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呪い喰らいの最弱少年

第3話 第3話

第3話

第3話

視界全体が黒い砂嵐に沈んでいた。

『永劫侵蝕:致死・解除不可』——赤い文字の表面を、黒い粒子が這い回り、輪郭を削り取っていく。痛みは骨の内側を何本もの錐で抉りつづけ、呼吸の一拍ごとに頂を更新した。岩の窪みで仰向けになった俺の左手は、もう自分の意志で動かない。指先を握ったつもりが、爪が掌に触れている気配すらなかった。

意識が、薄氷のように割れていく。

割れた隙間から、もっと深い闇が覗いている気がした。井戸の底のような、夜のさらに裏側にある暗闇。そこへ引きずり込まれるのを、皮膚一枚でかろうじて踏みとどまっている。歯の根が合わず、舌の付け根が鉄の味で痺れている。耳の奥では、自分の心拍が遠ざかったり近づいたりを繰り返し、その間隔がだんだん不規則になっていくのが分かった。

——死ぬ。

そう思った瞬間、視界の粒子が、逆に動いた。

黒い砂が、俺の内側から吹き出している。胸の奥、痛みの震源から湧き上がった粒子が、喉を逆流して目の裏側を満たした。『永劫侵蝕』の文字が砂に呑み込まれ、輪郭ごと溶け落ちる。赤い色が滲み、滴り、画面の下へ零れて消えた。最後に残った『解』の一文字が、にじんだ朱を引きずりながら、ゆっくりと闇の底に沈んでいくのを、俺は瞬きもせずに見届けた。

かわりに、暗い地平のような空白が広がる。

空白の中央に、別の文字が、一画ずつ、墨を落とすように浮かび上がった。

『侵——』

一文字目が確定した瞬間、全身の骨が跳ねた。背筋を稲妻が縦に走り抜け、後頭部の毛根の一本一本が逆立つ。指の先まで電流が走り、麻痺したはずの左手の爪の付け根が、ちりちりと細かく弾けた。

『——界』

二文字目で、胸の奥の熱が反転した。焼けていたはずの肋骨の裏側で、熱がぐるりと向きを変え、内側から外側へと押し返されていく感覚。砂時計をひっくり返した瞬間に似た、奇妙な静けさが胸郭の奥に広がった。耳鳴りの高音が一段下がり、遠くで湧いていた水音のような響きに変わる。

『——喰』

『——蝕』

四文字が並んだ瞬間、視界の黒砂が一気に吸い戻された。俺の胸の一点に、滝のように流れ込んでくる。逆流、ではない。収束だ。散らかっていた痛みの粒が、ひとつの器に向かって整列していく。蛇口を捻ったように、無秩序だったものが一本の細い流れに束ねられ、行き先を与えられて消えていく。

『固有スキル:侵界喰蝕(イクリプス・デヴァウア)』

文字の下に、小さな注釈が続いた。

『効果 — 状態異常・呪い・デバフを喰らい、自身の力に変換する』

『代償 — 灼熱痛』

最後の三文字を読み終わると同時に、痛みが——引いた。

引いた、と呼ぶには乱暴だ。正確には、骨を刺していた錐の向きが変わった。内側から外側へ、抉る方向から、吐き出す方向へ。神経の一本一本を逆向きに撫でられるような、鳥肌の裏返しのような、奇妙な解放感。背中の汗が一気に冷え、額に張りついていた前髪の重みが、ようやく現実の感触として戻ってきた。

「……は」

乾いた笑いが喉から漏れた。声が出た、ということに遅れて気づく。

「は、は……マジか」

掠れた声が二度、三度と続いた。耳に届いたそれが、自分のものだと認識するのにまた一拍かかる。死にかけの人間が漏らす音にしては、間が抜けすぎていた。笑いの尾に、泣き笑いのような震えが混じっているのが、自分でも分かった。喉仏が意味もなく上下する。

右腕に、感覚が戻っていた。

最初は指先から。爪の下の、微かな脈動。次に掌の湿り。肘、肩。麻痺の壁が、波が引くように後退していく。肩まで戻った感覚が、胸に届き、腹に届き、腰に届いた。最後に、つま先で何かを踏んでいる感触——湿った苔の冷たさ——が戻ってきて、ようやく自分の輪郭が完成した気がした。

呼吸ができる。

岩の背もたれに後頭部を預けたまま、俺は自分の手を目の前に翳した。五指が開く。爪の間に詰まった土の黒が、はっきり見える。木々の隙間から差す月光が、指の隙間を通って目に届く。視界の歪みも、耳鳴りも、消えていた。代わりに、葉擦れの音や、遠くで鳴く夜鳥の声が、輪郭を持って耳に届きはじめる。

