第1話
第1話
真夜中の王城で、光っているのはアルスの手だけだった。
地下祭壇への階段を降りるたび、空気が変わる。湿った石壁の匂い、松明も届かない闇、そして足元から伝わる微かな振動——結界石が放つ魔力の残響だ。十二年間、毎晩この階段を降りてきた。体が道を覚えている。暗闇の中でも一段も踏み外さない。
結界の核——地下祭壇に据えられた巨大な結界石に、両手を押し当てる。石の表面はひんやりと冷たく、指先が触れた瞬間、奥底から脈打つような微動が伝わってくる。全身の魔力が指先から流れ出し、石の表面に刻まれた術式が淡く脈動する。十二年間、毎晩繰り返してきた作業だ。
結界石は自律駆動しない。そんなことは術式を見れば分かる。だが、この事実を理解している人間は、もうこの宮廷にはいない。
「……第七区画、微細亀裂。修復」
呟きながら、魔力の流れを微調整する。王都を覆う防御結界は十六区画に分割されており、それぞれの劣化状態が異なる。どこに、どれだけの魔力を、どの配分で注ぐか。それを毎夜、感覚だけで制御し続けている。
第七区画の亀裂に魔力を流し込むと、指先に鋭い痛みが走った。石の内側で術式が軋んでいる。まるで老朽化した堤防に水を注いでいるような感覚だ。亀裂を塞ぐには、ただ魔力を注ぐだけでは足りない。術式の編み目に沿って、一本ずつ糸を繕うように、魔力を丁寧に織り込んでいく必要がある。
額に汗が浮かぶ。今夜の消費量は通常より多い。北東区画の劣化が進んでいる。術式の綻びが、先月までとは明らかに質が違う。単なる経年劣化ではなく、何かが外側から圧をかけているような——そんな違和感が指先に残った。
二時間かけて全区画の補修を終え、アルスは祭壇の階段に腰を下ろした。息が荒い。指先が微かに震えている。ローブの袖で額の汗を拭うと、布地が冷たく肌に張りついた。視界の端がちらつく。魔力の過剰消費による眩暈だ。これだけの魔力を毎晩注ぎ込んでいることを、誰も知らない。
先代宮廷魔導士グラナドが遺した手記の一節が、ふと頭をよぎった。
『お前の力を、宮廷は理解しない。それでも守れ。お前が守らねば、この都は三日で落ちる』
三年前に逝った師の言葉。あの人だけが、アルスの魔力の本質を知っていた。そして、その本質を宮廷から隠すよう命じたのも、あの人だった。
——先代。俺はまだ、あなたの言いつけを守っていますよ。
立ち上がる。膝が一瞬笑った。壁に手をついて体を支え、深く息を吐く。夜明けまであと少し。仮眠を取って、また誰にも気づかれない一日が始まる。
朝の回廊は、騎士たちの喧騒で満ちていた。
アルスは壁際を歩く。宮廷魔導士の正装——紺色のローブを纏っているが、すれ違う者で敬意を払う者はいない。寝不足で重い体を引きずりながら、磨き上げられた石畳の上を歩く。窓から射し込む朝日が眩しい。地下の闇に慣れた目には、この光がいつも少しだけ痛い。
前方から騎士見習いの一団が歩いてきた。五人。まだ十代の若者たちだ。回廊の幅は三人が並べる程度。アルスは右に寄った。だが見習いたちは避けない。むしろ横に広がった。
「——失礼」
アルスが壁に背をつけて道を譲る。見習いの一人が、ちらりとこちらを見て笑った。
「結界石の管理人だろ。朝から暇そうだな」
別の見習いが声を潜めて言う。「あいつ、魔導士って肩書きだけど、実戦じゃ使い物にならないらしいぜ」
「先代の弟子ってだけで宮廷魔導士になれるんだから、いい身分だよな」
笑い声が遠ざかっていく。聞こえている。だが、訂正する意味はない。
見習いたちが去った後、アルスは歩き出した。向かう先は大広間。今朝は月例の防衛報告会がある。結界の状態を報告する——誰も聞いていない報告を。
大広間の扉を開けると、すでに主要な面々が揃っていた。国王の玉座の下、長卓を囲むのは騎士団長ガレス、副魔導士レナード、各部隊の隊長たち。アルスの席は末席。給仕の隣だ。
「では、防衛報告を始める」
ガレスが立ち上がる。銀髪を撫でつけた長身の男。鎧の上からでも分かる鍛え抜かれた体躯。王国最強の剣士であり、宮廷における実質的な権力者だ。
「まず結界について。結界石は今月も安定稼働している。特段の問題はない」
