんだ体に染みた。指先が小刻みに震えている。三時間の精密作業で魔力はほぼ空だった。視界の端がちらつき、こめかみの奥に鈍い痛みが脈打っている。魔力の枯渇は肉体にも跳ね返る。立ち上がろうとした膝が一度折れ、壁に手をついてようやく体を支えた。作業の記録を術式ノートに書き留める。損傷箇所、原因の推定、修復に用いた手順。几帳面な文字が羊皮紙を埋めていく。

このノートも、どうせ明日には回収される。いつものことだ。

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「——私が夜通し調整にあたり、結界の安定を取り戻しました」

翌朝。謁見の間に響くアルヴィスの声を、レイドは廊下の端で聞いていた。

宮廷魔導士団団長アルヴィス・レーヴェン。金の長髪に整った顔立ち。名門貴族の出身で、弁舌に長け、宮廷政治に明るい。魔導士としての腕は——中の上、というのがレイドの率直な評価だった。少なくとも、結界の第七層を単独で修復できる技量はない。

「さすがはアルヴィス殿。王都の守りは貴殿あってのもの」

国王の称賛に、アルヴィスが優雅に頭を下げる。その横で副団長や幹部たちが満足げに頷いていた。全員が知っている。昨夜、誰一人として結界の異常に気づかなかったことを。そして全員が黙っている。

レイドは柱の影から視線を外し、静かに廊下を戻った。怒りは、もうない。最初の一年は拳を握り締めたこともあった。だが三年も経てば、感情は擦り減って鈍くなる。残っているのは、事実の認識だけだ。自分の役割は結界を維持すること。それ以上でも以下でもない。名前がどこにも残らないことは、とうに織り込み済みだった。

「レイド」

謁見が終わった後、団長室に呼び出された。アルヴィスは執務机に肘をつき、薄い笑みを浮かべている。

「昨夜の術式ノート、提出しろ」

「……ここに」

革表紙のノートを差し出す。アルヴィスはそれを受け取りもせず、副官に顎で示した。副官がノートを回収し、棚に並ぶ同じ装丁のノートの列に加える。背表紙にはすべて『アルヴィス・レーヴェン』の名が刻まれていた。

何十冊もの——レイドが書いた術式ノートの列。

「ご苦労。下がれ」

レイドは一礼して部屋を出た。廊下で同期の魔導士二人とすれ違う。

「おい、記録係。また団長の部屋に呼ばれてたのか?」

「下書きの清書でもしてたんだろ。お前にできるのはそれくらいだしな」

笑い声が背中に当たる。レイドは振り返らずに歩いた。

宿舎に戻る途中、中庭のベンチに老魔導士が座っていた。ヨルグ。七十を超えた元主席魔導士で、今は半ば引退して顧問職に就いている。陽だまりの中で茶を飲んでいたが、レイドの姿を見ると目を細めた。

「昨夜も結界が揺れたな」

ヨルグの言葉に、レイドは足を止めた。

「気づいていたんですか」

「感知石は手放しとらん。——で、またお前が直したんだろう」

沈黙が答えだった。ヨルグは深い皺の刻まれた顔で空を見上げる。春の陽射しが老魔導士の白髪を透かし、穏やかな風が中庭の若葉を揺らしていた。その平和な光景が、昨夜の緊迫とあまりに隔たっていて、レイドは一瞬、昨夜のことが夢だったような錯覚を覚えた。

「レイド。お前がいなくなったら、この国は終わるぞ」

「大袈裟ですよ、先生」

「大袈裟なものか。あの結界の全構造を理解しているのは、今やお前だけだ。アルヴィスには逆立ちしても——」

「先生」

レイドが静かに遮った。ヨルグは口を閉じ、苦い顔をした。

「……すまん。愚痴を言っても仕方がないな」

老魔導士は茶碗を傾けて最後の一口を飲み干すと、独り言のように付け加えた。

「だがな、レイド。仕方がない、で済ませ続けると、人はどこかで壊れる。わしはそういう奴を何人も見てきた」

レイドは小さく頭を下げて、その場を離れた。

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宿舎の自室。六畳ほどの狭い部屋に、簡素な寝台と机だけが置かれている。正規の魔導士に与えられる個室の半分以下の広さだった。壁には窓がひとつ。日当たりは悪くないが、隣室の正規魔導士が荷物置きに使っている物置部屋のほうがまだ広い。

机の引き出しから、もう一冊のノートを取り出す。こちらは提出用ではない。レイドが個人的に記録し続けている研究ノートだ。結界の構造分析、術式の改良案、そして——禁書庫で見かけた古代文字の断片。

先日、目録の整理で禁書庫に入った際、棚の奥に一枚の羊皮紙が落ちていた。見たことのない文字体系。だが不思議と、いくつかの記号はレイドの目に馴染んだ。幼い頃の記憶——禁域で保護される前の、断片的な映像と重なるものがあった。焼け落ちた集落。誰かの手が自分を抱えて走る感覚。そしてあの光——視界を焼くほどの白い光の中に、同じ記号が浮かんでいた気がする。

読み解こうとしたところで、アルヴィスに追い出された。「記録係が禁書庫で何をしている。触るな、出ろ」。あの羊皮紙がまだあの棚にあるかどうかも分からない。

ノートを閉じ、窓の外を見る。王都の空は晴れていた。結界は安定している。レイドが直したから。

明日も結界は揺れるだろう。明後日も。そしてレイドが直し、アルヴィスが手柄を取る。この構造は変わらない。禁域で拾われた孤児に、宮廷で成り上がる道はない。

それでも、レイドは結界を直し続ける。二十万の市民は何も知らない。知らなくていい。結界が王都を守り、レイドが結界を守る。それだけの話だ。

──そう思っていた。

禁書庫から古代の禁術書が消えたのは、その三日後のことだった。そしてレイドの運命は、取り返しのつかない方向へ動き出す。

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