ただ——空気が、重い。

吸い込むたびに、何かが肺の奥から先回りして俺の体に入ってくる。見えない粘度のあるものが、鼻腔を通り、気管を撫でて、胸の一点——さっき文字が収束した場所——に吸い込まれていく。喉の奥に、わずかに鉄の後味が残った。血の味とも違う、もっと古い、錆びた金属を舐めたような味だ。舌の側面に、それはしばらく居座ってから、ゆっくりと退いていった。

周囲の空気が、目に見えない流れで俺に向かって引き寄せられていた。

上体を起こし、地面に左手をついた。

湿った落ち葉の下から、うっすらとした黒い靄が立ち昇っている。昼間、俺の足首に絡みついたのと同じ靄だ。森そのものが、ほの暗い瘴気を漂わせていたらしい。今までは気づきもしなかった。気づかなかった、というより——気づける器官を、俺はさっきまで持っていなかった。

その靄が、俺の指先に向かって動いている。

掌を地面から離す。靄は指を追うように立ち上がり、皮膚に触れた瞬間、すっと消えた。味はしない。匂いもしない。ただ、胸の一点がわずかに熱を持つ。焼けるような熱ではなく、熱い湯呑を両手で包んだときの、あの鈍い熱だ。指先には、靄が触れた残響のような、微かな痺れが残っている。指の腹でそれをもう片方の掌に擦りつけてみたが、痺れは皮膚の奥へ逃げていくだけで、掴めなかった。

——なるほど。

頭の端で、小さく整理する。

呪いを喰って、力に変える。代償は灼熱痛。

単純な話だ。単純な話のはずだった。単純すぎて、さっきまで死にかけていた人間が今こうして息をしている事実と、釣り合いが取れない。心臓の鼓動が、ようやく一定のリズムに戻りつつある。それでも、胸の奥のあの一点だけは、別の生き物のように、独立した脈動を刻みはじめていた。

試しに、掌を天に向けて開いた。

周囲の黒い靄が、ゆっくりと渦を巻いて俺の掌に吸い込まれていく。ひと呼吸、ふた呼吸。三呼吸目に、胸の奥が小さく唸った。針先ほどの熱が、肋骨の裏側で点ると、そこから細い線になって鎖骨の下を這った。線は二筋、三筋と増え、肩甲骨のあいだで合流し、また散る。皮膚の下に、誰かが細い焼き鏝で線を引いているような感触だった。

それが、代償か。

思ったより軽い、と感じて——直後に、それが間違いだと悟った。

ほんの一握りの瘴気で、これだ。本格的に喰らえば、きっと昼間の痛みに近いものが戻ってくる。代償の文字に『灼熱痛』とだけ書かれていた意味が、ようやく重みを持った。強く喰えば、強く焼ける。等価交換だ。喰えば喰うほど強くなる、ではない。喰えば喰うほど、自分が炉になる。舌で唇を舐めると、乾いた皮が薄く剥がれた。無意識に、俺は喉の奥で唾を飲み下していた。

ステータスの表示を呼び戻す。

『侵界喰蝕(イクリプス・デヴァウア)』の文字の下、先ほどはなかった欄が追加されていた。

『現在の蓄積 — 微量』

数値ではなく、言葉で表示されるらしい。微量、小、中、大。段階があるのか、別の単位か。試さなければ分からない。試したくない、という気持ちと、試すしかない、という気持ちが、胸のなかで同じ重さでせめぎ合った。

少なくとも、俺はもう『スキルなし』ではない。

その事実を噛みしめる余裕が、ほんの数秒だけあった。

次の瞬間、空気が揺れた。

遠く、森の奥。

地面が、震えた。岩の窪みに腰を下ろした俺の尾骨に、低い振動が伝わる。続いて、鼓膜が押される。音より先に、空気そのものが重く膨らみ、木々の枝が一斉に同じ方向へ撓んだ。葉から雫が落ち、俺の手の甲を冷たく叩く。

——咆哮だ。

喉の奥から放たれた低音が、森の腹を引きずるように転がってくる。近い。音の遅れ方からして、数百メートル先。足音も混じっていた。二本足、いや四本足か。木の根を踏み砕く乾いた音が、規則的に間隔を詰めてくる。

靄の流れが変わった。森の奥から、濃い瘴気がこちらへ向かって押し寄せてくる。さっきまで俺に吸い寄せられていた靄が、一斉にその方角へ引き戻されている——いや、違う。靄の中心が、こちらへ歩いてきている。

腰の布袋を引き寄せ、ナイフを握り直す。柄の革が、汗を吸って手に馴染んだ。

立ち上がる膝は、笑っていない。

『侵界喰蝕』の文字が、視界の端で静かに点灯していた。

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