アルスの報告の順番を飛ばして、ガレスが言い切った。
「……騎士団長」
アルスが手を挙げる。「北東区画の劣化が進行しています。補修に必要な魔力量が先月比で一・四倍に——」
「結界石は自動で動いている」
ガレスが遮った。視線すら向けない。
「俺が言っているのは区画ごとの——」
「アルス宮廷魔導士」
今度はレナードが口を開いた。金髪を肩まで伸ばした細身の男。副魔導士でありながら、社交術と政治力ではアルスを遥かに凌ぐ。
「結界石の自律機能については、先代グラナド師の論文にも記載があります。あなたが毎夜わざわざ地下に降りているのは存じていますが、それは——なんと言いますか、儀式的な習慣のようなものでしょう?」
笑いが漏れた。隊長の一人が口元を押さえている。
アルスは口を閉じた。
先代の論文。確かにグラナドは、結界石の自律駆動に関する偽の論文を発表していた。アルスの真の役割を隠すために。だが、それが今はアルス自身の首を絞めている。先代が張った防壁が、そのまま檻になった。皮肉だった。
「報告は以上ですね。次、東部国境の件——」
ガレスが話題を変えた。アルスの報告は、議事録にすら残らない。
会議が終わり、広間を出る。背後でレナードの声が聞こえた。
「ガレス卿、結界の件ですが、正直なところ副魔導士の私一人でも管理は可能です。宮廷魔導士の席は、もっと有能な人材に充てるべきでは」
「同感だ。だが、先代の遺言で据えた人事だ。国王陛下が簡単には動かん」
「ええ。ですから、何か——きっかけがあれば」
アルスは足を止めなかった。
十二年。毎夜、魔力を削って結界を維持してきた。感謝はいらない。理解もいらない。ただ、自分がやらなければ王都が滅ぶから、やってきた。
だが今の会話で、一つだけ確信したことがある。
レナードは「きっかけ」を探している。アルスを宮廷から排除するための、決定的な一手を。
——来るなら来い。
そう思った次の瞬間、自分の考えを否定した。
——いや。来たところで、どうにもならない。俺がいなくなれば結界は落ちる。宮廷は俺を切れない。
そのはずだった。
回廊の窓から差す朝日が、アルスの影を長く伸ばしている。その影は、誰にも踏まれることなく、誰にも気づかれることなく、石畳の上を静かに滑っていった。
夕刻。アルスは自室で先代の手記を開いていた。
自室と呼ぶには質素すぎる部屋だ。石壁に囲まれた六畳ほどの空間に、寝台と机と書棚があるだけ。宮廷魔導士の居室としては信じがたい狭さだが、アルスから改善を求めたことはない。求めたところで通らないことを知っているし、そもそもこの部屋にいる時間は短い。夜は地下祭壇、昼は誰にも呼ばれない回廊。ここはただ、眠るためだけの場所だった。
革張りの古い手帳。グラナドの几帳面な文字が並ぶ。何度も読み返したページがある。インクが薄れかけた箇所を、指でなぞる。
『アルス。お前の魔力属性は特異だ。空間系統——この王国に百年現れなかった属性。宮廷がこれを知れば、お前は兵器として扱われる。だから封じる。宮廷にいる限り、結界維持に必要な基礎魔法だけを使え。お前の本当の力は、お前自身を守るために取っておけ』
空間魔法。先代が施した封印は今もアルスの体内にある。使えるのは通常の魔法体系のみ。それでも結界維持には十分だった。
手記を閉じる。革表紙の手触りが、師の大きな手を思い出させた。不器用で、厳しくて、けれど最後までアルスの味方だった人。あの人がいなくなってからの三年間、アルスは一度も弱音を吐いていない。吐く相手がいないのだから、当然だった。
窓の外では、王都の街並みが夕焼けに染まっている。アルスが十二年守り続けた景色。煉瓦造りの家々の煙突から夕餉の煙が立ち上り、広場では子供たちの笑い声が微かに聞こえる。この街の住人は、頭上に結界があることすら意識していない。空気のように当たり前だから。
そして空気のように、アルスの存在も透明だった。
——明日も同じ一日が来る。
そう思っていた。
だが翌朝、王女の寝所で暗殺未遂事件が発生する。
そしてアルスの「同じ一日」は、二度と戻らなくなる。